018当惑
※ここから特に記載がない限り、名前視点で話が進んでいきます。
[2017年3月(五条27歳/名前19歳)]
瞼を開けると、まず視界に入ってきたのは私を見る悟くんだった。
「ごめんごめん。
起こしちゃった?」
「ん、大丈夫……」
今日はこれから任務に行くのか、悟くんの目元は隠されている。
悟くんが呪術師の仕事で、すごく忙しくしているのは以前からわかっていた。けれど、こんな早くに家を出て行かなくてはならないなんて知らなかった。今までずっと、私より早く出て行かなきゃならない時は、悟くんは家を出る時間を教えてくれなかったから。"教えたら、名前はどうせ僕の見送りとかするんでしょ? だから教えてあげない"なんて悟くんは言っていたけど、優しい悟くんは、私を気遣ってくれていたのかもしれない。カーテンの隙間から覗く窓の向こうの空は薄暗く、まだうっすらと夜の気配が残っていた。
こうして首元に這う大きな手の感触で目を覚ましてしまうことが、最近時々ある。
悟くんの話では、寝ている私に悟くんが触っても大体私は気付かないらしい。でも、そうなるとおかしなことになってくる。だって悟くんに首元に触れられて起きた回数は、もう両手の指の数は優に超えているはず。
『な、なんでなの?』
『なんでって何が?
あぁ、こうやってオマエに触る理由が知りたいの?』
『うん……』
『名前は嫌?
僕に触られるの』
『そんなことない!
ただ、びっくりしちゃう時もあるから……』
『オマエが寝てるとさ、どうしても思い出しちゃうんだよね』
『え?』
『わかんない?
生存確認だよ。
オマエに死なれるなんてこと、あったら困るの』
今みたいなことが何回か繰り返された後に、私は悟くんに訳を尋ねた。
どんな理由であれ、悟くんに触れられることを私が嫌がるはずがない。とはいえ、好きな人の前では可愛くありたいという乙女心を、私だって少なからず持っている。間抜けな表情をしているに違いない私の寝顔を何度も見られるのには抵抗があった。気にしない訳にはいかない。だって私の好きな人は、どんな時でもその容姿の完璧さが揺らがない悟くんなんだもの。
だけど、悟くん本人にこんな風に言われてしまったら、寝顔を見られたくないという私の言い分は、とても言い出せなかった。
私からしたら、寝て起きたら数週間が過ぎていたというだけ。だから全然実感は無いけれど、もしかしたら死んでしまっていたかもしれない目にあった時から、悟くんは少し変わった。
◆
「何言ってんの?
ダメに決まってるでしょ」
「どうして?」
「なんで僕が許すと思ったの?
僕からしたら、そっちの方が不思議だよ」
夕飯の後にした私の相談は、悟くんにバッサリ一言で一刀両断されてしまった。ため息をつきながら答えた悟くんは整いすぎてる顔を歪めている。経験則からわかる。こういう顔をする時の悟くんは、私に呆れている。
「ていうか何か欲しいものがあるなら、そう言いなよ。大抵のものは買ってあげられるよ?
名前は知らないかもしれないけど、特級は給料いいし、僕の実家もまぁまぁお金はあるからさ。
お金だけは僕困ってないんだよね。
それで、なにが欲しいの?」
「違うの。
欲しいものとかは特に無くて……」
「あぁ、今あげてるお小遣いが単に足りないってだけ?
言ってくれれば好きなだけ上乗せするのに。言ってよ。いくら?」
「そうじゃなくて……」
私がアルバイトを始めたいと言ったのを、悟くんは最初に欲しいものがあるのだと思ったみたい。それを否定すると、今度はお小遣いをアップしてくれると言う。首を横に振る私を、黒いサングラスの奥から見返す悟くんは怪訝そうな顔だ。
ずっと思っていたことだけれど、悟くんは金銭感覚が普通の人と違い過ぎる。通っていた学校で、貰えるお小遣いの額の話題になった時、私はそれを改めて知った。一般的に貰える額より多すぎるんじゃないかとは思っていたけれど、悟くんがくれるお小遣いは相場の何十倍もあった。下手したら働いている人のお給料くらいあるお小遣いの扱いには、今も随分困っている。それを学生相手にポンとくれるから、多分悟くんの言うことは事実としてあるんだと思う。
でも……。
「悟くんからもらうお小遣いは毎月殆どが余るくらい多すぎるから、これ以上いらないよ……!
