待ってるからな

2.



「萩原くん…ッ!」

 警察病院の集中治療室前。
 駆けつけたなまえを待っていたのは、数時間前まで一緒にいたいつメンたちだった。

「マドンナちゃん!? どどどどうしたの!?」
「アンタそんな泥だらけで…何があったの!」

 なまえの姿を見た芹沢と廣瀬が声を上げる。
 艶やかな髪は風に煽られたように広がり、カッチリ着込んでいたジャケットは肩からずり落ちている。血が滲む膝が破れたストッキングから覗いていて、清楚なタイトスカートに跳ねた泥が点々と飛び散っていた。


 記者会見を終えたマドンナちゃんは脇目も振らずに警視庁を飛び出した。
 そのまま近くを走っていたタクシーに飛び乗り、「警察病院まで!」と叫んだのだ。

 がしかし、なまえを乗せたタクシーは病院付近で渋滞に巻き込まれた。
 大怪我を負った萩原が警察病院に運び込まれたことを嗅ぎつけたマスコミや野次馬が押し寄せて来たからだ。

『すみません止めてください。ここまででいいです』
『でもお客さん、ここから警察病院まではまだ距離ありますよ』
『大丈夫です。…これ、お釣りは要りませんから!』
『あ、ちょっと!』

 居てもたってもいられなくなったなまえは運転手に一万円を握らせるとタクシーを飛び出して警察病院に向かって走り始めたのだった。

『萩原くん…、待ってて。頑張って…!』

 あっという間に息が上がった。
 この数年間一日もロードワークを欠かしたことはなかったのだが。
 細っこいピンヒールと堅苦しいスーツは慣れているスニーカーとジャージとは全く勝手が違った。スピードもいつもの半分すら出ないのだ。

『あッ…! ッ、い゛っ』

 覚束無いヒールがマンホールの溝に引っかかって、派手に地面に倒れ込む。
 手のひらと膝をアスファルトに強かにぶつけ、鈍い痛みに整った眉を歪めた。
 独特のアスファルトの湿った匂いが鼻腔をつく。
 脳が揺れ、シャワーで飛ばしたはずのアルコールが今更胃をせり上がってくる感覚に生唾を飲み込んだ。

『ッげほ…ハァ……はぎわらくん、』

 それでも。
 なまえはよろよろと立ち上がって再び走り出した。
 警察病院前を取り囲むマスコミを掻き分け、胸ポケットから取り出した警察手帳を警備員に見せて病院の敷地内に駆け込んだ。

『あれ、今入っていった女って…』
『警視庁のマドンナちゃん≠セったか…?』
『だったよな!? クソ、撮り逃した!』
『誰か撮ったか!? データ送ってくれ!』

 大騒ぎするマスコミを振り返ることはない。
 裏口から院内に転がり込み、夜間受付の看護師に噛み付かんばかりの勢いで萩原の居場所を問うた。

 風で膨れ上がった艶やかな髪。ずり落ちたジャケット。上がった息。真っ赤な顔。鋭くつり上がったまなじり。
 ボロボロなのにそれが逆に女の美しさを引き立たせ、信じられないくらい色っぽく光っていた。
 傷ついた美人ほど迫力があるのだ。

『萩原研二! どこですか!』
『ヒッ、よ、四階の集中治療室です!』

 その美しさと鋭い声に圧倒された看護師が声を裏返しながら答えた。
 なまえは礼もそこそこにエレベーターホールに走りよる。エレベーターは全部で三台。三台とも上層階で止まっていた。

『階段!』

 引き裂くように叫び、エレベーターホール横の階段を駆け上がった。
 萩原のいる四階まで。ノンストップで。


 ので、なまえはボロボロの姿でいつメンの前に姿を現した。
 しかし、そこにいる誰もが、彼女と同じもしくはそれ以上に疲弊しきった姿をしていた。

 芹沢・廣瀬・諸伏・伊達は、数時間前の私服姿のままだったが、全員が上着を投げ出し腕捲りをして汗を拭っている。
 特に芹沢と伊達はワックスでガチガチに髪を固めていたので風に煽られて変なカタチになってしまっている。気付いていないのか直す気力もないのか、そのカタチのまま放置されている。
 廣瀬はクルクルに巻いた自慢の髪の毛をキツく縛り上げていた。警察学校時代は「縛ると変なクセがつくからイヤ!」とあんなに言っていたのに。
 諸伏は猫っ毛をスポーツタオルでワシャワシャさせながら、難しい顔でスマホを弄る降谷を心配そうに眺めていた。
 降谷はなまえ同様にスーツに着替えていたが──おそらく警視庁で着替えたのだろう──ジャケットを脱いで椅子の上に投げ出している。スマホから目を離さないところを見ると、彼はまだ仕事中なのだろう。

