霊食主義者の調理人 | ナノ


擦れ違う人々の驚く顔と、景色が次々に流れていく。

一体、ガストロは何処へ向かおうというのか。何処まで走っていくつもりなのか。こっちは病み上がりなんだぞ、お前はそれを分かっていたんじゃないのかと、久方ぶりに動かす体で懸命に追いかけて、追いかけて――。


「きゃっ!?」

「ワン!」


曲がり角の先。誰かが短く叫ぶ声に、慌ててブレーキをかけながらカーブしたところで、伊調はようやく立ち止まったガストロの首輪を勢いのままに引っ掴んだ。


「お、前は……っ!」


自分を振り回すだけならまだしも、人様に迷惑をかけるとは。これは一言言ってやらねばと伊調が息を整える中、ガストロは吠えることこそ止めたが、未だ何か訴えるように伊調の服を引っ張ったり、鼻でぐりぐりと体を押したりしてくる。

一体、何なのだと肩で息をしながらガストロを睥睨していた伊調であったが、彼の意識はすぐさま、別方向へと掻っ攫われていった。


「貴方……あの時の退魔師さん?」


聞き覚えのある声に、ガストロを咎めるのも止めて、伊調は顔を上げた。そうして向けた視線の先には、未だ記憶に新しい女性と、その後ろに隠れるようにして佇む少女の姿。

此処にいることは知っていたが、まさかこんな時に会うことになるとは――と、予期せぬ邂逅に目を見開きながら、伊調は「ああ、やっぱり」と微笑むその人に、気まずそうな面持ちで会釈した。


「あんた……ああ、えっと」

「……旧姓に戻ってるの。今は酒々井(しすい)……酒々井ゆみ子です」


改めてましてと自己紹介しながら丁寧にお辞儀するその人は、かつて伊調が調理した生霊の母親、ゆみ子だ。

あの一件以降、夫・畝方とは早々に離婚したとは聞いていたが、さて名字はどうなっていたかと、伊調は一瞬どもった。

彼女達にとって、あの男の名前はもう二度と耳にしたくない、忌まわしき呪いの言葉にも等しいのだ。口にしてしまわぬようにと気を遣ったが、結果的に気を遣われたのは此方のようで、伊調はますます気まずそうな顔をして「すみません」と一礼した。

そんな彼に、ゆみ子は申し訳なさそうに苦笑しつつ、半歩後ろから彼を見遣っていた少女の背を軽く押した。


「それでこの子が、貴方に助けていただいた……娘の沙綾です」

「……こんにちは」

「……こんにちは」


さらりと揺れる黒髪に、少し怯えたような顔。あの時対峙した姿とは似ても似つかぬ少女――酒々井沙綾に、伊調はばつが悪そうな面持ちで挨拶を返した。

写真で見たことはあるが、実際当人に会うのは初めてだ。しかしこうして間近で見ると、目元などが母親に似ているなと思う。

明るい子だと聞いていたが、すぐに母親の後ろに引っ込んでしまったところを見るに、未だ心の傷に酷く苛まれているのだろう。その様に一層心苦しそうにする伊調に、ゆみ子は眉尻を下げながら、改めて御礼をと、深々と謝辞を述べた。


「お陰様で、体の方はだいぶよくなって……。あの時は本当に、ありがとうございました」

「いえ……俺は、そんな…………」


お礼を言われる筋合いはないと、伊調は眼を伏せ、小さく項垂れた。

自分は彼女を――沙綾を救ってなどいない。あの時、沙綾が生霊になった経緯を知るや、調理を途中で放棄しようとした自分は、寧ろ咎められるべきだ。
感謝されるべきは、そんな自分を鼓舞し、沙綾の生霊も、残る筈であった後遺症も平らげた彼女だと、伊調は眉を顰める。