アルバイトしたいのは、ずっとお世話になってるから、その、食費ぐらいはバイト代で稼げないかなって思って……。
それに、悟くんにプレゼントとかする時、自分で稼いだお金で買いたいの」
「いらない」
「……え?」
「名前が僕のために何かしたいっていう、その健気な気持ちは嬉しいよ。
でもバイトなんかしたら、これまでより行動範囲が広がるわけでしょ?
名前が危険に晒される可能性が上がることを、僕は許可できないよ」
「危険って……、大丈夫だよ。
悟くんが持たせてくれた呪具もあるし……」
「大丈夫じゃなかったから、オマエは死にかけたんでしょ。
忘れたの?」
「そ、それは、私が気をつければ」
「いくら気をつけたってダメなもんはダメなの。
オマエは簡単に人を信じるからね」
「そんなこと……」
「無いとは言えないよね?」
かけてるサングラスを外して、悟くんは青い瞳で真っ直ぐに私を見つめた。普段の悟くんはいい意味で軽い雰囲気を纏っているから、珍しく真剣な表情をした悟くんにはちょっとだけ気遅れしてしまう。悟くんは怒ってはいない。けれど、美人さんが怒ると怖いというのは、確かに的を得ているのかもしれないと思った。
「本当は学校ももう行って欲しくないくらいだけどね、それはさすがにオマエも嫌でしょ?
だから定期的に僕に連絡するっていう条件つきで、これまでの生活を続けることはオーケーしたの。
悪いけど、これ以上は譲歩できないよ」
「だけどね、私」
「名前。いい子だから、僕の言うこと聞いて」
「いくら悟くんのお願いでも、出来ないよ。
だって私、悟くんのために何も出来てないもん」
「僕のためって言うんなら、何もしないで。
僕はただ名前がいればそれでいいの。
約束したでしょ? 僕に心配かけさせないって。
名前は僕との約束破るんだ?」
「そうじゃないよ……」
私を映す綺麗な青い瞳と目が合った。ここで引き下がってはダメだ。でも、悟くんとした約束を引き合いに出されたら、何も言えなくなってしまって、次の言葉が出てこない。すると、タイミングが良いのか悪いのか、お風呂が湧いたお知らせの音楽が流れた。
「約束守ってくれるよね、オマエなら。
この話はもう終わり。
先にお風呂入ってきていいよ」
「……うん。ありがとう」
話を切り上げるのにそれを利用した悟くんは、これ以上話をする気は無いことを示すみたいに、外したサングラスをまた掛けた。
私だってむやみに悟くんを困らせたくはない。ここは悟くんの言う通りにすることにした。
温かい湯船に浸かりながら、私は目を閉じて考え事をしていた。
内容は、ここ最近の悟くんの私に対する態度のこと。さっきの話し合いの中で悟くんが私に掛けた言葉もそうだし、悟くん曰く"生存確認"の行為だってそう。それに、最近悟くんから絶対にしてと頼まれている定期的な連絡もそうだ。
悟くんには、今までしていた家を出る時と帰った時の報告に加えて、2時間おきに連絡をして欲しいと言われている。前にレポートを書く作業に夢中になっていてその報告をうっかり忘れてしまった時、何十件も悟くんからの着信が溜まっていたのには驚いた。
前とは明らかに異なる悟くんの言動の数々に、私はいつも、どうしたらいいのかわからなくなる。
わかってる。悟くんがこれまでと違うのは、私が危うく死にかけたから。
悟くんは優しい。だから悟くんの言動の理由は全部、私の身を心配する気持ちから来ているんだと思う。それ以外の理由なんてのはない。
でも悟くんをずっと好きな私は、期待する気持ちをどうしても抑えられない。だって今まで、こんな事なかった。もしかしたら悟くんは、私と同じ気持ちになってくれているのかもしれない。ううん、そんな奇跡みたいなことある訳ない。そうやって低い可能性に存分に期待を膨らませてみたり、次の瞬間にはその可能性を激しく否定したり。気分がふわふわと宙に浮くみたいに軽くなったり、反対に胸に鉛が埋まってるみたいに重くなったりして、全然落ち着いてくれない。
そうやって、眠る前にいつもするみたいに悟くんのことを考えていたら、温かいお湯の中で目を瞑っていたことも手伝って、次第に私の意識は遠のいていった。
「名前……、おい、名前! 返事しろよ!
