キリエ
 今年で二十六になる男の人生は冴えなかった。
 飛び抜けて優秀でも落ちこぼれでもない忍の人生など高が知れていたが、帰る家があって、毎日ご飯が食べられて、細やかな幸せを積み重ねたような、そんな人生。
 不満はなかった。向上心も高望みも覚えなかった男は、働き蟻で満足だった。それでもそんな冴えない人生に、花を添える出来事が男に起こる。
 見慣れたボロアパートの扉を開けると出迎えてくれたのは、男にとっての最高の花。とても美しい、大輪の花。
「ただいま、マコト」
 二ヶ月前に付き合い始めた恋人、うちはマコトだった。
 リズムよく食材を刻む音、鍋から香る食欲をそそる良い匂い。靴を脱ぎながら、玄関脇のキッチンに立つマコトに声をかけた。
「今日も内勤?」
「うん。暗号班で古いアルゴリズムの整理してたの」
「……頭が痛くなりそうだね」
「実際に解読する訳じゃないから」
 と、マコトは少しだけ複雑そうに曖昧な笑みを口元に浮かべた。同期や同僚が里の外に出て精力的に任務を遂行する一方で、マコトは火影邸での事務や色々な部署の雑用を主にこなし里の外に出る事は殆どない。
 こうして定時に上がっては夕食を作りに来てくれているのはありがたかったが、マコトの気持ちを考えると胸が痛んだ。
 少し前に「忍なんて辞めたら?」そう聞いた男に、「忍でなくなってしまったら、兄弟との繋がりもなくなってしまうようで怖いの」とマコトは答えた。
「あ、お風呂沸いてるよ? ご飯炊き上がるのもう少しかかるから、入ってきたら?」
「じゃあ、そうしようかな」
 エプロン姿の彼女に新妻の妄想を重ねてしまうのは仕方のないことかも知れない。
「そうだマコト。おかえりのキスは?」
「……ばか」
 キス以上のことをしていても、こういったことは恥ずかしいらしい。

 まさか自分のような冴えない男が彼女と恋人同士になれるとは思ってもいなかった。『うちは』という木ノ葉切ってのエリート一族の生き残りで、笑顔で受け付け事務をこなす姿は仲間内でも何かと話題だった。「いってらっしゃい」「おかえりなさい」そんな受付業務の事務的な言葉でも、彼女の言葉というだけで舞い上がるほど嬉しかった。
 けれど男はそんな彼女の闇を知ってしまった。
 人目を忍ぶように涙する姿が男を突き動かした。
「わたし、里から出して貰えないんです。兄も弟も抜け忍で重罪人、わたしなんかじゃ気配を探れないけど、多分ずっと暗部の監視が続いてて、っ……ごめんなさい、こんな話されも困りますよね。今の、忘れて下さ――」
「忘れない!」
 涙に濡れる瞳が瞬いた。
「……忘れない。オレが忘れてしまったら、君は一人で泣くんだろ? だからオレは、忘れない。オレは、その、何の取り柄もないし、冴えないし、……未だに、中忍だし。気の利いたことも、カッコいいことも言えないけど、それでも。君が一人で泣かないように、傍にいることは出来る!」
 衝動的に抱きしめた彼女の肩は震えていた。拒絶されないことに安心した。自分なんかの胸で泣いてくれることが、不謹慎だと解っていても嬉しかった。

