不動の勇者 | ナノ


”不動の勇者”、グリゼルダ・イアヘルト。その名の通り、彼は”神霊樹の森”と最寄の村より外に決して赴かずして二度の魔王討伐を成し遂げた、極めて異質な勇者であった。

そも、彼は勇者になろうとして勇者になったのではなく、彼の最初の魔王討伐は、偶々魔王に鉢合わせたから、という理由で行われたものだった。


この世界に降り立った四人目の魔王、”災厄の魔王”カラミタス。ただ其処に在るだけで滅びを齎す災禍の化身。彼の魔王の顕現は、ついにこの世界も魔王の手に落ちる時が来たと、神族さえも匙を投げた。

闇に染まる空を引き裂いて、カラミタスは自らこの世界に終焉を齎さんと、地上に降り立った。それが偶々緑の国で、偶々”神霊樹の森”のすぐ近くで、偶々買い物に出ていた彼が其処に居たのが、”災厄の魔王”にとっての災厄であった。


人々が絶望に拉がれる中、彼は買い物袋を片手に、カラミタスへと歩み寄り、あろうことか、ただの拳打で魔王の頭部を吹き飛ばした。もう一度言おう。彼は、ただの拳打で魔王の頭部を吹き飛ばした。

魔王が殴り殺された。しかも一撃で。

間近で見ていた人々は、口を揃えてこう語る。夢なんじゃないかと思った、と。天からこの光景を見ていた神族達も、同じことを言った。


カラミタスは、間違いなく歴代最強の魔王であった。彼の存在は、それ自体が滅亡を現す。彼は滅びという概念から生まれた魔なるものである。故に、カラミタスが降り立った時点でこの世界は終焉を迎える筈だった。しかし、カラミタスは死んだ。買い物に来ていただけの、当時十三歳の少年に殴られて死んだ。

人々も神々も、世界が救われた喜びも忘れて呆然と佇む中、彼は買い物袋を持ち直して、こう言った。早く帰ろう、と。


斯くして、グリゼルダは早く家に帰りたいという理由だけで魔王カラミタスに立ち向かい、ゆくりなく勇者となったのだが、各国の王達から魔王討伐の褒賞として、次期国王の座を与えると言われても、王都への移住を許可すると言われても、彼は一切応じることなく、”神霊樹の森”で暮らし続けている。無論、二度目の魔王討伐後も同じだ。

グリゼルダは、この森から出る気は微塵も無いと、王からの褒賞を悉く拒んでいる。その理由は、彼がマルディン将軍の呼び出しに応じず、居留守を決め込んでいる所以と一致していた。


「まぁ、マルディン将軍」


投げかけられた可憐な声に振り向けば、木の実やが薬草が入ったバスケットを持った少女が茂みの奥から現れた。

薄紫色のロングヘアーの上に白い三角巾を被り、濃紺のエプロンドレスを纏った、歳の頃十代前半程の少女。彼女こそが、グリゼルダを”不動の勇者”たらしめる楔であった。


「シェオル殿」

「貴方がいらしているということは……また新たな魔王が? あぁ、あの子ったら! マルディン将軍自らお越しくださったというのに知らん顔をして!」


少女――シェオルは、細い眉を吊り上げるや両手に腰を当て、依然居留守を決め込むグリゼルダがいる小屋に向かって声を上げた。


「グリくん、出てきなさい! お母さん、そんな子に育てた覚えはありませんよ!」


今回初めてマルディン将軍に同行し、この森を訪れた若い兵士が首を傾げた。お母さん。彼女は今、そう言ったのかと。

その頭が定位置に戻るより早く、雨が降ろうと槍が降ろうと閉門蟄居を貫かんとする意志によって固く閉ざされていた扉が、キィと音を立てて開いた。ややあって、中から顔を出したのは、背の高い灰色の髪の青年だった。


