花は手折らぬ | ナノ

1慰藉


[2017年6月(五条27歳/名前20歳)]



 ドレッサーの鏡に映る自分の顔は酷いものだった。
 いつもより時間をかけてきちんとしたメイクを落とさずに寝てしまったせいで、肌にのせたファンデーションはどろどろになっていた。涙で落ちてしまったマスカラは目の周りや頬にくっついている。おまけに泣きすぎたせいか、目は今まで見たことがないくらいに腫れぼったくなっていた。

 昨日の20歳の誕生日に、私は悟くんに振られた。
 振られることを全く予想していなかったわけじゃない。むしろうまくいく可能性の方が低かった。でも悟くんには珍しく一年くらい前から彼女がいなかったし、最近の悟くんの私への態度も相まって、もしかしたらもしかするかもしれないという奇跡を期待してしまっていた。
 そうは言っても、悟くんから改めて告げられる答えを受け入れる覚悟ならとっくに出来ていると思っていたのに。
 子供の時にした約束を、悟くんが守ってくれると信じてたわけじゃない。そもそも、悟くんは“考えてくれる”と言っただけだ。大人になったら、私をお嫁さんにしてくれると確約してくれていた訳じゃなかった。
 私は全部わかっていた。わかっていながら、随分昔にした約束をつい持ち出してしまったのは、実際には私は振られる覚悟が全然出来ていなかったんだと思う。自分の思いが受け入れられないからといって、悟くんに八つ当たりするなんて。私は何をやっているんだろう。

 12年近く抱いてきた恋心を、そう簡単に失くすことは出来ない。けれどこのやり場のない想いを理由に、悟くんにこれ以上迷惑をかけるわけにもいかない。
 だって悟くんは、私の命を救ってくれただけじゃない。呪術高専を卒業した後、何の見返りも無しに、こんな私の面倒をずっとみてきてくれた。好きだということを抜きにしても、悟くんは私にとって、文字通り命の恩人だ。
 
 悟くんへの今日からの接し方を考えていた私は、自分の部屋のドアを開けてみて驚いた。てっきり任務でいないとばかり思っていたのに、リビングにあるソファに、悟くんは脚を組んで座っていた。ソファの前にあるローテーブルには、シュガーポットが置いてある。多分、悟くんがいつものように愛用のマグカップで飲んでいるのは、砂糖が信じられないくらい沢山入ったコーヒー。

「おはよ。
 随分のんびりだったね。
 昨日はそのまま寝ちゃったでしょ?
 お風呂沸かしといたから、入っておいで。
 名前のお気に入りの入浴剤も入れといたからさ」
「……え? あ、ありがとう」

 悟くんは私が起きたのを見ると、なぜか掛けているサングラスを外した。そして、信じられないくらい綺麗に私に向かって微笑んだ。昨日振られたばかりだというのに、悟くんの笑顔に私はまた性懲りもなくときめいていた。
 なんでだろう。私を悟くんは振ったのに。ううん、私を振ったからなの? いつも以上に、それこそ怖いくらいに、悟くんの碧い瞳を優しく感じてしまう。

「目、大丈夫?
 って、泣かせた僕には言われたくないか。
 ゆっくりお湯に浸かりながら、目元冷やしておくといいよ」

 そう言って、悟くんはソファから立ち上がると、冷蔵庫から何かを取り出した。冷蔵庫のドアを閉めた後は、悟くんはリビングから出ていく。かと思えば、すぐにリビングに戻ってきた悟くんが、今度こそ私に近づいた。
 悟くんは脚が長いから、広いリビングでも悟くんと私の距離は簡単に縮まる。そうして目の前の悟くんが私に差し出したのは、柔らかい素材のタオルに包まれた保冷剤だった。悟くんはさっき、このタオルをお風呂場に取りに行ってくれていたんだ。悟くんが私を気遣ってしてくれた行動に、胸が自然ときゅうっと締め付けられる。

 もらった保冷剤と着替えを持って、悟くんに言われるがまま私がお風呂場に向かうと、確かに浴槽にはお湯が張られていた。中のお湯も、鮮やかな碧色に染まっている。
 私がこの入浴剤が好きなのは、この色が悟くんの瞳の色に似てるからってこと……、悟くんはわかってるのかな。わかっているんだとしたら、私を振った後に、一体どんな気持ちでこんなことをするんだろう。

 今までなんだかんだで、でもまだ可能性があるとプラス思考でいられたのは、私が未成年だったからだ。子供とは付き合えないと悟くんが言ったから。でもちゃんと大人になった今、きっぱりと私は振られてしまった。
 この気持ちが悟くんを困らせるだけなのはわかってる。でも、どうしたらいいんだろう? 悟くんを諦めなきゃいけないことは理解できるのに、この恋の上手な終わらせ方だけが、どうしてもわからない。
 悟くんの瞳のように美しい碧色の水に浸かりながら、自分の恋心への折り合いの付け方を必死で考えてみた。けれど結局、そんな方法は思いつかなかった。





