カナリヤ・カラス | ナノ


「……随分、早いじゃねーの。腰抜けガラスがよぉ」


鴇緒が刃を食い止めた刹那、噴き出た冷や汗を拭う前で、鴉は床に倒れている雛鳴子を一瞥した。

上から床から、噛み合った視線の先に見える鴉の顔を見て、雛鳴子はやってきた安堵がすぐさま塗り替えられるのを感じた。

相手の企みと分かっていて、どうして来たのか。撒き餌と分かっていて何故食いついたのか。


「よっぽど、そいつがお気に入りみてぇだな。攫われるや否やお迎えに来るだなんて随分……」

「うるせぇ」


それすら聞き質すことすら出来ず、雛鳴子はただ、恐怖に慄いていた。

鴉は、彼女が金成屋に身を置いてから三年。一度も見たことがない程に怒っていた。
不機嫌に陥ることは多々あれど、憤怒の色を露にすることなどなかった鴉が、今、修羅さながらに怒髪天を衝いていた。
煮え滾る血のようになった眼を見ただけで、雛鳴子が言葉を飲み、鴇緒が軽く竦む程度に、鴉は怒っていた。

いつもの飄々とした厭味ったらしい笑みは跡形もなく。額に浮かんだ青筋と、眉間に刻まれた深い皺が凄まじい形相を作っている。


「こっちは平和的に解決してやろうとしてやってきたのによぉ、よくもまぁ調子こいてくれやがったなド腐れが。あ゛ぁ?」


ぶつぶつと音がした。彼の血管が切れた音ではないか、と一瞬雛鳴子が危惧した間に、彼女の身を縛っていた縄が切れた。
悍ましい程に怒る鴉の顔を見ることに一杯一杯で、他のことに目が向いていなかったのだが、鴉が刀で縄を切っていたのだった。

手脚の自由を取り戻した雛鳴子はゆるゆると立ち上がりながら、自分がどうして鴉が此処に来ないと主張したのか。その真の理由を悟った。


雛鳴子は、恐れていたのだ。

常日頃、機嫌の良い時ですら暴君である鴉が、つい最近名乗りを上げたばかりの若輩者相手に舐めた真似をされ、怒ることを。


「そんなに元のお家に叩き落とされてぇのか?えぇ、小汚ぇ穴蔵野郎がよ」

「……あ゛ぁ?」


そして、怒り心頭に発する鴉の本気の挑発で、鴇緒までもが手のつけられない事態になることを。

予期し、恐れた。故に、そんなことにはならないと、雛鳴子は思い込みたかったのだ。


「てめぇ……今なんつった?」

「穴住まいのくせに耳の穴詰まってんのか?二度も言わせんじゃねぇよ、底辺野郎」


鴉の言葉は、いつも人が最も突かれたくない、傷口とも言える部分を抉る。
しかし今、鴇緒に向けられているそれは、また一塩。強烈に研ぎ澄まされた悪意と敵意で練り上げられた暴言のオンパレードだ。

一言一言、息遣いまでもが鴇緒の神経を逆撫で、額の血管を怒張させている。


「よくもまぁ、あんな最低の最底辺から這い上がってこれたもんだ。”さぞやいい足場”があったんだろうなァ」

「てっめぇえええ!!!!」


鴉が嫌に強調した言葉の意味を、雛鳴子は知らない。
だが、その言葉は鴇緒が最も触れられたくない部分に泥を擦り込むものであることは、彼女にも分かった。

吼えるように叫ぶと、鴇緒は地面を強く蹴り、弾丸のように鴉へと跳んだ。
今の彼は、まるで殺意の塊であった。かっと見開いた眼は血走り、渾身の力を込めて鶴嘴を振るい、弾かれた先から二撃、三撃と嵐のような攻撃を繰り出す。
鴉の刀はそれをギギィ!ギィン!と受け止めては弾いていき、攻撃の隙を縫うようにして鴇緒に斬りかかるが、彼もまた鶴嘴をぐるりと回転させ、刃を受け流す。

互いが互いに怒濤の攻撃を交わす度、金属音と火花が辺りに飛び散った。
息をつく間も与えぬ攻防戦を前に、雛鳴子は逃げ出すタイミングすら失っていた。
介入することなど、到底叶わない。例え手足が自由になろうとも、眼前で繰り広げられている戦いに、雛鳴子が出来ることなど何もない。

鴉の手助けをすることも、鴇緒の首を掻くことも。入る余地のない猛攻を前に、彼女が出来ることといえば、巻き込まれる前に此処から離脱することしかなかった。
だというのに。雛鳴子の脚は動いてくれなかった。

鴉と鴇緒が戦っている横を通り抜けるなり、背後の壁を爆破するなりすれば逃れられるというのに、一歩でも動きだせば争乱の嵐に巻き込まれ、紙のように千切り飛ばされる気がして、雛鳴子は動けなかった。


磨き抜かれた暴力と暴力、研ぎ澄まされた悪意と悪意を前に、雛鳴子は竦んでいた。
雛鳴子は、腹の底から怒る鴉を見たことがない。そして、もう一つ。見たことのない彼の姿が此処にはあった。

それは、本気で戦う鴉の姿だった。


小憎たらしい程の強さを持つ彼が、鼻歌を歌うついでに人を殺せるような腕を持つ彼が 全ての精神を、鴇緒に一太刀浴びせる為に集中させ、刀を振るっている。

とても、恐ろしい光景だった。そして、悍ましい光景だった。


底知れない彼の力は、まるでどどめ色だ。それを知る者は多けれど、正しい姿が決まりかねている。精確な有様は誰にも分からない。
人によって意味する色が異なる、赤くもありドス黒くもある、どどめ色。

