霊食主義者の調理人 | ナノ


眼を覚ました時。其処にあるのはいつか見た天井だった。


――もしや、今までのことは全て夢だったのか。

そんな感覚に見舞われながら腕を上げると、手首に赤い紋様の一部が刻まれているのが見えた。よかった。あれは現実だったのかと安堵すると同時に、そういえば彼女は、と不安に駆られ、慌てて上体を起こし掛けたところで、伊調は気が付いた。


「……お嬢様」


ベッドに突っ伏すように、小さな寝息を立てる少女。見知った顔だというのに、肩で息をしていなければ、人形かと思ってしまいそうになるその美貌は、紛うことなき羽美子だ。
 思えば、彼女が寝ているところを見るのは初めてなので、一瞬でも作り物かと思ってしまうのは仕方ないかもしれないが――なんて考えていた時。


「まだ、寝かせておいてあげてくださいませ」


シーッという声に引かれるように視線を移せば、其処には椅子に腰かけた老人――結崎がいた。

あの時、屋敷に残って巨大な悪霊を封じていた彼も、無事生還を果たせたらしい。治療術を施されたのか、いつものように両手に白手袋を嵌めて、穏やかな微笑みを浮かべる彼を見て、伊調は心の底から安堵した。


「結崎さん……無事だったんですね」

「お陰様で。……伊調様も、大事ないようで」


無事を歓喜してくれるのは嬉しいが、自分の方が重傷であることを自覚してくれと、結崎は珍しく厭味ったらしい言い方をして、悪戯っぽく眼を細める。

伊調の体は、祟り神から受けた外傷のみならず、加工させた魂の影響で変異を遂げた傍から無茶苦茶に働かされたダメージもあって、酷く痛み切っていた。治療術を極めた教会屈指の術師達も、初めてのケースだと四苦八苦し、どうにかこうにか術を施したことでだいぶ回復したが、下手すればまだ数日は寝込んでいただろう。


「伊調様が此処に来て、五日が経過しております。……大徳寺様が、出て行った傍からこれかと呆れられておりましたよ」


小言のように現状を報告しつつ、結崎はサイドテーブルに乗せられていたピッチャーとコップを手に取り、水を注ぐ。それを有り難く頂戴しながら、伊調は今度は大先生の方に色々と言われてしまいそうだなと肩を竦め、一気に水を煽った。

久方ぶりに飲む水というのはこんなにも美味いものなのだなと感動していられたのも束の間。自分が五日も眠っていたということはと、伊調は眼を剥き、眠りこける羽美子へ視線を向けた。が、彼の不安は結崎がすぐに払い除けてくれた。


「ご安心くださいませ。流石にあれだけの量……しかも祟り神でございました故、相当な腹もちであったようです。お嬢様は一度たりとも空腹を訴えられておりません」

「……強がりじゃないんですかね」

「流石に四日目辺りからは、そうだったかと」


屋敷の方にいた悪霊は、祟り神を食べた羽美子が満腹であったこと、彼女の腹が空くまで結崎が持ち堪えられないだろうということで、教会の術師によって討伐されたらしい。それから彼女は、再び病棟に運び込まれた伊調の傍を片時も離れなかったので、霊を食べにいくこともなく。霊食主義者たる故に、普通の食事を摂ることもなく、今日まで水分しか摂取していないとのことだ。

あの大食漢が、よくも五日もと感心する以上に、申し訳なくなって、伊調は眼を伏せた。


「お嬢様は貴方がお目覚めになるまでは何も食べないと仰っておりました。自分の食事は、彼の食事の後……それが決まりだからと、此処で伊調様が目覚めるのをずっと待っておられました」

「……本当に、変なこだわりばっか強いよなぁ、あんた」


未だすやすやと眠り続ける羽美子の頭を優しく撫でつつ、伊調は思い出した。


――神喰に行く前。伊調は大徳寺に、何故羽美子は霊食主義なんてやっているのかと尋ねたことがある。霊しか食べられない訳でもあるまいに。霊餐を継ぐ前は普通の食事を摂っていただろうに。どうして今、齢十歳の少女が、悪霊のみを食べることを貫いているのかと。至極当然の疑念を投げかけた時、大徳寺から語られた羽美子の過去を回顧しながら、伊調は小さな息を吐いた。
 