 お風呂から上がってリビングに戻ると、悟くんは最初に見た時と同じように、ソファに腰掛けていた。
 私がドアを開けると、悟くんがすぐに私の方に顔を向ける。よく見ると、悟くんの手にはドライヤーが握られていた。お風呂から上がった後、洗面所でドライヤーをいくら探しても見つからない訳だ。でもまさか、悟くんが持っているなんて。

「どう? 少しはさっぱりした?」
「お、おかげさまで」
「それ聞いて安心したよ。
 こっちおいで。髪乾かしてあげるから」

 ニコニコしながら手招きされて、大人しく悟くんの脚元に座れば、悟くんは宣言通りに私の髪を乾かし始めた。
 初夏のこの季節でも東京は暑い。冬生まれの悟くんは暑いのが嫌いで、クーラーがかかっているこの部屋は暑さとは無縁の涼しくて快適な空間だ。けれど私に気を使ってか、悟くんは温風と冷風が交互に出るモードに切り替えている。ドライヤーをあてながら、私の髪を撫でる大きな手の感触がとても気持ちいい。

「はい、終わり。
 いやー、改めて触ってみるとオマエの髪ってさらさらだね」
「……どうして?」
「ん、なに?」
「なんでそんなに優しくしてくれるの……?」
「そんなの、名前が僕に振られて傷ついてるからでしょ」
「……」
「もしかして、案外平気だったりする?」
「そんな訳……っ」
「あー、泣かない泣かない。
 ちょっと話そうか」

 昨日私を振ったのは悟くん。今、甘い笑顔で私に優しくするのも悟くん。
 矛盾していて一貫性が無い悟くんの行動にひどく混乱していた私は、悟くんのいつもの冗談をうまく流せなかった。思わずまた泣き出しそうになる私に、悟くんは小さい子供をあやすように優しく、隣に座るように言う。悟くんの横に座ると、悟くんは私の目元あたりに親指で触れた。私を見る悟くんの瞳の碧色が余りに美しくて、その瞳の中に吸い込まれてしまいそうだった。なんで悟くんは、昨日掛けてたサングラスを今は外しているんだろう。

「僕に振られたの、そんなにショック?」
「当たり前だよ……!
 ずーっと、悟くんが好きなんだもん。悟くんだけが」
「名前はさ、なんで僕と付き合いたいの?
 あ、僕を好きだからっていう理由以外でよろしくね」
「……だって、悟くんと一緒にいたいんだもん。
 それには、悟くんのお嫁さんになるのが一番いいのかなって」
「なんだ。
 オマエの気持ちには答えられないけど、今言ったことなら普通に叶えられるよ。
 だって別にこれからだって、何も変わんなくない?」
「え?」
「僕、オマエのことは大事に思ってるって言わなかった?
 どうでもいいと思ってたら、将来有望な呪術師でもなんでもない奴の面倒見たりしないって。
 当然、これからもずっと、オマエは僕と一緒にいるでしょ?」

 なんでもないことのように、私が一番望んでいる未来を口にする悟くんに、すぐに返事が出来なかった。
 悟くんのことが大好きだから、結婚したいってずっと思ってた。だって結婚すれば、悟くんの一番近くにいられる。お父さんとお母さんは、お互いに愛し合っていたけれど、結婚はしていなかった。そのせいで、お母さんがお父さんの傍にはいられなかったことも知っている。
 私は何にも持ってない。そんな私が、何もかもが特別な悟くんと一緒に居続けるには、悟くんに好きになってもらって、結婚するしか方法は無いと思ってた。けど、私のことを好きじゃなくても、悟くんは一緒にいてくれると言う。
 
「付き合えないんなら、名前は僕とは一緒にいたくない?」
「そんなわけないよ……。
 悟くんが良いって言ってくれるなら、一緒にいたい」
「じゃあ決まりね。ほら、約束」

 言葉を発しない私を、悟くんは綺麗な瞳で真っ直ぐに見つめて、答えがわかりきった質問をする。それに答えれば、悟くんは柔らかく微笑んでくれた。
 悟くんがしてくれているように、私が小指を差し出せば、小さい頃してくれたみたいに、悟くんは指切りまでしてくれた。

「どうしたら、悟くんは私のこと好きになってくれる?
 悟くんが好きになってくれるなら、私なんでもするよ」

 随分と欲張りになってしまった私は、やっぱり諦めが悪い。悟くんに好きになってもらえる可能性がほんのちょっとでもあるなら、それに縋りたくてまだこんなことを聞く私に、悟くんは困った様子だ。

「……なんでもするだなんて、簡単に言うもんじゃないよ」
「何してもだめなら、そう言ってよ……。
 そしたら……、何年かかるかわかんないけど、ちゃんと悟くんのこと諦めるから」
「……」

 悟くんは、私がしたお願いには答えてくれなかった。代わりに、悟くんは私が予想もしていなかったような提案をした。

「しょうがないなぁ。
 欲求不満のオマエのために、ハグぐらいならしてあげてもいいよ」
「よ、欲求不満って……!」
「僕のこと、好きで好きでしょうがないんでしょ?
 あんまり可哀想だから、ハグぐらいならまぁいいかなって。どう?」
「ど、どうって言われても」
「あれ、不満?
 名前なら結構喜ぶと思ったのにな」

