モノツキ | ナノ



ぶつぶつと音飛びを交えて流れるピアノの旋律が、オレンジ色の照明と共に、モダンな木造の内装が持つ、懐古的な雰囲気を助長させている。
そこにコーヒーの芳しい匂いが加われば、この古びた狭い空間も、一つの演出として捕えられる。

此処は、カウンターでハードカバーの本を捲っている、蓄音機頭のモノツキが経営している、ウライチの一角にある喫茶店であった。
所謂隠れ家的、と言える小さく目立たない位置に構えられ、規模も小さく栄えている様子はないのだが。
細々と、しかし、それなりに長い時間続いている店で、まさに知る人ぞ知るという場所であった。

その一番隅の席で、昼行灯はヨリコが落ち着くのを待っていた。

ミルクと砂糖でとろりと甘くなったコーヒーを前に、ヨリコはまだ顔を上げられずにいたが、昼行灯はもう、何があったのかと問うのは止めた。
今は仕事の最中で、時間が惜しいのは確かだ。答えが今すぐに欲しいのも、本心だ。
だが、それを理由に彼女を急かしては、堂々巡りにしかならないし、そもそも此処に移動してきた意味もない。

昼行灯は、よく磨かれたマグカップの白に映える、上品な色のブラックコーヒーを少しずつ飲みながら、ヨリコが話を切り出すのを待った。


カチコチ、壁掛け時計が一つ一つと時の消費を知らせる。
昼行灯が何も言ってこなくとも、秒針に責め立てられているような気がして、ヨリコは膝の上で握った拳に更に力を入れた。

黙ったままで、何も改善されないことは重々承知している。言わなければならないことがあることも、分かっている。
いち早く、中断してもらった昼行灯の問い掛けに対する答えを出して、彼に納得してもらわなければ。
その言葉を作る為の時間を、こうして彼がわざわざ設けてくれたのだから。

ヨリコは考えに考え、やがて、思考と決意が固まると共に、顔をゆっくりと上げた。


「……昼さん、」


自分が口を開くと共に、カップを置いて此方に視線を向けてきた昼行灯の炎が、思っていたよりもずっと穏やかで、ヨリコは寧ろ胸が痛んだ。

手間と迷惑を掛けさせている自分に対して、何処までも優しく、心の鼓動にまで耳を澄ましてくれる昼行灯。
これから自分は、そんな彼の善意に付け入るような真似をするのだ、と。ヨリコは堪え切れず目を伏せながら、続けた。


「私……六年前に、両親を亡くしました。以前お話しした通り……一人になった私は、今の……小母さんの家に引き取られることになりました」


かつて思わぬ形で曝された、ヨリコにとって多少癒えることはあれど、決して消えることのない傷を、再度口にするのには、大きな意味があった。

それを、昼行灯は分かっている。故に、何故今更こんなことを、と返すこともなく、昼行灯は沈黙を貫いたまま、聞き入ることを続ける。
ヨリコが己の傷をなぞり、走る痛みに耐えながらも語る、その心の叫びを、何一つ取り零すことがないようにと。


「……私、ずっと…あれは、事故だと思ってました。親戚の人も、警察の人も、皆…事故だったって言っていたから……。
でも……そうじゃ、なかったんじゃないかって……。
六年前、あのトラックが、私達家族が乗っていた車にぶつかってきたのは……事故じゃなくて、事件だったんじゃないかって……。
あの、サカヅキのマークを見た時から……あのマークが、あの日ぶつかってきたトラックにもあった気がしてから……そう、思ってるんです」


眼にも声にも涙を含みながら、ヨリコは一息置いて、膝の上に置いていた手を胸に当てた。

酷く熱く痛む心臓が、ばらばらになってしまわぬようにと。胸元をぎゅうと握りながら、ヨリコは強がり半分、自棄半分の笑みを浮かべた。


「昼さん……これは、思い過ごしなんでしょうか。それとも、ただの勘違いなんでしょうか……私、分からないんです。
あの時のことを思い出そうとしても、体が震えて、心臓が嫌な音を出すばかりで……何が起こったのか、なんでああなったのか……分からないんです」


