モノツキ | ナノ




ようやく口を開いたヨリコの声は、病室から飛び出してきた藥丸によって遮られた。
それが、この切迫した状況を緩和することはなく。寧ろ、新たな不穏の風を運んで、一同に嫌な汗を掻かせた。

慌てて出て来た藥丸と、その後から出て来た、苛立ちを剥き出しにしたサヨナキの顔で、それとなく察しがついてしまうのだ。

この場で、最も起こってほしくなかった事態が、起きてしまったということの。


「す、すみません……止めたのデスけど、ワタシじゃあの人、手に負えなくて……」

「おい、藥丸……まさか」

「逃げやがったぞ、あのファッキンランプ」

「「――!!?」」


やはり、と誰もが思いながらも、言葉を失った。

そのまま、弾かれたように病室へ向かえば、其処は蛻の殻。
まだ体温の残るベッドには、乱雑に引き抜かれた点滴が横たわり、開け放たれた窓は、夜風と戯れるカーテンが閃いている。

其処にいるべき、治療を終えたばかりの昼行灯の姿は、何処にも無かった。


「あの頭のせいで、いつ起きてたのか分かんなかったが……どうやら、あんたらの話はがっつり聞いてたみたいだぜ。
急に起きやがったと思ったら、窓から飛び出して行きやがったよ」


サヨナキが、心底気疎い顔をしながらそう吐き捨てると、薄紅は髪をがしがしと掻いた。

当分目覚めることはないだろうと、気を抜いていたのが、迂闊であった。
もし、万が一のことを考えて、会議は昼行灯の耳の届かぬところですべきであったと。今更どうしようもないことに、薄紅はやり切れなさと後悔と焦燥を抱いていた。

その傍らで、それぞれ驚愕や困惑の色を浮かべる中。ヨリコは暗がりの増した、絶望的を絵に描いたような表情で、叫んだ。


「そんな、なんで……っ!なんで!!」


昼行灯は、動けるような体ではない。

毒を盛られ、サカヅキに加担したモノツキ達に痛めつけられ、絶対安静にしていなければならない状態で。
ただでさえ本調子ではない身で、単身インキ達の元に向うなど、自殺行為も当然であった。

だというのに。何故に彼は、自ら死地へ赴くような真似をするのか。

悲劇の糸を、望まずして掴み、引いてしまったヨリコは、頭がどうにかなりそうだった。

もう取り返しのつかない事態になっているとはいえ、これ以上のことが起きては、いよいよ堪えられない。
取り乱す寸前のヨリコを、どうにか宥めようと茶々子らが声を掛けようとした、その時。


「この件は、自分で片を付けたい、とのことデス」


藥丸の、呆れと敬意を含んだ声が、ヨリコの絶望によく響いた。


「昼行灯は…自分の不注意で、お嬢サンを傷付けてしまった。その責任を取る為に、この件を自分の手でやりたいと……そう言って出て行ったデス」

「あんたらに言わず逃げたのは、止められると思ったからだろうぜ。行っちまったら、もう流れは変えられねぇと、そう踏んだんだろう、あのクソ野郎」


昼行灯は、愚かだが、突き詰めて馬鹿な男ではない。
己の限界を見定め、引き際を間違えない判断が出来る。そうして、彼はこの裏社会で長らく生きてきたのだ。

周りをあらゆる敵に囲まれていながら、ぬらりくらりと危機を掻い潜って来れたのは、その判断力と分析力あってのことだ。


だというのに、今の彼はそれらを捨て、ただ一つの感情だけで動いていた。

体が思うように動かぬものだと分かっていながら、一人で乗り込んだところで叶わぬ相手に向かうことを知っていながら。
自らの不用意さで傷付けてしまった、ヨリコに報いる為。それだけを原動力に、保身も算段も取っ払い、彼は病室を飛び出した。

まさに捨て身。これまでギリギリで繋がれてきた僅かな生命線すら手離すように、全てを置き去りにした昼行灯を、止める手立ては、誰にも無かった。

故に、ヨリコはこれ以上となく大きな不安に押し潰されそうで。


「昼さ……やだ…………昼さん!」


恐ろしく鼓動を打つ心臓を抱えながら、ヨリコは今にも絡まって転びそうな程に覚束ない足で、駆け出そうと立ち上がった。

しかし、それを、すすぎあらいが許してはくれず。


「……あんたが、社長を追いかけてどうする」


即座に捕まれた手首が、軋る。
その痛みに小さな悲鳴を上げることさえも、すすぎあらいの声は、視線は、許可しなかった。


「またこんな風に、社長や俺達に余計な手間をかけさせるの?あんた、自分が何も出来ないことくらい、分かってるだろ?」

「それは、もちろ……」

「分かっているなら、なんで」


すすぎあらいは依然、ヨリコをインキの元に向かわせる気ではあったが、昼行灯の後を追わせる気は微塵もなかった。

彼女が、復讐を遂げる為にインキの懐へと突っ込んで、自滅しても、それは構わない。
だが、罪悪感一つ提げて昼行灯の後を追い、また彼を巻き込み、今度こそ最悪の結末を招かせることは、許せなかった。