羽美子は五歳の時、病に侵され死を迎えんとしていた母親の魂を喰らい、霊餐を受け継いだ。誰よりも何よりも愛した母の魂を、自らの手でフォークに突き刺し、咀嚼し、飲み込んだ。

それは誰から見ても致し方ないことであり、決して間違ったことではない。彼女の母、澄子もそうされることを望んでいたことだ。だが、羽美子はそれでも、母を殺めた自分を許せなかった。仕方ないことだと割り切るには、羽美子はあまりにも幼くて。霊餐を受け継ぎ、教会最強の退魔師となる基盤が、しっかり作られていなかった。故に彼女は、母の魂を食らった罪と共に、神喰当主に就く重責を背負ってしまった。

羽美子が霊食主義者となったのは、母を殺めた己への戒めであり、最強の名に恥じぬ退魔師にならんとする彼女なりの奮励であるのだ――と。

そう聞かされた当時は、そりゃ大変なことだとしか思えなかった。しかし、神喰に仕えてから、彼女の真摯さや健気さ、その身に背負う覚悟や、内に潜む弱さに触れて。伊調は今、心の底から羽美子のことを憂いていた。

未だ十歳の女の子が負うには、罪も罰も重過ぎる。それを課したのが自分自身なら、尚更だ。それを取り除いてやることも出来ないどころか、彼女に余計な心痛まで与えて。自分は本当に、何をしているんだかと深い溜め息が出て来たところで、伊調は「そういえば」と結崎に尋ねた。


「……膳手は、どうなりました? それと、地下の……」

「彼と、捕らわれていた人々は教会が回収致しました。そちらもご安心を」


和島姉妹の放った麻酔弾により昏倒した膳手は、厳重に捕えられ、禁術師用の監獄に収容された。

民間人の拉致監禁と悪霊付与、禁術乱用、教会所属術師の脅迫・誘拐・殺人未遂――諸々の罪は、近い内に教会上層部によって裁かれるそうだ。

彼に捕えられ、悪霊の苗床にされていた人々も、除霊と治療を施され、全員どうにか命は取り留めたらしい。あちらを調理する前に倒れてしまったので気掛かりだったのだが、全員無事ならよかったと伊調が胸を撫で下ろすと、また結崎が呆れたような声を落とす。


「……それより、ご自分の体を案じてくださいませ、伊調様」

「あっはは……それはなんていうか……俺自身が一番分かってるんで」


伊調が自身の魂を調理した現場に居合わせなかった結崎も、和島姉妹から彼のしでかした無茶を聞いている。

命を落しかねない危険を省みず、人ならざるモノに成り果てることを承知で自分の魂を加工するなど。今こうして、まともに会話出来ていることさえ奇跡だ。なのに、自身のことをまるで顧慮しない伊調に、結崎は説教の一つでもしてやりたかったのだが。生涯消えることのない傷と赤い紋様を撫でながら、尚も曇りのない顔をしてみせる伊調を見ていると、そんな気にもなれなかった。


「俺の体……今はまだ、ギリギリ人の形をしていられるけど……多分、あまり長くお嬢様の傍にはいられないでしょう。それまでに後輩を見付けておかないとだ」

「……お嬢様が聞いたら、さぞお怒りになられますよ」

「ですよねぇ」


けらけらと軽薄に笑ってはみせたが、後ろ暗い気持ちが滾々と湧いてきて、伊調はまた眼を伏せた。


「……やっぱ俺は、駄目調理人ですね。お嬢様に笑っていてもらいたいって思ってあれこれしてきたけど……結局どれも裏目に出て終わっちまう。まだ十歳の子供さえ笑顔に出来ないで……何が数十年に一人の天才だって話ですよね」


目蓋の裏には、気を失う直前の記憶が刻み込まれている。倒れた自分に必死に声をかける羽美子。お願い、死なないで、私を置いていかないでと懇願する彼女の泣き顔。


――あんな顔、もう二度とさせまいと思っていたのに。


人間を捨てても、その願いは叶わないとはお手上げだと、伊調は自嘲する。そんな彼が、何を考えているのか見透かした結崎は、少しでも此処に伊調を繋ぎ止めておけるようにと問い掛けた。