 そして、松田は。
 機動隊の制服のまま、集中治療室の分厚いガラスを呆然とした表情で見ていた。
 なまえが到着したのには気付いていたが、ガラスの向こうの景色から目が離せないようだった。

「…ッ!」

 なまえは膨らんだ髪の毛もずり落ちたジャケットも直さないまま松田の横に立ち、ガラスの向こうを眺めて息を呑んだ。

「…萩原、くん」

 部屋の中には、大きなベッドが一つ。
 そのベッドに横たわるのは一人の男の姿。
 ベッドの周りには、名前もわからない機械が所狭しと取り囲んでいて、機械から伸びた管が男の身体の至る所に取り付けられていた。

 萩原研二が、いた=B

 甘いマスクは真っ白な包帯でほとんど隠されている。
 ガッシリした腕に何本もチューブが刺されていて、色気を垂れ流す瞳は硬く閉ざされたままだ。

「…生きてる」

 松田が掠れ声で呟いた。
 地獄から甦った屍人が出すような、低くて暗い声だった。

「俺とハギ、別々の爆弾ンとこに派遣されてて…」

 目線は萩原から離さずに、松田はぽつりぽつりと話し始めた。

 マンションの住民を避難させたあと、残って解体をしていたこと。
 爆弾は一度は停止したものの、急に萩原の方だけタイマーが再起動してしまったこと。
 爆風に巻き込まれて、生死の境を彷徨ったこと。
 先ほど手術が終わり、一命を取り留めたものの未だに意識は戻らないこと。

「ごめん松田。僕がもっと的確な指示を出せていたら…」
「オレがもっと早く聞き込みができていたら…」
「もっと走るべきだったな…スマン」
「オレ、役に立たなかった。…悪かった」
「アタシも、ごめん」

 誰も悪くないのに。
 悪いのはこの爆弾を仕掛けた犯人なのに。
 元・104期の面々は口々に己の無力を恥じた。

「…クソっ!」

 松田は行き場のない怒りを硬く握りしめた拳とともに分厚いガラスにぶつけた。
 ゴゥン、と鈍い音が響き渡る。
 まるでそれは、地獄の鐘を鳴らす音だった。

「畜生…」

 松田の声が、肩が、振り下ろした拳が、震えた。



 なまえは、それ以上そこには居られなかった。

「…ごめんなさい」

 消え入りそうな声で呟くと、スッと気配を消してその場を後にするのだった。

 来た時と同じように裏口から出て、門の前でタクシーを捕まえた。
 あれだけいたマスコミは綺麗さっぱり消えていた。
 おそらく警察関係者の誰かが追い払ってくれたのだろう。

「警視庁までお願いします」

 それだけ言うと、なまえは虚(うつろ)な瞳で窓の外を眺めた。
 窓ガラスの向こうは夜の街が広がっているハズなのに、何度瞬きしても管に繋がれた彼の姿が消えてくれなかった。