どうかしている自覚は、彼にもあった。

ヨリコを失うことになれば、昼行灯はまともではいられない。彼が壊れれば、必然、ツキカゲも終わるだろう。それは、これまで散々に危惧されていたことだ。
ツキカゲのことを思い、ヨリコを昼行灯に近付けまいとしていながら、ツキカゲの崩壊の一手になると承知の上で、ヨリコを死に向かわせるなど、矛盾している。

その歪は、彼の理性が、眼前にぶら下がる強烈な欲求によって揺るがされていることを示していた。


「あんた……どうしたいの?社長に怪我負わせて、崩れ落ちそうなくらい後悔して…。
その上、更に痛みを広げることになるって分かってて、社長のこと追いかけようとして……。あんたは、一体何がしたいって言うの」


すすぎあらいは、正しさを求めていた。

ヨリコを煽り、復讐に踏み出させることで、何が壊れることになろうとも。
自分が間違っていなかったと、かつての自身とよく似たヨリコを通して、再認識する為に。すすぎあらいは、ヨリコを追い詰める。


(あんたさ…今、洗濯は汚れたものを洗うことだって言ったよね。だったら……俺がしてるのは間違いなく洗濯だ)

(性根まで汚れきった奴らを、こうして洗ってんだからさぁ…何も、間違ってなんかない。俺の選択は、間違ってなんかないんだよ)

(糞ッタレな豚野郎共を殺したって、間違ってる訳ないんだよ!!
これが正しいんだよ、正しくない訳ないんだよ!!!同じなんかじゃない…こいつらなんかと俺が!同じである訳ねぇんだ!!!)


自分は、間違ってなどいない。

自分は、正しかった。

自分は、選択を間違えてはいない。

自分は、彼等とは違う。


それを証明してくれと、ごうんと音を立てながら洗濯機が詰め寄る。洗濯を誤ったが為に罰せられた男は、求める。

今にも握り潰してしまえそうな程、小さく弱々しい少女の答えを。汚れきった自身の、正当性を。


「私、は……」


微かに震えるか細い声が、静けさを打つ。

すすぎあらいを止めることが出来ない一同は、最早、祈るようにして、聞き届けるしかなかった。

矮小で脆弱な少女が、何を望んでいるのか、何を成し遂げようとしているのか。
薄紅達は息を呑みながら、すすぎあらいは堪えようのない高揚で頭をごんごんと鳴らしながら、ヨリコの言葉に耳を澄ました。


死刑宣告を待つかのような、首が絞め付けられている気にさえなる空気の中。

酷く痛む胸を押さえながら、ヨリコは、ぼろぼろと滴る涙に続くように、声を零した。


「私は……昼さんに………皆さんに、あの人達と戦ってほしくないんです」


逃がすまいと手首を掴んでいた、すすぎあらいの手から力が抜け落ちたことにさえ、ヨリコは気付かなかった。


彼女はただ、悲劇を招いた自分の、浅はかなる動機を明かしただけだった。

それが、すすぎあらいを塗り潰していた狂気を、彼の抱えていた拭いようのない汚れを霧散させたなどと、彼女は思いもしなかったし、
まず、そんなことを考える余地すら、今の彼女にはなかった。


「私のお父さんとお母さんみたいに……また、大切な人が奪われてしまうんじゃないかって……そう考えたら、怖くって………」


ヨリコは、直向きに、懸命に、想っていた。

インキにより、理不尽に両親を奪われ、訪れた深い孤独の闇。
そこに光を射してくれた昼行灯や、ツキカゲの社員達のことを。ヨリコはひたすらに想っていた。

インキが、サカヅキが、両親の仇だと知って。彼女は憎悪するよりも、恐れたのだ。また、愛する者が奪われてしまうことを。


「あの日みたいに、もう、置いていかれたくなくって……だから私、昼さんを止めたかったんです…………」


長年彼女を苛んだ悲しみは、未だ消えていない。心が嬲られ、その痛みにさえ慣れてきてしまったあの日々に、ヨリコは怯えている。
一度絶望と、救済を知ってしまったからこそ。ヨリコは、また先の見えない闇の中に突き落とされてしまうことを恐れている。

再び光を失い、あの激痛に曝されることになれば、今度こそ自分は堪えられない。

そんな思いで、ヨリコは昼行灯を追った。


彼等がインキと戦うことが、避けられないことだと分かっていても。自分では、これを止められないと承知していても。
迫り来る恐怖に目を閉じてやり過ごすことが、ヨリコには出来なかった。

