10(完)
※名前変換すると違和感がある場合があります。
施設から自宅に戻った我愛羅が日常に戻れるはずがなかった。まるで幽霊か何かのように、気配なくひっそりと毎日を過ごしていた。
『不眠症気味』は『守鶴の精神浸食の伴う不眠症』に変わり、夜な夜な眠りに落ちては悪夢に魘(うな)され覚醒する。その度に、様子を見に来た夜叉丸にすがりついて眠るのだ。
満月の夜は特に酷い様子で、独りにしないでと言わんばかりに指先が白くなるほど強く夜叉丸の身頃を掴む小さな手は小刻みに震え。大丈夫だと宥めながらゆっくり背中をさすってやることしかできなかった。
世界を睨め付けるように視線が鋭くなるのも、偏頭痛に人知れず耐えているからで、器が壊れない程度にやんわり痛めつけるのが守鶴の好むやり方らしい。
とある月夜。窓辺で一人の少女が虚空を見つめていた。
夜も更け、少女の年頃ではとっくにベッドに入り夢を見ていなければならない時間だ。少女――我愛羅は眠らないのではなく眠れないのだった。
不眠症、慢性的な頭痛、情緒不安定。およそ普通の状態ではなかったが、我愛羅は必死に堪えていた。
またアカデミーに行きたかったから。
また姉兄たちと一緒にいたかったから。
それでも、世間は二度も我愛羅に振り向いてはくれなかった。
微かな物音に我愛羅の忍の耳が反応し、窓の外を見ていた瞳が室内の暗闇を凝視する。
砂色の床や壁が月明かりに白く浮かび上がり、物陰の闇を一層暗くさせた。
「私を殺しにきたの? ――夜叉丸」
その名を呼んだ瞬間、闇が揺れた気がした。
「……よく、私だと判りましたね」
暗闇から月明かりの中へ進み出た男が口布を外し、男の姉によく似た女顔が露わになった。
しかし普段の柔和さは欠片も残っておらず、厳しく触れたら切れてしまいそうな鋭さが全身から感じ取れた。
この人は本気で自分を殺しにきている。
いやが上にもそう理解せざるを得ない雰囲気だった。
「何で……?」
じわり。心の奥底に追いやった、昔の、前の人生で溜め込んだ、苦いものが滲み出す。
「何で!? 何で私を殺そうとするの否定するの!?」
じくり。張り裂けそうな胸の痛みに、濁ったものが染み出してくる。
「バケモノだから? ……そんなの嘘――」
どろり。暗く、陰鬱な、粘性のどす黒い感情が、一気に爆発する。
「バケモノじゃなくたって、愛してなんかくれなかったじゃない!!」
叫んだ拍子に涙が零れた。
ストロボのように強烈にフラッシュバックしたのは前の人生での家族だった。
自分を騙していた家族。偽りの愛情。否定、否定、自分と家族を繋ぐものは否定だけ。
また騙された、また否定された。他人なんて信じるに値しないと死ぬほど味わったのに、馬鹿みたいに信じた結果がコレだ。
愚かにも信じて裏切られて、何度同じことを繰り返せば気が済むのだろう。
突然動いた砂に瞠目すると、高い金属音をたてて砂の中から大量のクナイが落ちてきた。
目に見えて解る害意。肌でひしひしと感じる殺意は、コレが夢幻である可能性をことごとく否定する。
「夜はお静かに、でしょう?」
唇の前で人差し指を立て、笑顔で首を傾げた姿にぞわりと背筋を冷たいモノが這い上がる。
「アナタが愛されていようといまいと、今の私にはどうでもいいこと。私は里の忍として、アナタを殺すよう命令されました。里の意向が誰の意向か、聡い我愛羅様なら判りますね? 砂の守鶴を取り憑かせて生まれた我愛羅様は、実験体として今まで観察されていた。しかし力をコントロール出来ていない我愛羅様は里にとって危険すぎる存在……アナタは存在してはいけなかった」
夜叉丸は思った。姉のことを思った。姉が愛し姉を愛した義理の兄のことを思った。そして――自分を慕ってくれた砂の少女を思った。
ふと、姉が語った我愛羅の名前の意味が思い浮かぶ。
「修羅は本来正義の神、戦い続けるうちに我を忘れて妄執の悪になった。この子はきっと辛い人生を歩む。母の我が儘で辛い思いをさせるの。許してとは言いわないし許されようとも思わない。だけどどうか、自分で自分を否定する子にはなって欲しくない。世界のすべての人から蔑視され、誰からも愛されない修羅になったとしても、自分で自分を愛してあげられる子になって欲しいの。我を愛する修羅、我々が愛する修羅、それが、『我愛羅』」