 だがある日、嫌なものを見た。はたけカカシと楽しそうに話す彼女。遠慮がちに口元に手を添えてはいたが、楽しそうに談笑していた。自分の前では決してしないようなその表情に、胸の内に渦巻く嫉妬。彼女の笑顔の裏の闇を知っているのも癒せるのも自分なのだと、お前なんかに彼女の何が解るんだと、カカシに微かに怒りを感じていた。
 かと言って上忍に気後れして二人のそばに行けない自分が情けない。でも――、
「あ、お帰りなさい! 任務お疲れさまでした!」
 里の誰もが憧れる忍と話していても、彼女は自分に気付いてくれる。話を切り上げてまで、自分に駆け寄ってきてくれる。
 気が付けば男は暗い瞳でカカシを射殺さんばかりに睨みつけていた。
「あの、どうかしましたか……?」
「…………はたけ上忍と親しいの?」
 何も知らない困惑した彼女の声。男の口からは、自身ですら驚くような底冷えする低い音が漏れていた。びくりと華奢な肩が揺れ、一瞬言い淀む。それから少し困ったように寂しげに笑むと、遠い昔に思いを馳せるように口を開いた。
「……弟の、担当上忍だった方なんです。ああやってたまに声をかけてくれるんですよ」
「そっか……ごめん、変なこと聞いたね」
 目も当てられない嫉妬に、何て自分は馬鹿だったのだろうと、男は自分の無神経さを恥じた。マコトは男の顔を覗き込むと、重くなった空気を払拭するように明るい調子でからかう。
「ふふ、もしかしてヤキモチですか?」
「っ……!」
「え、あの、ええっ? 図星……?」
「そーだよ! 図星だよ! 悪いか!?」
 苦し紛れに開き直って声を荒げる男。対するマコトはあたふたと視線を彷徨わせながら挙動不審だ。
「いえ、その、悪くないです。寧ろ嬉しいって言うか……、って私何言ってるんですかね……あはは……」
 男から見ても彼女の顔は耳まで真っ赤だった。これは、脈ありと思って良いのだろうか?
 それから数週間後、男はマコトに交際を申し込み今に至っている。

 大きな喧嘩もなく、最愛の恋人との幸せな毎日。結婚の二文字が男の脳裏にちらつき始めていたが、大きく踏み出せないのは男が抱える秘密の所為だった。
 男は所謂『スパイ』だった。

 久しぶりの二人揃っての休日、買い物に行きたいと言ったマコトの荷物持ちを男は進んで買って出た。自分の抱える問題を忘れてしまいそうなほど充実し楽しくもあった。けれどもスパイという桎梏(しっこく)は男にそんな逃避を許さない。休憩も兼ねてランチにしようと入った喫茶店。痩躯の男が一人、店内の賑やかさに不釣り合いな静寂さで座っていた。見慣れた後姿に男は周りに気付かれぬように僅かに顔を強張らせた。隣り合うボックス席、背中合わせに座る男と男。
「――主様が新たに隠れ里を起こす。そなたを忍頭補佐にとご所望だ」
「……少し、考えさせて下さい」
 俯いた男の向かいには先程までマコトが座っていたが、今は手洗いで席を立っていた。
 店舗のロゴが印刷された紙袋の中の衣服や生活雑貨を嘲るように痩躯の男は喉を鳴らした。
「くくっ、『うちは』の生き残りとは、そなたも器に見合わぬ大層なモノを手に入れたな」
「マコトは俺にとって大切な存在です。『血』で見るのはやめて下さい」
「おぉ、怖や怖や。そなたの働きぶり、主様は大いにお喜びだ。……失望させるでないぞ」
「肝に銘じます」
「あぁ、それと。――黒い山羊には気を付けろ」
「黒い、山羊……?」
 何の事かと聞き返したかったがそこにもう姿はなく、微かな不安だけが心中に痼(しこ)りを残した。