 出会ってからずっと、私は悟くんしか見てこなかった。だから、同年代の男の子に何回か告白をされたことはあっても、付き合ったりした経験は無い。でも私にも、わからないなりに友達の恋バナを聞いてきた経験や、ドラマや漫画で培った知識がそれなりにある。だから、振られた相手にこんなことを言われたら、ふざけないでって怒るのが正解の反応なんだと何となくわかる。振った相手にこんな事を言うなんて、バカにしてるのかと思う女の人もいるのかもしれない。

「名前がいらないって言うんなら、僕は別にいいけどさ」
「待って! いらなくない……っ!
 ほ、ほんとにいいの?」
「だからそう言ってんじゃん。
 ハグくらいなら、今日からスタートで期限なし。一日の回数も限度なしでいいよ」
「悟くん、そ、それ、い、今使ってもいい……?」
「あははっ。早速? 欲しがりだなぁ。
 いいよ。はい」

 他ならぬ悟くんがいいと言うのなら、差し出してくれる温もりを私が拒める訳がない。悟くんに関することに、私はプライドなんて1ミリも持ち合わせていないのだから。
 せっかくしてくれた提案を取り下げようとする悟くんに、慌てて制止をかければ、悟くんはくすくすと笑った。その後、軽く腕を広げて私が抱きつくのを待つ悟くん。そ、そっか。そうだよね。この場合、私から行かないとなんだよね。

「待って。やっぱり無理かも……」
「どうしたの?
 昔は僕が大好きだって言って、よく抱きついてきたじゃん。
 僕の無限で遊んであげてた時も、ベタベタくっついてきたのに。
 どう考えてもあの時の僕より、今の僕の方が抱きつきやすくない?」
「一体いつの話してるの?
 それは私が小さかったからだよ……。
 い、今はだめ。できないよ。
 悟くんに抱きつくなんて、恥ずかしすぎるもん」
「えぇ? 何を今更。
 昨日だって、オマエは恥ずかしげもなく僕に抱きついてきただろ」
「そ、それはお酒の力もあって、気が大きくなっていたというか」
「そうなの?
 ていうか、オマエの顔真っ赤じゃん。ウケる。
 まだ何にもしてないのにね」

 自分から悟くんの腕の中に飛び込むことが出来ない私を、悟くんは首をかしげて不思議そうに見た。
 どうしよう。悟くんが許してくれているのに。こんなチャンスを不意にするなんて、そんな勿体無いこと考えられない。でも、それこそお酒の力でも借りなければ、悟くんに抱きつくなんて出来ない。ただひたすら悟くんが好きだった、少女だった頃の無邪気な私と、今の私は違う。
 どうすることも出来なくて、この話は流れてしまうかと思ったのに、そうはならなかった。行動を起こさない私を見かねて、悟くんの方から私を抱きしめてくれたからだ。
 
「オマエのそういうすぐ照れちゃうとこ、ほんと可愛いよねぇ」
「えっ。さ、悟くん、なにしてるの……っ?」
「だって名前がいつまでも来てくれないからさ。いい加減待ちくたびれちゃって」

 悟くんは多分私のことを憎からず思ってくれているんだろう。でも、私と同じ“好き”だけはどうしてもくれない。それ以外の全部をくれるのに。
 この人の温もりが、本当の意味で私のものになる日が来ることは無い。そう思うと、感じる悟くんの体温になんだか泣けてきた。堪えようとしても、今度ばかりは涙が溢れ出て来てしまう。

「また泣いてるの?
 照れたり泣いたり、名前は忙しいな」
「だって、振られた今でも、悟くんのことが好きなんだもん。
 好きすぎて、変になっちゃいそうなくらいに」
「……ごめんね。
 彼女にはできないけど、オマエは僕にとって特別なことに変わりはないよ。
 これまでも、これからもね」

 服が涙で濡れてしまうのに、悟くんは私が落ち着くまで、離さないでずっと抱きしめてくれていた。背中をそっと撫でてくれる悟くんの手が心地良い。出来ることなら、このままずっとこうしていたい。心からそう思った。

「お、涙止まった?
 じゃあさ、名前の好きなフレンチトースト、一緒に食べようよ。
 実は昨日の晩から液に浸して、あとは焼くだけの状態にしといたんだよね」
「……あんまり食欲無いから、後で食べる」
「えー、なんか食べなきゃダメだろ。
 僕が食べさせてあげるから、少しぐらい胃に入れな」
「待って……!
 食べるから……、あともうちょっとだけ、このままがいい……」
「まぁ一回あたりの制限時間とか、特に言わなかったしね。
 いいよ。オマエがいいって言うまで、このままでいてあげる」

 こうやって抱きしめてはくれるけど、悟くんが私にキスをしてくれることは、この先も絶対に無い。その事実に、胸が張り裂けそうだった。けれどそれでも構わないと思った。これから先、悟くんが私と同じように私を想うことはなくても、この温もりを拒んたり手放すことは、私にはきっと出来ない。
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