Under spell
 私はずっと、あの男から逃げ続けている。
 一度だけ。たった一度だけ唇を重ねたことがあった。それも下忍の頃の話で、子供のキスだと思い出話にしてしまえばよかったのに、私の心は意に反して「マズい」と壁を作り始めてしまった。
 何を防ぐ壁なのか、何を守る壁なのか、定かではない。

 互いに成長し、私は風影に、あの男は英雄と誉れ高い上忍になっていた。会う機会があるとすれば合同演習や中忍試験だが、その滅多の機会でも会うことがないように、意図的に避けていたことは言い逃れしようのない事実だった。
 ――それなのに、何故ここにいる?
 定例となりつつある鉄の国での五影会談。会議中、『火』の垂れ幕の向こう側からでも感じる視線。存在を感じた瞬間から、ざわざわと身体が熱を持って頭がおかしくなりそうだった。
「風影殿、どうかなされたか?」
 ミフネの声にハッとする。他の四影の視線を受け流しつつ何でもない旨を短く伝え、一度硬く目を瞑ると全身の感覚を確かめるようにゆっくりと瞼を上げた。それだけの動作で、乱れた経絡系を正すように思考が整頓されクリアになる。
 ……しっかりしなければ、私は『風影』なのだから。私の失態は里の失態。高々上忍一人に乱されて良いはずがないのだ。

 ようやく終わりを迎えた会談。会場から早々に去ろうにも土影は話しかけてくるし、テマリは火影の護衛で来ていたシカマルとの久々のお喋りに夢中のようだ。半ば苛つきながらも表には出さないように努めて、適当に会話を切り上げると会場から一目散に出て行く。
「おい、どうしたんだよ」
 小走り紛いの早足で廊下を進む私の後ろをカンクロウが戸惑いながら付いて来る。会場に置き去りにしてきたテマリを気にしてか、ちらちら後ろを振り返っていた。テマリとはどうせ宿で落ち合うのだし、不都合はないだろう。
 ……そんなことよりも早くここから離れなければ。ざっと見回した会場にあの男の姿は見受けられなかった。好都合だ。私が私でいられるうちに、私が私でなくなる前に、あの男の目の届かない場所へ――

「我愛羅」

 背中を這い上がるのは悪寒だろうか。
 ボーイソプラノを脱ぎ捨てた大人の男の声が、鼓膜に響いた。
「っ……!」
 風影の名を呼び捨てるなど無礼極まりないはずなのに、あの男の声が甘く痺れるように鼓膜を揺らす。ゆらゆらと熱に浮かされるように揺らめく思考。浅く荒い呼吸は早足のせいだけではないだろう。
 何で、ここにいる? 詰まるような息苦しさに胸辺りの身頃を無意識に掴んでいた。駄目だ。早く、逃げなければ。振り返るのも恐ろしかった。
「ナルト! すっげー久しぶりじゃん!」
「おっすカンクロウ、久しぶりだってばよ!」
「まさかお前が火影の護衛を務めるまでになるなんてなぁ……」
「オレってばカンクロウより強いかもな」
「言ってろ」
 カンクロウとナルトの会話も他の人から見たら気作な遣り取りなのだろうが、今の私にとっては一刻も早くフェードアウトしたい事象に過ぎない。
「我愛羅も久しぶりだってばよ!」
 くるりとこちらを向いたナルトと思いがけず目が合ってしまい――見なければ良かったと思った。
 それは忍の目だった。無慈悲で冷酷で、死線を掻い潜ってきた、忍の目だった。
 一見、下忍の頃と何ら変わりないように見える、雲の上の空を嵌め込んだような『青』の奥に座する冷徹さ。あんな瞳ができるようになってしまったのかと、昔のナルトを脳裏に浮かべながら微かに失望した自分に気が付いて吐き気がした。
「……そうだな……随分と久しぶりだ」
 目が合わないように視線を少し下に外して向き合う。
「中忍試験とかで砂に行ったりしたけど、全然会わなかったな」
「タイミングが合わなかったんだろ」
 短いまま広がらずに続かない会話。それでも泰然としたナルトに機微は窺えないのだから、この気まずさは私が一方的に感じているのだろう。……『気まずさ』? 何を馬鹿な。自分勝手に故意に避けていながら、後ろめたさでも感じているのだろうか。
 ばかばかしい。そんなもの感じる資格などないのに。胸の内で自嘲した。
「ばーちゃんもいい加減歳なんだから、オレに火影を譲ってくれてもいいよなー」
「……お前が火影になったら部下は苦労しそうだな」
「ひでぇーな」
 ちゃんと顔を作れているだろうか、奇怪しな態度になっていないだろうか。そんなことばかりが気になって私は、ナルトがこちらをじっと見ていたことに気付かなかった。
「カンクロウ、ちょっとこいつ借りてくからテマリさんに言っといて」
「は? お、おう……?」
 唐突にして迅速。ナルトが言った意味を理解する前に手首を掴まれ、ぽかんとするカンクロウの横を通り過ぎていた。
「ちょ……っ、ナル――」
 手を引かれて解る時間の流れ、逞しく大きくなった背中、力強いごつごつした手、あの硬い手触りの髪だって今はもう見上げなければならない。
「放せナルト、痛っ」
 絶対放さないと言わんばかりにこうもがっちりと掴まれていては、振り解こうにも手首を痛めそうで強引な手段はとれない。引き摺られるように手を引かれ、侍達が何事かとすれ違い様に見ていた。
 段々と人気のない方へ足を進めている様子のナルトに嫌な予感しかしない。
 一刻も早く引き返せと心の中で自分に言い聞かせるが、心とは裏腹に身体は手を解くことも足を止めることも強く制止を呼び掛けることもしない。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ。警鐘が鳴る。生得的な何かが危機を、危険を、察知している。何かが壊れてしまう気がした。ぎりぎりの均衡で保たれていた何かが、壊れてしまう気がした。