「おかえり、母さん」

「ただいま、グリくん…………じゃなくて! ダメでしょう、居留守なんて使っちゃ! わざわざこんな所まで来てくださったのに!」

「普通の客なら出るけど……こいつらだから」

「またそんなこと言って! マルディン将軍に失礼でしょう!」


長い前髪の合間から覗く、鈍さと鋭さと兼ね備えたようなライムグリーンの瞳で此方を見遣る何処か気怠けな青年。彼こそが、二度の魔王討伐を成し遂げた歴代最強と名高き”不動の勇者”、グリゼルダであった。

齢は二十手前。伸びた髪を中途半端かつ適当に束ね、着古した麻のシャツを片方だけズボンの中に仕舞い込んでいるその姿は、とても勇者には似つかわしくない。勇者に憧れる子供達がこの姿を目にしたら、こんなの勇者じゃない、休みの日のお父さんと同じだと癇癪を起こすだろう。これは家にいる時の姿で、戦いの時には髪を整え、立派な鎧や外套を身に纏っている――という訳でもないので、救いが無い。

何時見ても、頭が痛くなる身なりだとマルディン将軍が額を押さえる中、シェオルに叱られたグリゼルダは一切悪びれた様子も無く、呆然と此方を見遣る兵士達を一瞥する。


「前も言ったけど、俺は魔王討伐の旅とか絶対行かないから。どうしても魔王を倒せっていうなら、隣町まで連れて来て。前の魔王はどうにかなったでしょ」

「あれは本当に奇跡的に成功したのであって、そう何度も出来ることではない。大体、隣町まで魔王を誘導するまでにどれだけの被害が出ると……」

「知ったことか。俺は、俺と母さんの生活圏内より外のことなんて興味無い」

「グリくんダメよ、そんなこと言ったら。今こうしている間にも、魔王軍のせいで困ってる人がたくさんいるのよ」

「でも、魔王討伐の旅なんて出たら、母さんと会えなくなるだろ。母さんは、俺がいなくてもいいのか? 母さんは、俺のことを愛していないのか? 俺より他の奴の方が大事なのか?」

「そ、そういう訳じゃないのよ! 私だってグリくんと離れるのは寂しいけど……」

「じゃあ良いよね」

「良くないのよーー!!」


シェオルがぽかぽかと胸を叩いても、グリゼルダはそれだけは譲れないと顔を向こうに逸らす。

ゆくりなく勇者となった彼にとって世界など救うに値しないものであり、シェオルとの暮らしが脅かされない限り、彼は何処で誰が死のうが構わないと言う。
それが勇者の言うことかと糾弾されようと、グリゼルダは断固動かない。自らの生活圏内であるこの森と、買い物に出る近隣の村や町に被害が出ない内は、シェオルが何を言ってもこの通りである。


前回の魔王強襲時は、隣村の住民を避難させた後、国中から集った猛者達に魔王メレトリーチェを誘導させることに何とか成功したが、あれはそう何度も出来ることでは無いと作戦指揮を執ったマルディン将軍が誰より心得ていた。

メレトリーチェが隣村に着くまでの間、多くの村や町が破壊され、作戦に加わった者もそうでない者も大勢命を落とした。

結果的に世界は救われた。だが、その為に犠牲になったものは、グリゼルダが出ていれば失わずに済んだものばかりだ。それでもお前は、また同じようにしろと言うのかとマルディン将軍が睥睨しても、グリゼルダは眉一つ動かさない。


「とにかく、俺は旅とか絶対出ない。俺にとって母さんと離れることは世界が滅びるのと同義だ」

「……世界がどうなってもいいと言うのか」

「俺にとっての世界は、母さんがいる場所だ」


これ以上話しても時間の無駄だと、グリゼルダはシェオルの手を引いて小屋の中へ戻ってしまった。

途端に静けさを増す森の中。世界滅亡の足音が近付きつつあることも知らない小鳥の呑気な囀りを掻き消すように、マルディン将軍は深い溜め息を吐いた。

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