FREAK OUT | ナノ
「ところで愛ちゃん……今日これから、時間あるかな」
口直しにもう一杯とコーヒーを飲む慈島に付き添い、なんとなく牛乳を飲んでいた愛は、思わぬ誘いに軽く眼を見開いた。朝食を終えた後の予定などすっかり忘れて、食後の余韻に浸っていたからだ。
普通に考えれば、昨日のあれこれで放置したままの部屋の整理整頓をすべきなのだが――何処か行かなければならない場所でもあるのかと、愛は肩に力を入れた。母が倒れてからの事を思い出した為だ。
母が亡くなる前後に、愛は様々な手続きの為、銀行や市役所、保険事務所といった所に足を運んでいた。家族ぐるみの付き合いがある幼馴染みの両親が代理人としてあれこれ手続きをしてくれたので、愛はその横で黙って座っているだけで良かったのだが、自分が如何に無知で無力な子供であるかを思い知らされるあの時間が、愛は苦手だった。
だから、またそうした場所に行かなければならないのかと愛は身構えていたが、それは杞憂だった。
「もうすぐ事務所の連中が揃うから紹介しておこうと思って……。俺が仕事に行ってる間とか、君のこと任せることもあるだろうし……多分、知っておいて損はないから……多分」
「あ、はい。全然大丈夫、です」
すっかり失念していたが、此処はFREAK OUTの支部の一つで、慈島以外にも所員たる能力者が居る。昨日はオフィスに誰もいなかったが――今日は全員、揃っているのだろうか。
一体どんな人達なのだろう、そもそも何人いるのだろうと想像を膨らませてみたが、すぐに止めた。どうせ、すぐに分かることなのだ。そんな事より、これからお世話になる人達に少しでも良い印象を持ってもらえるよう挨拶の言葉を考えておくべきだと、愛は気合いを入れるように牛乳を飲み干した。
「じゃあ、九時になったら一緒に下に行こう。顔合わせが終わったら、荷物出すの手伝うよ。君もそろそろ学校に行かなきゃならないし……家具とか並べて、必要な物出さないとだ」
「慈島さん、お仕事は?」
「有給取った」
昨日今日と自分に付き合っていて大丈夫なのかと愛は慈島を案じたが、大人には有給というものがあったかと納得した。同時に、有給というのもそう簡単にとれるものではないと思い出して、やはり申し訳ないなと愛は眉を下げた。
慈島の貴重な休みを一日潰した上、更にもう一日、部屋の手伝いに費やさせるなど。家具などを動かすに辺り男手は欲しいが、此処はどうにか断わりを入れるべきかと愛は悩んだが、慈島は元々使い道の無い物なので気にしないでくれと自嘲気味に笑った。
「休みを取るような用事がないから、溜まってたんだ。今日の分は、何か必要な物とかあったら買い出しに付き合おうって思って取っておいて物だから、気にしないで」
「……本当に、色々とありがとうございます」
「いいんだよ。久し振りに、有意義な休みの使い方が出来るから」
そう言って、カップを下げにキッチンへ向う慈島の背を視線で追いながら、愛は少し項垂れた。
くどいようだが、自分達は他人同士で、慈島は愛に直接の恩がある訳ではない。加えて、昨日彼に浴びせた数々の無礼を思えば、こんなにも自分に良くしてもらえる事が心から申し訳なくなる。慈島は、気にしなくていいと言ってくれるだろうが、それでは愛の気が済まない。
彼の優しさに報いる為にも、出来る事を頑張ろう。まずは今日の夕飯を、自分史上最大の出来栄えで作る所からだと愛が意気込んでいると、キッチンから慈島が顔を覗かせて来た。
「そういえば愛ちゃん……そろそろ、着替えた方がいいと思う」
「…………あ」
すっかり皺だらけにしてしまった慈島のスーツをハンガーに掛け、それなりに気に入っていたカットソーを文字通り脱ぎ捨てる。