 ──私は、役立たずだ。
 ──今まで、何を学んできたんだろう。
 ──何のために、頑張ってきたんだろう。

 マドンナちゃんは空っぽだった。
 綺麗な外ヅラの中身は、ただのがらんどうな木偶の坊だ。

 ──私は何もしてこなかった。
 ──だから、悔し涙を流す貴方にかける言葉なんか、ひとつもないの。

「ごめんなさい…」

 だから、その数日後。

 松田から届いた【ハギ、意識取り戻した】というメッセージに、返信することすら出来なかった。



△▽



「どうしたんだよ。ライン返せよ」
「…ごめん」
「忙しいのか?」
「……ごめん」

 それからさらに数日が経った。
 空っぽの木偶の坊が空っぽのまま仕事を終え、空っぽのまま家に帰ったところで、マンション前に見知った癖毛を見つけたのだ。

 この数日間。松田とは一度も顔を合わせていなかった。

【ハギ、意識取り戻した】
【返信ないけど大丈夫か?】
【今週末、いつもみてーに泊まりに行ってもいいのか?】
【オイ】
【行くからな】

 彼から送られてきたメッセージにも返信する余裕がなかった。

「ごめん、返信できなくて」
「いいけどよ。…あんまり思い詰めんなよ」
「思い詰めてなんか…っ、わッ!」

 部屋の中に入った松田は靴も脱がずに華奢な肩を引き寄せた。
 たった一週間しか経っていないのに、その身体は随分と薄っぺらく感じた。

「…だいぶ痩せたか? 食ってねぇだろお前」
「そ、んなことないし、離して」
「やだけど」

 松田は彼女の言葉を全部無視して上から覆い被さるように抱きしめた。
 この不器用な猫被りの強がりを一番近くで見てきたのだ。今更松田に隠し通せるものではなかった。

 頭を撫でられ、背中をトントンされ。
 松田のタバコの香りに全身を包まれ。
 そうやってしばらく抱きしめられているうちに、いつの間にかなまえの瞳からぽろり、と一粒の雫が零れ落ちた。

「…う、っく」
「く?」
「く゛や゛し゛い゛…!」

 せき止めていた感情が爆発した。
 次々溢れ出た涙が松田のワイシャツに染み込んでいく。

「わ゛、私、何も出来なかったっ!」
「何もって?」
「みんなが、み゛んなががんばってるのに、私、何も、やくに立ってないぃ!」
「そんなことねぇだろ」
「あるの! こ、こんなんじゃ…はぎわらくん、にっ、あわせるかお、ない゛…!」

 冷たくなっていく自分のシャツの感覚に、松田は眉を下げて笑った。
 そうだよな。不器用で自信家でプライドは高い癖に、責任感も人一倍強いもんな。お前はそういう女だったよな。

 松田の脳裏に、警視庁入庁前の希望に満ち溢れた女の顔が過ぎった。
 二人で杯戸町のショッピングモールにデートに行った時、

『この街の平和を私が守るぞっていう決意』
『私、警察学校のマドンナちゃん≠諱Bできないことなんてないと思わない?』

 彼女は大観覧車の中で自信満々に笑っていたのだ。

 そうだった。あの時お前は覚悟を決めたんだよな。
今≠フお前は理想≠ニはかけ離れてるんだろ。
 ──お前の中では。

 松田はグ、となまえを抱きしめる腕に力を込めて笑った。
 お前が思っているほど、お前は役立たずなんかじゃないんだ、という気持ちを込めて。

「ハギから伝言。『マドンナちゃんのお陰で助かった』とよ」
「…え?」
「お前、アイツにちゃんと防護服着ろって言ったんだってな」
「言った…かも。卒業旅行の時…」

 突然そんなことを松田から言われ、なまえはグズグズ鼻を啜りながら答えた。
 記憶は朧げだが、確かにそんなことを萩原に捨て台詞っぽく言った気がする。

 松田はそんな彼女に思わず笑みが溢れ、抱き締める腕に更に力を込めた。

「い、痛いよ陣平。なに、本当に」
「あのバカ、緊急事態に防護服着ずに爆弾解体しようとしてやがったらしい」
「え?」
「…けど、直前でお前との約束思い出して慌てて着たんだと」
「……」
「お前が、ハギを救ったんだ」

 ありがとう。
 お前のお陰で、俺は親友を失わずに済んだんだ。

「だから、お前は役立たずなんかじゃねぇよ」

 松田の言葉がマドンナちゃんの固まった心を少しずつ溶かしていく。
 なまえは「…そっか。よかった」と一度だけ笑ってから、

 ──でも、私がもっと動けていたら、そもそも爆弾が爆発しなかったかもしれないわ。

 心の中に未だに居座るマイナスなもう一人の自分の叫び声に、再び涙を零したのだった。


 その日はじめて、松田となまえは一度も唇を合わせることなく夜を越した。

 ただ、松田の広い胸に抱かれて呼吸をするので精一杯だった。



△▽



「萩原くん…」
「マドンナちゃん? ごめん、俺いま身体動かせなくて。…入って?」

 数日後。マドンナちゃんは再び警察病院にいた。
 ここに入院している同期に会いにきたのだ。

 意識を取り戻した萩原には個室の病室が与えられていた。
 身体に繋がる管は随分減ったものの、それでも身体中が真っ白な包帯に包まれていて肌色はほとんど露出していない。