雛鳴子が本気だと思っているこれもまだ、鴉の力の底ではないのかもしれない。より赤く、より暗い色が、鴉の中には眠っているのかもしれない。
それでも、彼がこれまで浴びてきた血の色を煮しめたような一撃一撃が、雛鳴子はとても恐ろしかった。


そんな得体の知れないものと渡り合っている、鴇緒のこともまた、畏怖していた。
鴉の痛罵を受けてからというもの、鴇緒はまるで鬼のような面持ちだ。

何がそれ程までに彼の逆鱗を踏み拉いているのか。雛鳴子には分からない。だが、それでも分かる。

鴉の発する一字一句が、鴇緒に対するこの上ない侮辱であるということが。


「どうしたァ?!今更踏み台のことが気掛かりか?!!それとも、向こうでおねんねしてる連中のことでも気になってんのか?!」

「うるせぇ!!うるせぇうるせぇ!うるせぇんだよおおおおおお!!!」


鴇緒が大きく吼えると共に、鶴嘴が倒れたシャッターを突き刺した。

それを視認した次の瞬間には、鴇緒は身を捩り、全身のバネを使って鶴嘴をフルスイングしていた。

ふっと、頭上に巨大な影が射した。


「――ッ!!!」



身を退く前に、思わず目を閉じてしまった。それが戦場に於いて最も悪手であると知っていながら、雛鳴子は怯んでしまった。
脅え、脚を止めた者から生存競争に負けることを、分かっていても恐れたが為に、その体は動かなかった。だが、痛みは訪れなかった。

そこではっと、眼が覚めるように目蓋を開くと、自分の上に圧し掛かるシャッターも、体から流れ出る血の川もなかった。

遥か下方に鴉と鴇緒の接戦が見える。随分と高くなった視点からして、自分は今、工場のキャットウォークにいるらしい。
そんなことを頭が処理しだし、次いで自分が腹から吊られているような状態である感覚に雛鳴子が気付き出す頃には、頭上から溜め息のような吐息と、呆れたような声が聞こえ、嗅ぎ慣れた煙草の匂いが鼻を衝いた。


「やれやれ……こんな場所で見学するような戦いじゃないだろう」

「た、鷹彦さん…!」


シャッターが此方に飛んで来る前に、キャットウォークにいた鷹彦がワイヤーを引っかけて引っ張り上げてくれたのだろう。
そのまま荷物のように担がれて、今に至っていることをようやく理解出来た雛鳴子は、顔を上げて鷹彦の表情を窺った。

下で熾烈な衝突を続けている鴉と鴇緒を、いっそ感心したという感じに眺めている様は、雛鳴子のよく知る鷹彦であった。
彼までもが豹変していたら、という不安は此処で消えた。しかし、これだけでは何の慰めにもならない。
いち早く、事態を収束しなければ、いつまでも気は抜けない。

実力は鴉にも匹敵する鷹彦が来たのだ。彼の手助けを得れば、鴇緒とて大人しく為らざる
を得ないだろう。
どうか早く、あの二匹の戦乱の鬼を止めてくれと雛鳴子は眼で訴えるが、鷹彦は煙草を吹かして、鴉達の様子を見ていた。

もどかしいが、身を捩って脱け出す余裕は、未だ雛鳴子にはなかった。


「どうやら、奴は相当煽られてるみたいだな。お陰で、アジト内はあらかた探索することが出来た」

「探索、って……」


錆びた鉄パイプ製の手すりで煙草を潰すと、鷹彦はまた混乱が鬩ぎ出した雛鳴子を、床に下ろした。

覚束ないながらに降り立つと、距離が出来たせいか安全な位置に移動出来た為か、脚の竦みは消え、どうにか動いてくれそうだった。
それを確認するように此方を一瞥すると、鷹彦はさっさと踵を返し出した。
まさか、と雛鳴子が目を見開く。だが、鷹彦は立ち止まることなく、彼女に告げた。


「雛鳴子、此処を出るぞ」

「なっ――」


てっきり鴉の助太刀に来たものだと思っていた鷹彦の、思わぬ言葉に雛鳴子は吃驚した。
今の自分を見たら、誰もが「信じられないという顔をしている」というだろう。それ程分かり易い反応をしたと自覚している。

ふっと振り返った鷹彦は、そんな彼女を前にしても、前言撤回することはなかった。
彼がこんな状況でふざける性格ではないのは、雛鳴子もよく分かっている。此処を、掃除屋アジトを出るというのが本気だということもだ。
それでも、鷹彦の行動の真意が分からない雛鳴子は頷けなかった。

鷹彦は、そんな彼女の心境を汲み取ったのだろう。此方へ向き直し、面と向かい、厳粛たる面持ちで、最低限の状況説明を加えた。


「鴉からの指示だ。これから俺達で、”あるもの”を探しに行く」

「あ、あるもの……?」

「あぁ」


鷹彦がすい、と逸らした視線を追うと、未だ鬼気迫る戦いが目に映る。
そこで雛鳴子は、気が付いた。

この状況が何を意味しているのか。何の為に鴉が、わざわざ彼を煽りに掛かったのか。


「それが見付かれば、この抗争は終わる。逆に、見付からなければ……鴉か鴇緒。どちらかが死ぬまでは何も終わらん」


もう、雛鳴子は足を止めることはなかった。最後にもう一度だけ鴉を見ると、急ぎ足で鷹彦の後を追いかける。


目指す先は未だ分からない。探すべきものすら、見当出来ていない。

だが、何の為に動くべきか。それが見えただけで、今の雛鳴子には充分だった。


(――待っててください、鴉さん)


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