名前!」
「悟くん……?
あれ……、なんで?」
置かれている状況を理解するのには、少し時間がかかった。目の前には、サングラスをかけた悟くん。その悟くんは、心配そうに私の名前をしきりに呼んでいる。
「良かった。
全然風呂場から出てこないから何かあったのかと思ったけど、寝ちゃってただけだね。
もう、びっくりさせないでよ」
私が起きたのを見ると、悟くんは私の肩を掴んでいた両手をそっと外した。そうだ、私お風呂の中で寝てしまったんだ。って、あれ? 悟くん?
「きゃあああ! さ、さ、悟くん……!
な、なんで」
「あー……、ごめん。
名前のこと心配で、全然それ以外のこと考えてなかった。
一応、何回もドアの向こうで声掛けたんだよ。それでも返事が一向に返って来なかったからさ。
大丈夫。僕今サングラスかけてるし、オマエが思うようには僕に見えてないよ。オマエの裸」
今日私が選んだ入浴剤の色は透明で、だから悟くんにはばっちり全部が晒されてしまっている訳で。慌てて両方の腕で覆えるところを覆って、身を捩って叫んだ私に、悟くんはバツが悪そうに言った。
「のぼせてない? 大丈夫?
水とか持ってきてあげようか」
「すぐ出るから大丈夫。
だから、は、恥ずかしいから、もう出てってくれないかな」
「ごめんね。故意じゃ無かったとはいえ、結果的に風呂覗いちゃって」
「いいから……! あの……、早く出て行って……」
顔から火が出そうな私とは違って、謝ってくれた時は申し訳なさそうにしてはいたものの、悟くんはどこまでもいつも通りだった。
私がお風呂を出てからも、裸を見られたことを意識しまくっている私とは反対に、悟くんは涼しい顔で平然としていた。
悟くんは私を心配してくれただけなんだから、当然と言えば当然なのかもしれない。
裸を見られたことも勿論気にはなるけど、それ以上に悟くんの反応に私はショックを受けていた。悟くんがちょっとでも動揺している素振りを見せてくれていたなら、この頃私がしている期待は更に高まっていったかもしれない。だけど悟くんが余りに変わらないから、悟くんも私を好きだなんていうのは、やっぱり私の希望的観測でしかないことを実感してしまった。
冷静に考えれば分かることだった。私のスタイルは、高専にいた頃に盗み見た、悟くんの携帯の待ち受け画面の芸能人並みだとはとても言えない。悟くんが今まで付き合ってきた女の人達だってきっと、出るべき所が出て引っ込むべき所が引っ込んでる、スタイルの良い人達ばかりだ。少なくとも、私が見たことがある彼女さんはそうだった。
……悟くんに振り向いてもらうために、今まで努力はしてきたつもりだったけど、私の裸なんて見ても、そりゃ何も感じないよね。
けれど、ここでうじうじ悩んでいてもしょうがない。悟くんが私を女として見てないことは、前々からわかってたことなんだから。あともう一回だけ悟くんに告白するまでに、出来ることは全部やらなきゃ。
◆
「硝子ー、医師免許持ってるオマエに質問。
ある特定の記憶だけ消す方法ってある?」
「ある訳ないだろう、そんなもの」
「だよね。うん、まぁわかってたけど」
「なんだ。久々にエグい呪霊にでも当たったのか?」
「んー、そういうんじゃなくてさ」
「珍しいな。
五条が忘れたいって思うなんて、相当心証悪いもんなのか?」
「心証悪いだなんてまさか!
いやー、まさかここまでの威力だとは思わなかったな。
その時はただ心配だったんだよ。深く考えてなかったし、サングラスかけてたから別にオーケーでしょって高括ってたら、夢にまで出てくる始末でさ。ウケるよね」
「何のことを言ってるのか、私にはさっぱりなんだが」