「この子がこうして無事でいられるのも、お嬢さ……彼女がいたからで。俺なんか、何も…………」


そう。自分がいなくたっていいのだ。退魔師として、悪霊調理人として、実力も精神面もあまりに未熟。そんな自分など、彼女には必要ない。自分などいなくても、彼女はやっていける。だから――と、自分の中で一つ、想いを断ち切ってしまおうとした、その時だった。


「……同じようなことを、あのお嬢さんも言ってましたよ」


思いがけないゆみ子の言葉に、伊調はこれでもかと眼を見開いた。そんな、まさかと問うようなその顔に苦笑しながら、ゆみ子は自分が見たことを見たままに話す。きっとそれが、今の彼に、そして彼女に必要なことだろう、と。


「三日前に、偶然お会いした時……『私はただ、食事をしただけ。彼女を救ったのは、私の専属調理人よ』って。少し、悲しそうな顔をして」


ちょうど伊調が担ぎ込まれた日。彼が治療を受けている間、病棟で待ち続けていた羽美子は、たまたま外来で訪れていた酒々井親子に遭遇した。そして、先程伊調としていたように、挨拶と、改めて感謝の言葉をと頭を下げたところで、彼女は言った。伊調と同じような顔で、伊調と同じような言葉を。

当時ゆみ子は、何故羽美子があんな様子だったのか分からなかったし、その訳を聞くことも出来なかったのだが。成る程、こういうことかと、ゆみ子は何となく、二人の間に何があったのかを察した。


「何かあったのかしらって思ったけど……そう。貴方が、此処にいたから、あの子は元気がなかったのね」

「…………」


否定の言葉が見付からなかったのは、ゆみ子がそんな嘘を吐くような人物ではないと分かっているからか。はたまた、羽美子がそう言ってくれることを心の奥底で信じ、求めていたからか。
失態を犯しても、優秀な調理人が戻って来ても。羽美子は、それを理由に自分をお払い箱にするような主ではない。そんなこと、疑うまでもないことの筈なのに。息をするように理解していた筈なのに。なのに、どうしてこんなにも胸が痛むのか。

何故か、喜びよりも居た堪れなさが込み上げて来て、愁眉を開けぬままでいる伊調。ややあって、そんな彼に声を掛けてきたのは、沙綾だった。


「あの……伊調さん、ですよね」


おっかなびっくり。今にも母親の後ろに引っ込みそうな様子で。それでも沙綾は、伊調に伝えなければならないことがあると、懸命に前に出た。

きっと今を逃せば、一生言えないままで終わってしまうに違いなからと。懸命に自分を振起し、沙綾は震えそうになる手を握り固めながら、言葉を一つ一つ紡いでいく。


「私、あの時のこと……生霊になってた時のことは、あまり覚えてないんです。私自身が忘れようとしているのか、あれが私であって私じゃないものだったせいか……そこはよく、分からないんですけれど。でも……暗いところに一人で……怖くて、苦しくて……。なのに、此処にいなきゃっていう気持ちのせいで離れられなくて……。私はこのまま、自分じゃない何かになってしまうしかないんだって……そう思っていたところに、スッと光が射し込んで来て、気が付いたら目が覚めて……。嗚呼、私、生きてるんだって……そう実感出来て……」


思い返すだけで、おかしくなってしまいそうになる。生霊になっていた時のことも。そうならざるを得なかった日々のことも。沙綾にとっては忘れたくても忘れられない、恐ろしく、悍ましい記憶だ。

こんなものを抱えて、これから生きていくのかと思うと、正直、気が滅入る。あのまま楽にしてくれていたらよかったのに。あの男を道連れにさせてくれたらよかったのにと、呪わしく思うこともある。けれど。もう二度と見開くこともないだろうと思っていた目蓋を開けた時、心の中に強く刻み込まれた感情が、暗鬱や憎悪を透かしてくれるから。だから大丈夫なのだと、ぐっと顔を上げて、沙綾は痛切な――それでいて、眩く輝かしい笑みを伊調に見せた。


「私、もう死んでしまいたいって心の底から思っていたのに……。お母さんにもう一度会えた時、お母さんに抱き締めてもらった時、生きててよかったって……本当に、そう思えたんです」