 連れて来られた空き部屋は、しばらく使われていないのか黴臭さが少し鼻についた。隅に何かの箱が数個、忘れ去られたように積まれていた。そんな静かな部屋の薄闇が、窓から入る雪のように白い光にぼかされている。そんな事を頭の隅で他人事のように考えていると背中に衝撃を感じ、腕を掴まれて壁に押し付けられているのだと判った。
 息がかかりそうなほど顔が近い。あまりの近さに驚いて顔を逸らすとそれが不快だったのか、ぎり、と腕を掴む手に力が入った。
「何で、逃げるんだってば」
「っ……何の話だ……」
「しらばっくれんなってばよ。あんなにあからさまに避けられてんのに、オレが気付かないとでも思ってたのか?」
 掴まれた腕に痛みを覚えてもいいはずなのに、それが気にならないくらい敏感にナルトの匂いや息遣い、手の温度に胸の中が騒ついて仕方がない。まるで耳のすぐ近くで脈打っているかのように心臓の音がうるさく感じられた。
「我愛羅、こっち見ろよ。なぁ――目ぇ見ろっつってんの、聞こえない?」
 耳元で低く凄む声に肩が震えた。ナルトの口から聞いた事のない色を宿した声に、恐る恐る上げた視界に入ったのは怒りではない何かを強く訴える瞳。
 どうしてか胸が酷く痛んで、気が付けば謝罪の言葉を口にしていた。
「……すまない」
「何が」
「…………わからない」
「何で」
「――わからな……っ!」
 がつん、と硬いものがぶつかる音がして唇が塞がれた。ぴり、と唇が痛み、絡みとられた舌がまつわるにつれ、鉄っぽい血の味が唾液に混ざり口の中に広がった。
 息苦しさと比例するようにじわじわと胸腔を熱いものが満たしていく。
 腕を掴むナルトの手にはもう然程、力が入っていない。嫌なら突き飛ばしてしまえばいいのに、頭の中がもつれて思うように考えられない。
 角度を変え深さを変え、何度も執拗に重なる唇が言葉にならない心の内の声のようだと思うのは都合のいい妄想で、どうしてこんなにも心かき乱されるのか、落ち着かないのか、気持ちの整理がつかぬまま感情だけがとめどもなく溢れてくるのだ。
 食まれていた唇が離れて、ナルトが力なく肩に額を預けてきた。
「……何なんだよ、嫌なら砂でも何でも使って、オレをぶっ飛ばすなり何なりすればいいだろ。逃げるだけとか、我愛羅ってほんとに、ズルいってばよ……」
 項垂れる父親譲りの黄色い髪が首や頬に触れ、無意識に触りそうになっていた手を無理矢理引っ込めた。
 今その名を呼べば空色の瞳に自分が映るのだろうか。幼さを完全に脱ぎ捨てた精悍な瞳が、果たして自分を写してくれるのだろうか。
 少しばかり重厚さを纏った声質。目線も随分と違う。私は見上げなければならなくなり、ナルトは視線を落とさなければならなくなった。
 ……どこで違(たが)った? 何でこうなった? 戸惑って逃げて、私は一体何を怖がっている?
 溢れたままの感情は言葉にはならず、声帯を震わせることはなかった。時間だけが過ぎ、音にならない感情が空気として喉を通り過ぎた。
「――悪い。オレ、どうかしてたってばよ。……お前にこんなことして、テマリさんとカンクロウに殺されるな……」  
 肩にあった重さがなくなり、ふと開いた空色の瞳はすでに私から視軸を外していた。腕を掴んでいた手が、力無く滑り落ちていく。
「ぁ……」
「じゃーな、『風影』様」
 離れ際に掬った一房の髪に口付けを落とし、その無骨な指先から赤が流れ落ちた。背中に伸ばし掛けた手は、無様にも空を切る。
 扉の向こうに消える背中をただ見詰め、そして室内に静寂が訪れると、ずるずると壁に凭れながら座り込んだ。
 手で顔を覆い嘆息する。指先を無雑作に髪に掻き入れ、毟るように強く握り締めた。
「……違うんだっ……ナルト、私は――」
 うるんだ声も手遅れだ。
 ただ、恐かった。下忍の頃のたった一度のキスでも感じたのは確かな幸福感で、もしもその幸福が壊れてしまえば、自分はもう元には戻れない。
 三度目は多分ない。
 真っ黒な底無しの泥の中で世界をひたすら憎んでいた自分。救い上げてくれた存在を失ってしまったら、私は。
 震える吐息は心を隠した己への嫌悪。零れた涙は慰みと自己への憐憫。
 偉そうに里長の椅子に腰掛けたとて、中身は未だに弱いまま。自分のコントロールすらままならない只の一人の女だ。
 袖で目元を隠して膝を抱えて嗚咽をこらえた。自閉的な闇の中で、ぐるぐると何かを考えてはその何かすら霞の奥に消える。ただその『何か』の大部分をナルトが占めている事だけは自覚できるのだから質が悪い。
 暖房設備のない部屋の寒さが身に凍み始め、音のない静まりかえった空間は無音に嗤われている様な気がした。
 ここにいてこうしていたって仕方がない。裾の埃を掃いながら立ち上がる。
「っ」
 油断するとすぐこれだ。一度弛んだ涙腺はそうすぐには戻らないらしい。滲みそうな涙を振り仰ぎ、冷たく黴臭い空気を深く吸い込んだ。