 男は里を抜ける日を決めかねていた。この身一つで今すぐにでも行かなければならないのに、マコトの存在が迷いを生み出す。本音を言えば一緒に来て欲しいが、話をする事自体がリスキーだった。
 そんな男の異変を感じ取ってか、マコトの態度も少しずつ変わっていった。半同棲状態だったのだが、マコトが家に帰る事が多くなっていった。
 これは好都合なことなのだ。アパートで独り、何の気持ちもない空腹を満たすだけの素っ気ない食事をマコトの手料理を思い出しながら食べた。
 このまま自然消滅した方がお互いの為なのだ。只のねぐらと化した部屋で、マコトとの夜を思い出しては自分を慰めた。
 そんなもやくやした気持ちで任務など真面(まとも)にできる筈がなく失敗続き。ついには強制的に休暇を取らされてしまった。
 明かりのついていないアパートの窓を見て長嘆する。未練たらたらな自分が情けなかった。ドアの前に立ち、鍵穴に鍵を差し込もうとして気が付く。建て付けの悪いドアと枠の隙間に閂が見えなかった。鍵を閉めたのをハッキリと覚えているのだから誰かが開けたのだ。
 はっとして急いで部屋に入る。薄暗い部屋の中、電気点けるとマコトが掃き出し窓の側で膝を抱えていた。
「……マコト?」
 そっと名前を呼べば微かに揺れる肩、徐に上げた顔に感情は乏しく、困惑した様子の男の姿を認めるや否や黒曜石を嵌め込んだような瞳に涙の膜が張った。
「どうしたらいいの……?」
「え、ちょ、マコト? ちゃんと話してくれないと分からないよ?」
「……あ……きた……」
「なに?」
 上手く聞き取れずに聞き返した。
「……赤ちゃんが、できたの……」
「――え?」
「『うちは』の血を引くこの子に自由なんてきっとない……わたし、どうしたらいい……? 一生、この血が付いて回る……この子を忍になんて、したくないのにっ!」
 腹を抱えて泣き叫ぶ姿はいたたまれず、ぐらついていた男の心を決心へと固めた。
「マコト、オレと一緒に里を出よう。お腹の子供と一緒に、新しい里で暮らそう? 声をかけてくれた人がいるんだ――」
 黙って頷くマコトを抱き締めながらも、男の頭の中で素早く計画が組み上がっていく。
 新天地への期待。新たな家族。里抜けとは別の高揚を男に感じさせた。

「くそっ!」
 国境まで後少しというところで男とマコトは三人の暗部に囲まれていた。繋がれたマコトの手が恐怖を体現するように強く握られた。
 汗が吹き出し腰が抜けそうになるほどのプレッシャーに必死に堪え、男は背にマコトを庇うようにクナイを逆手に構えた。
 此処で引いたら男が廃る。マコトを、お腹の中の子供を、家族を守らなければ! 男が決死の覚悟をしたその時、マコトが男の翳(かげ)から歩み出た。
「マコト……!?」
 横顔からでも窺える無表情、暗部達に吸い寄せられるような足取りで男の隣りを抜ける。幻術にでも掛けられたのかと手を延ばしかけた瞬間、無意識に男の手が止まった。固唾を飲んで、マコトに眼を釘付ける。
 暗部の一人から渡された黒い外套に袖を通し、フードを被るとその中に手を入れ暗部面を引き下ろす。
 ――得も言われぬ不安が、ここに来て具現した。
「黒い、山羊面……! まさか、だって君は万年下忍で、」
「うちは切っての落ちこぼれ?」
 面越しにでも、吐き捨てるように嗤われたのが分かった。
「……騙してたのか? オレのことを愛してると言ったのも子供が出来たっていうのも、全部嘘だったのか!?」
「当前。私みたいな血統書付きのサラブレッドがアンタみたいな駄馬のガキ孕むと思う? あんまりにも尻尾出さないもんだからこんな小道具まで用意する羽目になったんだっつーの。こっちだって予定が詰まってるんだからさァ、ぽろっと尻尾出して欲しいわよねェ」
 マコトの手の中で母子手帳が燃え上がり男を囲む暗部達から嘲笑が漏れた。胎(はら)の中の児(こ)だと見せられたエコー写真がオレンジ色の炎に食い破られる苦痛から逃れるように揺れ、地に落ちる頃には只の塵になっていた。
「っ……男に妊娠をちらつかせるなんて、卑怯だぞ!!」
 夢、希望、未来、全てが一瞬のうちに灰に変わった。
「卑怯? 可笑しな事を言うのね。ハニートラップなんかに引っ掛かるアンタがノータリンなんじゃない? それにしてもまァ、馬鹿正直に主様とやらの口約束を鵜呑みにして……ザル馬鹿ね。ほんと救いようのない馬鹿」
 黒い悪魔が近付いて来る。
「アンタは忍が最も陥ってはいけないものに陥り、注意すべきものに嵌った。忍の三病の一、『侮り』。忍の三禁の一、『色』。――まぁそんなわけで、だ。色々と里の内部を引っ掻き回してくれたお仕置きと、アンタを唆した奴のことでも、教えてもらいましょうかねェ……」
 男が最後に見たのは、巴模様が浮かぶ異様なほどに赤く輝く瞳だった。

「インってホントえげつないよね」
「心置きなく憎めるでしょ?」


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