一粒だけ零れ落ちた涙は、悲しみから込み上げたものではなかった。怒り、憎しみ、痛苦に飲まれ、自ら手放したものに再び抱かれた喜びが、沙綾の胸の中には何よりも強く刻まれている。

それは、伊調達がいなければ手に入らなかったもの。生きること。生きて、愛しい人の腕に抱かれること。ただそれだけの尊さを噛み締めながら、沙綾は言う。今も確かに動き続けている心臓が告げるがままに。


「伊調さんと、羽美子ちゃんのお陰です。本当に……本当に、ありがとうございました」


深々と頭を下げ、感謝の言葉をくれた沙綾を見て伊調は、自分がしてきたことは決して無意味ではなかったのだと痛感した。

未熟なりに、半人前なりに。彼女に背を押され、手を引かれながら。それでもやってきたことは、誰かの為になっていた。そしてそれを、羽美子は正しく評価してくれていたのだと改めて感じ、伊調は暫し声もなく、感慨無量で佇んでいたのだが――。


「…………なぁ、沙綾ちゃん」

「はい?」

「……嫌な事を思い出させるようで気が引けるんだが……一つだけ、聞いてもいいかな」


沙綾が丁寧に曲げた腰を上げる寸前。しな垂れた髪の合間に見えた彼女の首筋に、伊調は全身の血が冷えて切っていくような感覚に見舞われた。

きっとそれは、沙綾自身にまるで覚えのないことだろう。目覚めてから今日まで、誰かに指摘されることはあっただろうが、それが何かを沙綾当人も、これを目撃した第三者も理解することはなかったに違いない。


理解不能。誰もその意味を図りかねているが故に、危惧されずにいた脅威。伊調も、これが今ここで初めて見たものであったなら、こんなにも戦慄することは無かっただろう。

宛ら、点と点の間に線が引かれたような。穴だらけのピースが思いがけず埋ったような。そんな、既視感が生み出してきた予感。その是非を確めなければと、伊調は心苦し想いを押し潰し、沙綾に問う。


「君が生霊になる前……変わった人物に会った記憶はないか?」

「変わった人物……ですか?」


まさかとは思う。そんなことがと、否定したい気持ちにもなる。しかし、可能性がゼロだと言い切ることも出来なくて。考えれば考えるだけ疑念が膨らんできて。伊調は今にも駆け出して、真偽をその眼で確かめたい衝動を堪えながら、沙綾の答えを待つ。

もし自分の直感が正しければ、彼女は恐らく――。


「そういえば――」

「ギャアーーーーッ!!」


核心に目と鼻の先まで迫ったところで、けたたましい叫び声が響いてきた。その声に掻っ攫われ、沙綾の言葉は途絶え、伊調の意識も其方へと持って行かれてしまった。


「な……なんだ、今の声」


明らかに、人のものではない獣声。距離はそう遠くないだろう。恐らく、病棟内にそれはいる。しかし何が、一体どうして――と、伊調が立ち尽くしていた時だ。


「ワンワン!! ワン!」

「お、おい! ガストロ!!」


再びガストロが伊調の服を引っ張り、声のした方へと向かっていく。

異常事態だ、お前が行かないでどうするというように。ガストロは先刻よりもスピードを上げて、廊下を駆ける。

ぐんぐんと酒々井親子から遠ざかっていくことに狼狽えながら、ガストロの勢いに抗えず、引っ張られ続けていく伊調は、沖合まで流されていく船のように、離れ行く真実へと手を伸ばす。


「ま……待てって、おい!! まだ話が……」

「ワン!!」


だが、引き返すことも立ち止まることも、ガストロは許してはくれず。あっという間に酒々井親子の姿は見えなくなってしまった。

こうしてその場に残されたゆみ子と沙綾は呆然と佇んだまま、伊調は大丈夫だろうかと、彼の身を案じることしか出来ずにいた。
 

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