未だ、いや、これからも。ヨリコを苛み、苦しめ続ける最悪の悲劇。

それでも、少しずつ向き合い、途方もない、絶望にも似た悲しみに嘆くことはなくなっていた筈だった。

あれは、事故であったのだから。仕方なく起こってしまったことなのだから。そう思って、この痛みを受け入れつつあった、まさにその最中。
何もかもを奪っていったあの事故は、人為的なものによる事件だったと知り、ヨリコは突き崩されかけていた。

偶発的に起きたことであったが故に堰き止められていた感情が、此処にきてその堤防を乗り越え、壊し、氾濫し、全てを呑み込もうとしている。
それを、もしかしたら気のせいかもしれないという疑心でギリギリ繋ぎ止められていたが、限界は眼に見えていた。

無理に作り上げていた笑みが、すぐに消えてしまったように。ヨリコが自身を制御出来る時間は、長く持ちそうになかった。


「……お願いします、昼さん」


見なかったものとして、勘違いだとして片付けても、崩壊は、形を変えて必ずやってくる。

ならば、自分は真実を知らなければならない。今にもこの心を突き破り、頭の天辺から爪先まで支配しようとしてくる想いを向ける場所を決める為に。


「私に……昼さんが今知っていることを、教えてください……。インキさんについて、サカヅキについて……何でもいいんです。お願いします……」


あまりにも痛ましい嘆願に、昼行灯は吸い込む息に棘があるとさえ感じられた。
最早、何かの罰であると思える程、現状は辛く、惨たらしいものであった。

何の罪も犯していない筈のヨリコが、一体何の裁きを受けてこんな目に遭っているのか。それは、分からない。だが、一つ確かに言えることはあった。


「……単刀直入に申し上げます、ヨリコさん」


昼行灯は、真実を告げることを存外躊躇わなかった。

無論、残酷な真相の刃を、自らヨリコに突き刺すことなど、昼行灯には堪え難いことであった。
しかし、これ以上の悲劇を起こさぬ為に、昼行灯は敢えて、ヨリコを徹底的に叩きのめすことを選んだ。

全てを明かし、これに立ち向かうこと気など起こす気になどなれぬよう。昼行灯は、ヨリコの心を挫く言葉を口にした。


「貴方とご両親は、偶然、あの時あの場所にいた。ただ、それだけの理由で、事件に巻き込まれました。そうした意味では、あれは事故であったと言ってもいいでしょう。
インキにとって、サカヅキにとって……巻き込む対象は、誰でもよく……かつ、どうでもよかったのです」


過ぎた筈の絶望が、再び花開くような感覚に見舞われ、ヨリコは眼を見開いた。

どれだけ凝視しようとも、不可視の言葉に変化などない。それでも、ヨリコは、これは何か悪い夢なのではないかと。実はこれは幻だったのではないかと。
そうして反射的に自己防衛の姿勢を取っていたのだが。

健気な守りは、容易く吹き飛ばされ、裸になった心には、容赦のない現実が突き刺さる。


「この事件にことは、私も多少なり知っています。解雇間もなくインキが起こしたテロ行為だったので、私個人で、少し調べていました。
まさか、貴方が被害者の一人だったとは、知りませんでしたが……それでも、断言出来ます」


網膜に張り付いて離れてくれない赤のように、熱を持つ、どろりとした感情が溢れてくる。

ちっぽけなヨリコの体を内側から呑み込んで、何処か深いところへ沈めてしまいそうなそれは、開いて一層酷くなった心の傷から、止め処なく流れて。
昼行灯は、そこに指を入れるようにして、一つ、また一つと、ヨリコの知らない傷痕を開いていった。


「インキは、貴方達を狙ってなどいませんでした。あの事件に於ける彼の狙いは……帝都警察の足止めでした」


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