蒼空と別れ、さくらと颯矢は賑いの中へ戻ろうと歩きだした。遠くの空で雷の音がする。不安定に表情を変えるこの地の空は珍しくないが、茜と藍が混ざり合う空で薄黒く渦をまいたような雷雲に不安を感じたさくらは立ち止まって空を見上げた。 「どうした?」 「あの雲…、なんか怖い」 さくらが指をさした方に目を向けた颯矢は、ただの雷雲だよと笑った。 「さくらは昔から雷が苦手だな。まだ遠いから大丈夫だよ」 「うん。でも…」 落ち着かない。 颯矢の言うとおり、さくらは昔から雷が大の苦手だが、今はそれよりもあの雲が怖い。なぜか、大きな不安が突き上げてくるのだ。 そんな心許ない表情をしたさくらの横顔を見つめていた颯矢は、ふとさくらの手を握りしめた。 「さくらに話があるんだ。ちょっと来てくれないか?」 「いいけど…、巫女さんやらなくていいの?」 「今、代わりの子がいるから少しなら大丈夫だ。ほんとは後で話そうと思ってたけど、不安な顔のお前を見てたら、今、言いたくなった」 颯矢は戻ろうとしていた祭りの広場ではなく、神社の裏手に広がる桜林の方へとさくらを連れていく。さくらは颯矢に手を引かれながら、薄黒い雲を振り返りつつ後に続くのだった。 ちょうどその頃、境内から続く長い階段を下りていた蒼空は、鳴りはじめた雷に足を止め空を見上げていた。薄黒い雷雲が渦を巻いてどんどん近づいて来ている。 「不気味な雲だな」 さくらは雷が苦手だ。今頃、同じ空を見上げて不安がっているのではないだろうか、と心配になったが、すぐに颯矢が一緒だということを思い出して蒼空は再び階段を下りはじめた。 「いや、待て」 雷に怯えるさくらを颯矢がなだめる図が頭に浮かび、それはそれで気に入らない。神主見習いなんてやって法衣を着ていると紳士に見えるが腹の中は真っ黒だということは長い付き合いで知れている。蒼空がいないことをいいことにして、さくらによからぬことをやらかすかもしれない。 「………」 ほんの少しその場で逡巡したが、胸にせりあがる嫌な予感にも背中を押され、結局蒼空は太鼓と笛の音が賑やかに鳴り響く境内へ戻る階段を上り始めた。散る桜の花弁がひらひらと流れ舞っていた。 「さくらが好きだ」 太鼓と笛の音が遠くに聞こえている。だがそれよりも、さくらの耳にはとくんとくんと鳴る颯矢の心臓の音の方が大きく聴こえていた。ひらりひらりと、ふたりの上から散る桜の花びらが落ちてくる。 境内からは随分と離れ、祭りの灯も届かなくなった桜林の中で、そう颯矢に告げられたさくらは、今、颯矢の胸の中にすっぽりと抱きしめられているのだ。 「そ…うや…っ」 「お前が好きだと言っている。子どもの頃からずっと好きだった」 颯矢はさくらを抱きしめたまま、その背中をやんわりと桜の幹に押しつけた。 「さくらは俺のこと、好きか?」 「もちろん、好きよ…」 「その好きは、どういう意味で?」 「意味って…」 好きは好きという意味しかない。 さくらが答えあぐねていると、颯矢は甘く囁くように言った。 「じゃあ訊き方を変える。蒼空よりも、俺が好きか?」 「……それは――」 颯矢も蒼空も、子どもの頃から一緒にいる幼馴染だ。好きかと問われれば間違いなく好きだが、ふたりを比べてどちらが好きかなんて――。 「分からないんだな?」 「……っ」 「少なくとも、さくらは俺よりも蒼空の方が好きだと答えてないわけだから…」 じゃあ…、と颯矢はさくらの顎を指でクイっと持ち上げた。 「さくらにキスしたい」 「そ、颯矢…!?」 「さっき、蒼空はキスしたいと思ったらさくらに願うって言ってたな。けど、俺は願うよりも奪うよ」 真っ直ぐに、まるで貫かれるように見つめられる颯矢の視線にさくらの胸は跳ね上がった。颯矢は木と自分の体の間にさくらを挟み、やや強引に顔を近づけてくる。 「待って!冗談よね?さっきの蒼空みたいに笑うんでしょ?!」 「蒼空と同じことを俺がするわけないでしょ。俺は本気。さくらが好きなんだ。お前は無防備だから蒼空や他の誰かに盗られやしないかと、すごく焦ってる」 夜も眠れないくらいに…、と、もう唇と唇が触れ合いそうなところで颯矢は囁く。 「颯矢――っ」 ――キスってのは、ある意味一番神聖なんだ。