enfant gâté
 自分の荒い息遣いが妙に耳に響く。木ノ葉の里を出てからは何処へ向かっているのかもわからずに、ひたすら木々を跳躍した。視界の端に映り込んだ枝葉の蔭の形を人影に見間違えては一々驚いて、まるで怯えた逃亡者――否、まるでどころではなく、正真正銘の逃亡者だ。
 そんな余計な事を考えていたからか、枝への着地点を誤り踏ん張り切ることができずに膝が抜けて足を滑らせた。
 伸ばした手は何も掴めず、枝葉の間から見える青い空が遠く小さくなっていった。受け身を取る余裕もなく、地面へ落ちていく。
「……くそ」
 背中に感じたのは砂だった。全身をしたたか打つはずの踏み固められた湿っぽい土ではなく、身体の一部と言っていい程に馴染んだ砂だった。
 こんな事からでさえも砂は自分を守るのに、何でこうなった? どこで間違った? 無様だ、格好悪すぎるにもほどがある。腕を組んで目を覆い、ぎちり、と奥歯を噛んだ。爪が手の平に食い込むのもかまわずに、力任せに拳を握った。
 どうせ守鶴は滑落した自分を愉快そうに見下ろしているのだろう。見なくても分かるほどに、その気配は体に溶け込んでいた。
「何で、邪魔した。お前、何がしたいんだ。別にオレはいい? 別にって何だ、オレはいいって、何のことだ? お前、何なんだっ……!」
 そうだ、守鶴の邪魔がなければ今頃は――違う。こんなのはただの八つ当たりだ。悪いのは自分だ。『彼』になり切ることもできず『自分』である事すらどうにも怪しい、どっちつかず。総てが中途半端だったから、こんな訳のわからない結果になってしまった。
「……何でもない、今のは忘れろ」
 砂から体を起こして地面に立つ。その後ろで守鶴が酷くつまらなそうな冷めた目で見ているとも知らずに。
『――オレは尾獣だ。例え器が死んで道連れに消滅しようが、他の奴らがいる限り何度だって復活出来る。世界は均衡を保とうと何度だってオレを復活させる。だから人柱力であるお前の死がオレを脅迫する材料にはならねェよ』
 何の話をしているのだろう。一瞬そんな事を思ってから、すぐに先程自分が怒鳴り散らした言葉への応えなのだと考え至った。守鶴は私に視線を合わせると、一度だけ大きな尾をゆらりと動かした。
 そして聞き分けのない子供に言い聞かせるように優しく、とっておきの打ち明け話をするように芝居じみて言う。
『なァ、我愛羅。思い出せよ、世界がお前にしたことを。否定されて悲しかっただろ? あの雨は、冷たかっただろ?』
「あの、雨……?」
 守鶴の言葉を聞いて心臓を鷲掴みにされたような強烈な感覚を覚えた。それは守鶴はおろか、この世界の誰であろうと知り得ない事だった。急激な胸部の絞扼感に呼吸が乱れ、血の気が引いて行くのがありありと自覚出来た。まるで身体の中心に直接氷水を注ぎ込まれたように熱が一気に脂汗となって噴き出す。緊張し、混乱し、目の前の得体の知れない『存在』に、恐怖していた。
「何で、知ってる、だって、それはっ」
 普段通りにしようと変に力んだ所為で喉が震え、想像以上に上擦って引き攣れた情けない声が出た。そんな私とは反対に、守鶴の声は次第に意地悪くなり、抑揚を帯びていく。
『オレを誰だと思ってるんだ、一尾の守鶴様だぜ? お前があの女の胎の中にいる頃から憑いてたんだ、何だって知ってる。前の名前も、家族のことも、何ならお前が死んだ経緯でも……』

 ――話してやろうか?

「やめろっ!!」
 守鶴の声は頭に直接響く。無駄だと解っているのに耳を固く塞がずにはいられなかった。
 激昂に任せて動かした砂は今までにないくらい凶悪で攻撃的で、それなのに守鶴の前には見えない壁があるかのように砂はぴたりと動きを止めた。見えない何かに阻まれ静止した砂は、やがて流れるように崩れていった。さらさらさらと、崩れていった。
 どうして、忘れていたのだろう。そうだ、守鶴は知っていたじゃないか。

『お前みたいなカスに心を砕くほど、《この世界》の人間は暇じゃねぇんだよ』

 奴はそう、言っていたじゃないか。
「……やめっ、いやだ……」
 脳に響く呪いの言葉。私を拒絶し否定する、言葉。忘れていた雨の冷たさが、皮膚から浸みてくるようだった。
 寒い。寒い。寒くてたまらない。もちろん雨など降っていないし服だって濡れていない。なのに、寒くてたまらない。縁石に打ち付けられた頭から体温と一緒に血液が流れ出たあの時のように、身体から熱が流れ出て行く。無慈悲な程に硬く冷たいアスファルトの感触が蘇る。
『なァ、我愛羅。これはお前の為なんだ。最近のお前はおかしいぜ? うちはの小僧も九尾の餓鬼も今までのお前ならとっくに殺してる筈だ。
 何でそうしない、何がお前を引き止める? ……オレに委ねろよ、全部全部解決してやる。お前から全てを奪った世界に、これ以上ない復讐をしてやる。お前はただ、頷けば良い。一言イエスと言うだけで、お前を傷付け悲しませるすべてから解放してやる。
 約束だ。大切な大切な相方の不利益になるようなことは絶対にしない。今までだってそうだっただろ? 友達ヅラして近付いてきた奴等から守ってやったのは誰だ? 献身的な振りをしてお前を騙していた世話係から守ってやったのは誰だ?
 ……これはお前にとって最上の好機なんだ。お前がお前でいられる、お前が前になれる、最後の好機なんだ。――そう、思わないか?』
 守鶴の言葉はまるで、恋人に囁く愛の言葉のように甘く痺れて染みて、そしてそれは最早、毒でしかなかった。


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