楽園のシラベ | ナノ
此処は、《蠢きの森》に隣接した海岸沿いの村・パクアブ。
海での漁業と、森から出てくる獣の狩猟が盛んで、水中での活動に特化した新人類が暮らしている、長閑な村だ。
規模は小さく、取り立て観光するような場所もないが、豊かで美しい自然に囲まれた温暖なこの地に、バカンスに訪れる者も少なくはない。
よって、村には来客用の駐車場を始め、宿屋や食事処、土産屋も備えられており。
村人達も、見慣れぬ人間が歩いていても、特に気にすることなく。寧ろ「よう、旅のお方! 今日の宿は決まったか?」などと、気さくに声を掛けてきてくれる。
ああ、いい村だなと、訪れた誰もが感じる。それが此処、パクアプなのである。
「あったかいし、いいとこっすねぇ。老後はこーいうとこでのんびりしたいっす」
海上コテージの食事処で、クルィークは搾りたてのジュースを飲みながら、ほぅと感嘆の一息を吐いた。
苛酷な雪山育ちで、寒さを防ぐ為に毛髪が発達している彼に、パクアプの気候は厳しいのではないかと思われたが、この陽気をクルィークはお気に召したらしい。
澄み渡る海を眺めながら、ぽやぽやと日光を浴びている姿は、日向ぼっこに興じる老人のようだ。
老け込むにはまだ早過ぎるだろうに。
シラベが苦笑していると、給仕の女性がサービスワゴンに食事を乗せて来て、同時にクルィークがバッと視線を料理の方へと移した。
ぼんやりしていても、食事に関するアンテナは敏感らしい。
ますます可笑しくなって笑うシラベの前に、給仕の女性は注文した料理を次々に並べていった。
「お待たせしました。アクアパッツァ、蛸のマリネ、パプリカと肉団子の炒めものに、ココナッツミルクカレー、タンドリーチキンとバナナのフライです」
「うぉー! 美味しそうっすね!」
「いっただきまーす!」
獲れたての新鮮な海の幸と、村の特産品を使った、彩鮮やかな料理は、見た目も華やかだが、味も実に見事だった。
独特な風味のスパイスが鼻を擽り、程よく味付けされた食材の旨味が口の中で躍る。どれもこれも、此処でか食べられない絶品だ。
「んー、美味しい! 自然も豊かで、気候は穏やか。食べ物もおいしいなんて、まさに楽園っすねぇ」
「ならいっそ、此処に移住したらどうだ、クルィーク。この近くは獣も出るから、狩人の需要あるぜ」
「そうっす、ねぇ……」
両手に別々の料理を持って、口いっぱいに頬張ったクルィークは、シラベの提案と食事を一緒に含味するように、暫し顎だけを動かした。
その間が、即答に至らなかったのが、どういう意味なのか。
口の中の物を嚥下したクルィークが答えるよりも先に、シラベには察しがついていた。
「出来ることなら、一族丸ごと此処に移り住みたいっすねぇ。もし《アガルタ》の奇跡でも、俺の故郷がどーにもならなかったら、検討してみるっす」
「……そうか」
野暮な質問だったなと、シラベは、自らの誤魔化すように、グラスの酒を呷った。
そんな彼の様子に、リヴェルは、何だかシラベらしくないなと、訝しみながら料理を食べ進めた。
クルィークはまるで気にしていないが、今の彼の言葉は、限りなく失言に近い。
遥か北の果てから、南の端までやってきたクルィークの目的や覚悟を、知らぬ彼ではあるまいに。
笑いの種にもならないジョークを口にして、自ら気まずさを感じるなんて。
酔いが回っているのか。
いや、いつも鯨飲してもあからさまに酔うことなど無かったシラベが、たかがグラス一杯程度で、思考が妨げられる程に酔う訳がない。
そこまで強い酒という訳でもなさそうだし、リヴェルには、彼が下手な冗談を言ってしまった理由は、見当たらなかった。
――何か、あったのか。
そう尋ねるのは何故か憚れて、リヴェルは眉を顰めながら、黙々と食事を続ける。
思えば、この面々での食事は、いつも賑やかだった。
オステリア、宿屋の食堂、酒場――周りが賑々しいところが多かったが、キャラバンの中や人気のないパーキングエリアでも、取り留めのない会話を交わし、くだらないことで笑い合ったりして。
記憶にある限り、何時何処でも、一行の食事は楽しいものだった。
だのに、此処に来て、波の音さえ聴こえる、こんな妙な静けさの中でテーブルを囲むことになるとは。