姉の言う「我を愛する」とは「自己陶酔」ではなく「自愛」の願い。最後に見た姉は、膨らんだ腹を撫でながら幸せそうに笑っていた。
――夜叉丸には風影にも言っていない、胸の内に秘めた目論見があった。
他の人間に殺させるならばいっそのこと自分が殺そうと思ったのも真実だったが、世話係であった自分は生活面でもメンタル面でも我愛羅に最も近しく親しい存在。その親しい人物を返り討ちという形ででも殺めることが出来れば、我愛羅は今後生き延びるのに不必要な甘さと弱さを捨て去れる。
戦争のない今の時代、普通の忍なら甘くとも弱くとも何とか生きていられるだろうが、我愛羅は普通ではないのだ。
殺処分命令は撤回されることはないだろうし、それでいて里は我愛羅を兵器として都合良く利用するのだろう。
例え妄執の悪となり誰からも愛されない修羅であったとしても、生きていてさえくれれば、それでよかった。
姉の望む事を自分は出来なかった。それでも、自分なりにこの子を愛した結果がこれだったのだ。
夜叉丸が一歩近づく度に身を震わせ恐怖におののく我愛羅。
本当なら今すぐその小さな身体を掻き抱いて、大丈夫、何も案ずることはないのだと、いつものように安心して眠りにつくまで睦言のように言ってやりたかった。
でもそれはしてはならないこと。
だから我愛羅を抱きしめる腕の暖かさはそのままに、夜叉丸は死を口にした。
「我愛羅様……死んでください」
きっと里の誰よりも美しく成長したであろう少女。成長を見守り、幸せになる姿を誰よりも近くで見たかった。
どうか、どうか、生きてください――夜叉丸は只、そう願った。
忍ベストに仕込んでいた起爆札が煙と熱を発し始める。
「死ぬのはお前だ」
ぽつりと呟いた我愛羅が顔を上げると、そこには以前よりももっと温度のない瞳と人形のような無表情があった。
「何を考えているのか解らなくて戸惑う」から「何を考えているのか判らなくて恐い」に変わったのだ。
涙の痕がなければ、今まで譫言を言いながら泣き喚いていた少女と同一人物とは思えないだろう。
ゆらり、と巨大な生き物のような砂が我愛羅から夜叉丸を引き剥がし、手掌で操る砂が爆発寸前の夜叉丸を窓を突き破って外に放り出した。
それと同時に爆音が夜のしじまに響き渡る。
飛び散る肉片混じる骨片、肉が焼け血が沸騰し蒸発する臭い。胃がせり上がりそうなものだが、我愛羅は至って平坦だった。
――やっぱり駄目だったじゃないか。……何を馬鹿な妄想に耽っていたのだろう。どうして、もしかしたらなんて夢を見ていたのだろう。
今も昔も私は欺かれるヒトゴロシで、世界は欺瞞に満ちている。
何でこうなる? 私ばかりこんな目に遭う? どうして――『愛されないのか?』
思考に被せたように妙な声が脳に響いた。
嫌悪感を抱かせる、甲高いような野太いような、人間の声でないのは確かだ。
『そんなの決まってんだろ、お前みたいなカスに心を砕くほど、この世界の人間は暇じゃねぇんだよ』『誰もお前のことなんか見ない。誰もお前のことなんか必要としない。いつ爆発するか知れない爆弾を抱えた人形なんて、消えて欲しくて堪らないんだ』『誰もお前を求めないのなら、自分で自分を求めるしかないだろ? 自分は自分を裏切らない。絶対に裏切らない自分が自分を愛してくれる。もう他人なんて要らない』『そうだろ?』『お前の名は、我を愛する修羅。自分だけを愛して、自分のためにだけ戦う』
「――修羅だ」
痙攣混じりの笑い声が喉から零れ、ちりちりと焦げるような違和感に手の平を額にやると、鏡文字になった真っ赤な『愛』がべったりとついていた。
これが、少女が『愛』を刻んだ日。
「三つ子の魂百まで? そんなものは嘘っぱちだ。人は変われる、いつだっていつからだったって変われる。良い方へも、悪い方へもな」
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