07
 あの子は何かを前提に物事を考えている節があった。それだけではなく、赤ん坊というのは多少の差はあれど手こずらされるはずなのに全くと言っていいほど手が掛からなかったし、存在を忘れてしまいそうなほど静かだった。
 只、あの温度のない瞳だけは昔から変わらなかったように思う。
 教えてもいないのにいつの間にか読み書きが出来るようになっていたし、発音は幼子の舌足らずさがあるが、内容事態は大人と遜色がない。
 そう、まるで生まれた時から完成された精神を持ち合わせているかのように。
 ――だが、それが一体何だと言うのだろう。この子は我愛羅。それ以上でも、それ以下でも、それ以外でもない、只の我愛羅なのだ。

 夜叉丸から話があると言われた。だがいくら待っても話し出す気配がない。何なんだと思いつつも待っているが、こうも静かだと余計なことを考え始めてしまうのは、仕方のないことだ。
 思い出すのは生前での食卓風景。薄暗い白熱電球が照らす、葬式のように静まりかえった食卓。
 調理した食材を必死に咀嚼して、ひたすら喉の奥に食事を押し込む。
 味なんて、分からない。
 抑圧されることに馴れきってしまったスカスカの身体が、ある種の恐怖心によって畏縮し凝り固まる。
 融解と凝固を何度も繰り返すうちに、還元すらすることも出来ずに稀薄になって、凍らせたジュースの一番最後に残る不味い液体のようになった『私』が出来あがる。
 植え付けられた恐怖心は今生でも根強く残っている。
「我愛羅様……?」
「っ!」
 ふいに伸ばされた手に過剰に反応してしまい、砂が夜叉丸の手を払い除ける。ヤスリで削られたように毛羽立った肌から、ぽたぽたと血が滴り机上に歪な模様を作る。
 赤い。血糊とは違う、不透明な、赤い血。
「……ち、違っ、そんな……ごめんなさ――」
 傷付けるつもりはなかった。只、伸ばされた手が、振り上げられた拳のビジョンと重なり、無意識下で抗おうとしてしまったのだ。
 過剰防衛なんて只の暴力と変わりない。これじゃあまるであの人と同じだ。
 ――違う。違う。私は、あんな人間にはならない!!
「我愛羅様、大丈夫ですよ」
 私の傍に目線を合わせるようにしゃがみ、純白の包帯が目に痛い手で、夜叉丸は私の手を包み込む。
「こんなの掠り傷ですよ、すぐに治ります」
 温かい、大きな手だった。
「何で……」
「何がですか?」
 いつも通り負の感情など一切感じさせない柔和さだった。
 テマリにもカンクロウにも夜叉丸にも、酷いことをしている自覚はある。どうせ嫌われ憎まれているのだから関係ないと、逃げて無視して突き放した。
 なのに、何で、あの二人は私を守るような行動に出た?
「夜叉丸だって私が憎いだろ?」
「……何か言われたんですか?」
 違う、と首を振った。
「……テマリたちだって……そうに決まっている。――私は、ヒトゴロシだ。あの二人の母親を、夜叉丸のお姉さんを殺して生まれた」
 憎くないはずがないのだ。愛する者の生を奪って生まれてきた存在を、赦せるはずがないのだ。
 あの人達はそうだった。笑顔で騙していた。私の心を引き裂いて、踏み躙(にじ)った。
 テマリとカンクロウはまだ子供だから理解していないだけで、気付けば私を憎むようになる。
『彼』の母親は『彼』を生むことを望んでいなかった。それはこのポジションに生まれてしまった私にも当てはまる。
 守鶴を憑かせるために妊娠させられたのか、妊娠したから守鶴を憑かせられたのか知らないが、相当この里を世界を『彼』を、恨んで憎んで死んでいったはずだ。
 夜叉丸はそれを受け入れ、憎しみを抑圧し『彼』を愛する努力をした。
 だから私は一人でいることを選び、夜叉丸とは世話係としてしか接しなかった。
 それなのに、どうしてこの人は私と関わろうとする?
 勘違いしてしまいそうになる。
「いいですか我愛羅様。確かに姉さんは我愛羅様を出産した直後に亡くなりました。これは曲げようがない事実なのです。それを『命と引き替えに』と表現する輩もおりましょう。ですが、例え命と引き替えであったとしても、あなたが母親である姉さんを殺したと言うことにはならないのです」
「……でも」
 今だって、私に向けられる目は真剣そのものだ。
「分かりました。仮に我愛羅様が姉さんを殺したと言うことにしたとします。我愛羅様は何の罪もない姉さんを殺しました、では如何やってその罪を償いますか? お墓の前で土下座でもしますか? 泣いて許しを乞いますか? 謝罪など無意味、弁解こそ罪悪です。姉さんを殺した我愛羅様に与えられるべき罰は『生きる』ことです。生きて生きて生きて、私や風影様より長生きすることが我愛羅様に与えられるべき罰なのです。――それと、良きパートナーを見つけて、誰よりも幸せになることもです」
 生まれ変わって成り代わって、新しい肉体を与えられた今でも、私は『私』を確立出来ないまま実(じつ)の伴わない無意味な時間の浪費をしようとしている。
 どくり、と心臓が大きく肋骨の内側から胸を叩き、その振動が腹に響く。
 それでいいのか? このままで本当にいいのか? 「どうせ」、「きっと」、「本当は」、こんな言葉で言い訳して周囲のせいにばかりしていて、それで実のある『私』になるのか?
 様々な思いが胸の内に現れる。
「私、いいの……?」
 それは沢山の「いいの?」だった。
 生まれてきていいの? 生きていていいの? 存在していていいの?
 ここにいて、いいの?
「はい。いいんですよ」
 向けられた慈愛の笑みに沸き上がるのは、打ち震えるほどの歓喜。
 無条件に赦されると言うことは、無条件に肯定されること言うこと。何を赦し何を肯定するかが問題なのではなく、その行為そのものが救いの手と同等。
 泣くまいと引き結んだ唇が歪み、声を詰まらせしゃくりあげる。目元を隠すために前髪を握りしめた手が額の辺りで震えていた。
 何で、何でもっと早く気が付かなかった?
「原作」に気を取られて勝手に決めつけて、目の前のものを見ようともしなかった。
 ――この人は、こんなにも温かい。
 大丈夫。きっと、大丈夫だ。ここは「原作」じゃない、未来だって変えられる。
 大丈夫。夜叉丸はあの人達みたいに私を否定しない、嘘なんかつかない、騙したりしない。
 だからもう、大丈夫。
 あふれた涙は際限を知らず、夜叉丸は何も言わず何もせずに只傍にいてくれた。
 それが嬉しくて有難くて、今までの自分が情けなくて恥ずかしくて、泣くだけ泣いたら、テマリとカンクロウに会いに行こうと決めた。
 妹として、只の、我愛羅として、姉兄達に会いに行くのだ。

 風影が口元を緩ませて微笑ましそうに窓の外を見下ろしていた。その先に見えたのは、じゃれ合う三人の子供の姿だった。
「義兄さん、書類貯まってますよ」
「……俺を過労死させたいのか」


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