「これからどうされるおつもりですか、伊調様」

「うーん……人間じゃなくなっちまった以上、フツーに社会に出て働く訳にもいかないですし……」


今は未だ人らしい姿形でいられているが、直に加工した魂に合せて、体の異形化が進行するだろう。そして、体が変異を遂げるのに合わせて、自分の心も変わってしまうに違いない。

そうなる前に、どうにか後任の調理人を見付けて、身の周りを整理して、家族に上手いこと言い訳して――。やることは山積みだが、未だ具体的に、いつ何をやるかは浮かばない。だが、終着点が変わらないのは確かなことだと、伊調は眉を下げ、少し寂しそうに笑った。これも、彼女が聞いたらさぞ目くじらを立てることになるだろうな、と。


「取り敢えず、後任探しの旅でもして……そっからは…………」

「……許さない」

そう、ちょうどこんな風にと、自分を睨み付ける紫色の瞳と鉢合わせ、伊調は声無き絶叫を上げた。

完全に油断していた。彼女は相当深く眠りに就いているようだし、この機会を逃すと話せなくなりそうだからと、結崎に洗い浚い吐いていたというのに。やってしまったと口をパクパクさせる伊調に、羽美子は充血した眼で睨みを利かせ、未だかつてない怒気を孕んだ声を浴びせた。


「そんなの、絶対許さないわよ、伊調」


狸寝入りしていた訳ではないらしい。やや舌が回らず、目も座ってはいない。動きも緩慢だ。だのに、思わず血の気が引く程の気迫を放ちながらゆっくりと体を起こし、羽美子は伊調の胸倉を掴んだ。


「貴方は私の専属調理人よ。それが、勝手に私から離れるなんて……そんなの絶対、私は許さない」


俺は一応、怪我人なんだけどなと思いながら、胸倉を掴まれた状態で、伊調は必死に考えた。この、一度決めたら断固意志を曲げないお嬢様を説伏する言い訳、もとい、弁明の言葉を。火に油を注ぐようなことにならないよう、上手いこと弁解せねばと。


「けどな、お嬢様、俺は」

「人じゃなくなったから何よ」


だが、羽美子は断として伊調が言い逃れすることを許してはくれず。依然彼の胸倉を掴み上げたまま、羽美子は涙で潤む瞳で真っ直ぐに彼を睨み付ける。視線を逸らすことさえ許可してやらないというようなその眼に、伊調が言葉を失う中。羽美子は泣いて堪るかと鼻を啜りながら、必死に言葉を紡ぐ。


「貴方は、伊調理人。私の調理人……伊調理人、そうでしょう」


思えば、存外羽美子は泣き虫だ。人形めいた顔立ちや、大人びた態度から、彼女の涙腺はかなり丈夫だと思っていたが、悪魔と戦った時も、膳手の時も、羽美子はよく泣いている。

未だ十歳の少女なので、それが当然なのだが。彼女がこんな風に、普通の子供らしく在ることが、伊調は――些か不謹慎だとは思うが――少し嬉しかった。


「例え貴方が人でなくなっても、貴方が貴方である内には、私は貴方を何処へもやらない……。貴方が食い繋がせた私の未来には……貴方がいないといけないの」


彼女は、退魔師にならなければならなかったが故に、子供であることを捨ててしまった。誰かに甘えることも、弱音も吐くこともせず、神喰当主として、母の力と魂を継ぐ者として振る舞い続けてきた。そんな羽美子が、等身大の少女の姿を見せてくれるということが、とても尊いことに思えて。伊調は、胸に頭を埋めて来た羽美子の髪を優しく撫でてやった。


――自分が神喰に仕え続けることを彼女が許しても、天は許してはくれないだろう。

刻一刻と時が過ぎ去るように、徐々に人から離れていく自分は、そう遠くない未来に、彼女と離別しなければならない。だがそれでも、羽美子が自分を、伊調理人を認め、受け入れてくれるなら。あの日誓ったように、自分は彼女に誠心誠意尽くそう。悔いもなく、怨恨もなく、最期を迎えられるように。
 

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