リヴェルは、いつもみたいに、誰か何か話してくれやしないかと、祈るようにカレーを掻っ込んだ。
クルィークが、ぽつりと呟いたのは、そのすぐ後だった。
「……もうすぐっすよねぇ。俺らの、旅の終わり」
その、波に飲まれていきそうな声に、シラベもリヴェルも、シソツクネでさえも、動きをぴたりと止めた。
シラベがらしくないと思ったら、クルィークまで、そんなことを言うなんて。
リヴェルが思わず目を見開くと、彼自身、柄でもないことを言ってしまったと自覚しているのだろう。
照れ臭そうに頬を掻くと、クルィークは一つ肉団子を口に放って、取り繕うように喋り出した。
「アストカから出て、シラベさん達と出会うまでは、随分長かったんっすけどね。皆と一緒に旅してからは、ホント、あっという間だったっす」
「ナンダナンダ、急ニシミッタレタコト言イヤガッテ」
「そりゃ、しみったれたことだって言うっすよ」
クルィークは、言うべきか、言わざるべきか。
暫し迷った後に、誤魔化しようがないかと、喉のとこまで込み上げている想いを吐露した。
「《アガルタ》に着いたら、俺達……お別れになっちゃうんっすもん。寂しいっすよ、俺は」
「「…………」」
誰もが、分かっていて、言わなかった。
パクアブが、《アガルタ》前の最後の村ということは、三人と一羽での食事もこれで最後、ということだ。
正確には、まだ夕飯と明日の朝食があるが、このメンバーで食卓につく場所は、パクアブが最後。それは、違いない。
此処に着く前から、分かっていたことだった。それでも、誰も、敢えて言わずにいた。
数ヶ月に及んだ三人と一羽の旅は、もう間もなく終わるということを。
「皆でこうしてご飯食べたり、商売したり、街を見たり……そういうのも、もう出来ないって思ったら……なんか、その」
「……あのなぁ」
誰も言わなかったのは、言葉にすることで、これが最後であることを噛み締めたくなかったからかもしれない。
理解していても、痛感するのが嫌だったからかもしれない。
だから、誰もがさも当たり前のようにしていたのだが――このまま知らん顔して過ごしても、仕方がないと思ったのだろう。
そろそろ、別れが近付いていることを認め、悔いの残らぬようにと、クルィークは本音を零した。
こうすることで、場の空気が幾らか沈むのは、想像に易かった。だがそれでも、彼は、込み上げて来る物悲しさを、押さ込むことが出来なかった。
最後であることを有耶無耶なままにしていては、きっと、後悔するような気がして。
案の定、場は静まり返ってしまったが、彼が何も言わずとも、こうなっていただろう。三人と一羽の歯車はもう、いつものように噛み合っていないのだから。
静寂に引き攣り、ついに食事の手さえも止まった一同に、シラベが呆れたような溜め息を吐いた。
「確かに、俺達三人と一羽の旅は、《アガルタ》に着いたらそれで終いだ。だが、お前らの旅は、楽園の奇跡を持って帰るまでだろ? 寂しいだなんだって、しんみりしてる場合じゃねぇぞ」
「そうっすけど……」
「お前らは、これからのことだけ考えてりゃいいんだよ。だからホラ、いつもみてぇにがっつけっての。せっかくの飯が冷めるぞ」
そう無理矢理まとめて、シラベは追加の酒を、今度はジョッキで注文した。
彼の言うことは、至極尤もであった。
リヴェルもクルィークも、《アガルタ》に着いて、それでおしまいではない。
《銀の星》を尋ね、各々が求める奇跡があるにせよ無いにせよ、その先で待つ為すべきことへ向かわなければならないのだ。
此処で、シラベ達との別れを惜しんだり、センチメンタルに浸ったりしている暇はない。
言われなくても、分かっていることだ。けれど、そう簡単に割り切れるのなら、最初からこんな雰囲気にはなっていない。
惜しみもする、物悲しくもなる。それだけ、二人にとってこの旅は、尊く、愛しい記憶に溢れていたのだ。
シラベは、そうではないのか。
そう問う気になれなかったのは、確信しているからなのか、それとも、恐ろしいからなのか。
自らの心に巣食う疑念にさえ眼を向けられぬまま、リヴェルとクルィークは皿の上の残りを、それぞれ口に流し込んだ。