見過ごしている間に、昼行灯を失ってしまうかもしれないということを思えば、ヨリコは、駆け出すしかなかった。


結果、そんな彼女の想いが、昼行灯を死へと向かわせてしまった。

その罪悪感で、ヨリコは潰れてしまいそうだった。いっそ、そうなってしまえたらどれだけ楽かとさえ思う程。
ヨリコは、己の愚かさと無力さが憎かった。それ以上に、昼行灯がこのまま、手の届かぬとこで消えてしまうかもしれないことが、怖かった。


「でも、私がそんなこと思ったから、昼さんが怪我しちゃって、私……私……っ」


ついに崩れ落ち、嗚咽を上げて泣き出すヨリコに、薄紅達は何も言えなかった。


誰もが、彼女は復讐を望んでいるのだと思っていた。
その為に昼行灯を追い、真実を知り、自分を今回の件に参加させてほしいと嘆願したのだと、そう思っていた。だが、そうではなかった。

ヨリコは、両親の仇を討つことなど、考えてさえいなかった。

それは、彼女がもう、父母を殺された怒りや悲しみを、忘れているからではない。全てを知り、インキ達を許したからでもない。
ただ、憎悪や憤怒や悲哀を上回る程に、ヨリコは昼行灯達を案じていた。

抱いていたそれらの感情を消し去って、安らげる温かい光と居場所を与えてくれた彼等を、ヨリコは守りたかったのだ。


その健気ささえも、運命は掻き乱し、こんな事態を引き連れてしまったが――。


「…………もう、いいよ」


泣きじゃくるヨリコの頭に、影が差した。
やがてそれは、俯いたヨリコの髪を撫で、彼女の嗚咽を和らげた。

先程まで、彼女の手首を握り、痛め付けていたそれに宥められ、未だ涙が溢れて止まないヨリコが、ゆっくりと顔を上げて見れば。
其処には、依然何の色も窺えない、無機質な洗濯機があった。

だというのに。今、そこに確かに、とても穏やかな面持ちをした青年がいる気がして。
ヨリコや、薄紅達が驚き、目を軽く見開く中。すすぎあらいは、静かに呟いた。


「悪かった」


頭を撫でていた手で、そっとヨリコの涙を拭うと、すすぎあらいは一歩引いた。

あんなにも満ち満ちていた筈の狂気も、毒気も、何処に消えてしまったのか。
憑き物が落ちたかのように、晴れやかさすら覚える様子で、すすぎあらいは、あれ程責め立てていたヨリコに対し、頭を下げた。


「あんたが、何の為にこの事件を洗おうとしたのか知らずに言い過ぎた……ごめん」


それは、心からの謝罪であった。
独自の判断で物を言い、ヨリコを此方に引き摺り込もうとした、己の非を認めた上での。敗北を享受した、謝罪だった。

狂う程に自己の正しさを求め、頑なに過ちを認めずにいた彼にとって、それがどれだけのことか。ヨリコには分からない。
自分の選択が、これ以上となく濁り、汚れていた男の心を濯いだことさえも。

ヨリコには分からなかったが、すすぎあらいはそれでよかたった。


「けど……やっぱりあんたは、此処で待ってるのが最良の選択だと、俺は思う」


そう言って、すすぎあらいは踵を返した。

時間がないというのに、随分と、今思えば、馬鹿馬鹿しくくだらないことで食い潰してしまった。
タイムロスを取り戻す為にも、早急に行動しなければ。今度こそ、終いだ。

ヨリコは未だ、縋るように手を伸ばしてきたが、贖罪の中で罪を重ねていく道にいる彼等は、止まれない。

それでも、彼女を振り払うような真似も、道連れにすることもしない。


「……大丈夫。あんたがそれを望むなら、社長は必ずやってみせる。だから、何も怖がることはないよ」


すすぎあらいは振り返り、それだけ言うとまた、歩き出した。
それに続き、彼に同行を頼まれた薄紅、シグナル、火縄ガンが続いていく。


やはり、どうしようもないのかという気持ちは、湧いてこなかった。

結局彼等を止められず、インキ達の元へ向かわせることになってしまったというのに、ヨリコの絶望は薄まっていた。

あれだけ圧し掛かっていた不安も、恐怖も、今は無かった。
凍えそうだった心には、何もかも溶かすような温かさが広がって、伸ばしていた手も、大人しく引っ込んで。
ヨリコは、安堵と希望で脈打つ心臓に手を当てたまま、すすぎあらい達を見送った。


「俺らもいるんだし、さ。あんたは……信じて待ってなよ、ヨリコ」


すすぎあらいが言い残したその言葉と、初めて彼に呼ばれた名前の残響が、ヨリコを力強く頷かせた。


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