着替えは数日分鞄に詰めて来たので、ダンボールに手を付ける事なく着替えは完了した。
グレーのパーカーに、ボーダー柄のシャツ、ジーンズ地のハーフパンツ、お気に入りのニーソックス。いつも好んで着ているコーディネートだが、いざ着替えると、もっと飾り気のある可愛らしい服を詰めてくるべきであったという気になった。
今からでもダンボールの山を開け、ガーリィなワンピースでも掘り起こそうかと考えたが、結局止めた。妙な見栄で時間を潰し、慈島に迷惑をかける訳にはいかない。見苦しい格好でもないし、これで問題無い。だから、普通に部屋を出ろと自分に言い聞かせ、愛はドアノブを掴――もうとして、ハンガーに掛けた慈島のスーツを思い出し、踵を返した。
改めて見ると、慈島のスーツは中々に着古した物のようだった。持ち主のそこはかとない気怠さを体現したかのようなよれ具合と、染み付いた煙草の匂いが、それなりの月日を感じさせる。
そういえば、朝から煙草を吸っている様子が無かったが、仕事中に吸っているのだろうか。そんなことを考えながら、愛はハンガーごと慈島のスーツを手に取った。
「…………」
一瞬、スーツを慈島に返すのが名残惜しくなった。何故かは分からないが、彼のスーツを手元に残しておきたいと、そう思ってしまったのだ。
だが借りたものを返さない訳にはいかないし、何故返さないのかと問われるのも、困る。とても困る。馬鹿なことを考えるなと頭を横に振って、愛は自室の扉を開いた。
「すみません、お待たせしました」
「ん、あぁ……」
居間に戻ると、ソファで煙草を吹かしていた慈島が、慌てて吸い殻を灰皿に捻じ込んだ。
副流煙の事を気にして、愛が離れるまで我慢していたらしい。二、三本吸い殻が転がる灰皿を見て、もう少し悩んでいた方がよかったのかもしれないと、愛は眉を下げて苦笑した。
「……そうだ、先に言っておくべきことがある」
家を出て、鍵をかけると同時に、思い出したかのように慈島が口を開いた。
突如いやに深刻な調子で足を止められたので、愛が思わず固唾を飲む中。慈島は額に片手を添え、鉛のように重く頭を悩ませる然る問題について語った。
「恥ずかしい話なんだが、うちの事務所……FREAK OUT第四支部は、問題のある能力者で構成されている零細事務所でね。所員の奴等は能力者としては優秀だが、それぞれ厄介なものを抱えていて……。正直、あまり君に会わせたくない連中なんだが……まぁ、まともな方に入るのもいるから……」
「……慈島さんが、そこまで言う程なんですか」
「俺自身、人のこと言えないんだけどね……だから、こんな所で所長やってる訳だし……」
最早クセと化している自嘲を漏らしたところで、慈島は自分を戒めるように目蓋を下ろした。
こんなことを彼女に話しても、悪い気しか与えない。発言には気を付けろ。そう頭の中で自身に言い聞かせながら、慈島はがしがしと前髪を掻いた。
「……ごめん。直前にこんなこと言って」
「い、いえ、大丈夫です!私も、ほら!初日から家出するような問題児ですから!」
愛なりに、冗談を交えることで慈島に心配無用であることをアピールしたつもりであったが、我乍ら中々に笑えない自虐で、作り笑いが盛大に引き攣っていた。滑った、というより、大転倒である。
だが慈島は、愛が気を遣って返してくれたので、幾らか安堵したらしい。
「いや、愛ちゃんはいい子だよ」
そう言って、愛の頭をくしゃりと撫でると、慈島は廊下へ一歩踏み出した。それに続いて、愛もせかせかと足を進めた。
行き先はたった一階下だというのに、妙に長く感じる廊下と、階段の一つ一つを、恐る恐る踏み締める。そうして辿り着いた扉の前。FREAK OUT第四支部と書かれたプレートを見つめながら、いざと意を決したその時。
「てめぇいきなり何すんだ!!」