「――何で我愛羅が泣いてんだよ……」

「!」
 去ったと思っていたナルトが腕を組んで扉近くの壁に寄り掛かっていた。
 驚きのあまり一瞬息が止まった。今までの一部始終を見られていたのかと思うと羞恥で顔に熱が集まり、身の置きどころのなさから逃げ出そうと印を切ろうとした手を掴まれた。
「っ、泣いてない。馬鹿を言うな、手を放せ!」
「どう見たって泣いてんだろ」
 涙腺の緩くなった目からは、ぽろりと滴が零れる。
「好きだ。オレは我愛羅が好きだ」
 切なそうに懇願するようにナルトが言った。眦(まなじり)の滴を唇が優しく吸い取ってくれる。
「頼むから、何か言ってくれってば……」
 その腕に包まれて、ナルトの少しだけ速い鼓動が伝わってくる。じんわりと私を包む体温も匂いも凄く安心するけれど、そう易く、その背に腕を回す気持ちにはなれない。
「……怖いんだ。誰かを好きになるのも、好きになられるのも、私は怖い」
 表情を見られないようにナルトの胸に顔を埋(うず)める。
「知ってしまったら、もう知らなかったときには戻れない。失ってしまったら私は、きっと昔よりも心を亡くしてしまう。折角お前に出会って取り戻した心を亡くしてしまう」
「オレはなくならない。もしも我愛羅が心を亡くしても、オレが何度だって取り戻す。知らない方が良かっただなんて、言わせないってばよ」
 少し強めにはっきりと言い放たれた。一層強く抱きしめられたその振動で膜を張って残っていた涙がぽろりと零れた。
「何でそこまで私に……」
「知らないのか? オレは我愛羅が好きなんだ。これまでも、これからも、ずっと変わらずに我愛羅が好きだ」
 ナルトが笑っていた。
「……大馬鹿者だな……こんな女、放って置けばいいのに」
「無理だってばよ。オレは諦めが悪いんだから」
 この感情が恋なのか愛なのかわからないけれど、自分を信じられなくても、ナルトを信じてみようと思う。ナルトが心を寄せてくれた自分を、私は信じてみようと思う。
 触れ合った唇は下忍の頃よりも甘くて苦かった。けれどそれはとても心地の良い苦さで、幸福とはきっとこのような味なのだろうと思った。
 長い間逃げ続けたわりには何ともあっさり捕まったものだが、そこで私は漸く気が付いた。捕まりたくないから逃げたんじゃなく、捕まえて欲しかったから逃げていたのだと。
 今更気付くなんて。
「本当に、大馬鹿者だ」


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