本気で惚れた相手としかできないんだぞ。 蒼空が言った言葉がさくらの脳裏に蘇った。 颯矢のことは好き。 本当に、好きだと思っている。 でも、キスが神聖なものなら――。 どくん、と心臓が痛いくらいに跳ねて。 「ま、待って、颯矢…!」 思わず、顔を横に背け颯矢の胸を押し返したその時――。 『かえで……!』 また、聞こえた。 『声を聴け…!我が喚びかけに応えろ…!!』 今度ははっきりと頭の中に響く声。 その瞬間、さっきまで遠くにいたはずの雷が頭の真上で雷鳴を轟かせた。 「きゃっ!!」 鼓膜を破られるほどの音に怯えたさくらを、颯矢はぎゅっと抱きしめた。 「大丈夫だ。俺がついているから」 だが、その間にもさくらの頭の中で声は響く。声を聴け、喚びかけに応えろと。 突然吹き荒れた突風に、桜の花が一気に枝から離れて舞い散った。 「い、いや…!」 言い知れない恐怖に駆られたさくらは、両の耳を押さえて頭を左右に激しく振った。 「さくらどうした!しっかりしろ…!」 色を濃くした黒い雲が真上でぐるぐると渦を巻く。その渦に、巻きこまれるようにして花弁が舞う。声は、渦の中から聴こえてくるような気がした。 ――喚びかけに応えろ、楓…!我の元へ還れ…! 「やだ…!この雲、こわい…!」 「落ち着け。ただの雲……!なに!?」 だが、空を見上げた颯矢は、花弁を巻き込みどす黒い渦を巻く雷雲に息を呑みこんだ。 「な…んだ、この雲…」 低い。 今にも呑みこまれそうだ。 「いや…!」 ――還るのだ、我の元へ…楓よ…!! 「私を呼ぶのは誰なの!?」 ――……やっと…、応えたな。 「っ!?」 ――還れ!我の元へ…!! 魂をえぐられるような、強制力のある声がさくらを支配しようとする。深い闇色が、まるでさくらを捕り込むかのように包みはじめた。 「いや!来ないで!来ないでー!!」 叫ぶと同時にさくらは颯矢の腕を振りほどいて駆け出した。 「さくら!!」 颯矢が叫ぶ。 「さくら!?」 ちょうどそこへ蒼空が駆けつけてきた。 「なんだ、あれは…!」 さくらの頭上に雲が渦巻き、真っ黒な闇がさくらの体を包もうとしていた。あれに捕まったら大変なことになると蒼空は直感し、めいいっぱい手を伸ばしてさくらの手を取ろうとした。 「戻れ、さくら!!」 「そ、蒼空!蒼空ぁ!蒼空ーー!助けて!!」 さくらは必死に伸ばされた手を取ろうとするが、強い力に背後から抱きこまれて引きずられる。 「さくら!!さくらーー!!戻って来い!」 手と手が触れ合いそうになった寸前で、さくらの体は一気に黒い渦に呑まれた。 「さくら!」 颯矢が駆けつける。 「さくらぁぁーーーー!!」 蒼空が必死に追いつこうと駆ける。 空が割れるほどの雷鳴が轟いた。 「いやぁぁぁーーっ!!」 その刹那――。 さくらはあるはずのない空間の一線、境界線のようなものを飛び越えた感覚を覚え、そして唐突に雷の音が止んだ。 「……え?」 たった今まで傍にいたはずの颯矢がいない。必死に手を取ろうとしてくれた蒼空もいない。あれほど舞っていた桜の花弁がひとつもない。太鼓や笛の音、人のざわめきもなくなって、さくらは真っ暗な林の中にひとり取り残されたように居た。 「蒼空、颯矢、どこ?!」 さくらはふたりを探して林の中を歩くが、どこまでも木々があるだけで幼馴染たちの姿はなく、そればかりか、桜の木もなくあるはずの方向に神社も見えない。それに、どこまで行っても終わりがない林。神社の裏手にある桜林はこんなに広くはないはずだ。 おかしい。 まったく知らない場所。 さくらは辺りを見まわすが、月明かりだけでは周囲のほとんどが見えない。 「蒼空…!」 不安に潰されそうになったその時、乾いた土を踏みしめるような足音が近づいてきた。 「蒼空?!」 だが、足音はひとつではなく、複数が入り乱れるようなその音は荒々しく地を蹴るように集まり、あっと言う間にさくらは取り囲まれた。 「だ、誰…!?」 「へぇ。こんなところに女かぁ…」 暗闇の中で松明のような灯を向けられたさくらは一瞬目がくらみ、声の主が見えなかった。だが、耳に絡みつくような湿った声は颯矢でも蒼空でもなくさくらの知らない男の声だった。 |