「萩原くん」
「ん、なーに? ちょっとマドンナちゃんもっとこっちきて。顔見せて」
「…うん」

 重たい足を引きずってベッドサイドまで行く。
 包帯から片方だけ覗く、色っぽく垂れた瞳と目が合った。

「一週間ぶりだね」
「…うん」
「どした? 元気ないじゃん」
「そんなこと、ないよ」
「もしかして研二くんのかっこよさに見惚れちゃった?」

 冗談めかして言う萩原に、なまえの瞳の奥が揺れた。
 あ、私いま萩原くんに気を遣わせちゃってる、と。
 彼女の中に巣食うマイナス思考のバケモノは未だに健在だった。

 なまえはこの数日間、ほとんど眠れていなかった。
 松田から「お前は役立たずなんかじゃない」と言われたあの日だけ、彼の匂いと体温に包まれて数時間だけ眠ることができたのだ。

『お前、ちゃんと食ってちゃんと寝ろよ。頼むから』
『…分かってるよ』

 松田にはバレていたのだ。
 真っ暗の場所で目を閉じると管に繋がれた萩原の姿が過ぎる。
 静かな場所にいると「役立たず」「木偶の坊」ともう一人のマイナスな自分の叫び声で頭の中がいっぱいになる。
 ので、部屋の明かりとテレビをつけっぱなしにしないと横になることすらもできなくなっていた。

「…萩原くん、その」
「ん? なーに?」
「な、治るん、だよね?」

 萩原は少しだけ目を見張って、それから諦めたみたいに笑った。
 見るからに無理をしている彼女に、なんて返事をすればいいのか分からなくなってしまったのだ。

 萩原は、松田の次に(芹沢などのあたおか集団は除いて)彼女のことを見てきた。
 警察学校の同期の中でダントツに目立っていた女の子だったし、何より親友の想い人だったから。
 陣平ちゃんのカノジョ候補はどんなヤツなのか、変な女だったら俺が潰す。という気持ちで観察してきたのだ。

 だので、萩原は一瞬で「マドンナちゃんは限界だ」と気付いた。
 だから今、彼女からされた質問にどう答えればいいのか迷ってしまった。

 でも。
 真面目でストイックな彼女に嘘を吐くことは、できなかった。

「人並みの生活はしばらくすればできるようになる。…でも、現場には復帰できない」
「………ぇ」
「機動隊員として復帰するのは絶望的だってさ」

 なまえは萩原の言葉を数秒かけて咀嚼して、それから「そんな」と消え入りそうな声で呟いた。
 脳裏に、機動隊員にスカウトされた時の萩原の嬉しそうな顔が過ぎった。

「そんな、ことって…」
「あっ、マドンナちゃん泣かないで」

 ぽろり。女の綺麗な瞳から透明な雫が落ちた。
 最近よくこうやって泣いてしまう。
 嬉し涙でも悲し涙でもない。贖罪の涙だ。役に立たない自分への怒りの涙だった。

「ごめ、…な、何もできなかった私が泣いても、い、意味なんてないのに…」
「ごごごごめん泣かないで。あの、違うんだまだ続きがあるんだよ」

 さて萩原は、動かない身体を焦ったく捩っておろおろしていた。
 だって目の前の女は親友のカノジョ。同期の高嶺の花。世間が認める警視庁のマドンナちゃん=B
 美しい≠ニいう言葉を独り占めする女の流す雫にこれ以上ないほど動揺してしまったのだ。

「リハビリの結果次第ではまた復帰できるかもしれないから!」
「…りはびり?」
「そう! …俺、あんなことがあった後だけど、どうしてもまた機動隊員になりたくてさ。だから、リハビリ頑張ろうと思うんだ。何年かかっても」
「………」
「だから、退院してしばらくは機動隊の内勤の仕事をして、いつかぜってー現場に戻ってやるんだ」

 萩原はなまえを安心させるようにペカ! と笑って話した。
 もっとも、顔中が包帯で覆われているため彼女にはその表情は見えないのだが。
 精一杯、声のトーンに喜色を混ぜて伝えた。

「…だから、泣かないで」
「萩原くん…」
「キミに泣かれると俺、どうしていいか分かんなくなっちまう」

 陣平ちゃんにも怒られちゃうし。と続けた。

 萩原は同時に「情けねーな俺」と思う。
 普段の自分なら、涙を流す女の子のことなんて放っておかないのに。
 長い指先でもって涙を拭ってやって、「大丈夫」と泣き止むまで頭を撫でてやれるのに。

 でも、肝心な身体が動かない。
 涙を拭う指も、頭を撫でる手も、腕も、何も動かすことができないのだ。
 そんな自分の不甲斐なさに吐き気すら感じた。

『何もできなかった私が泣いても意味なんてないのに』

 先ほど彼女が泣きながら言った言葉が蘇る。
 何もできなかった? 何が? と思っていたのだが…。

 ──あ、マドンナちゃんは今の俺と同じ気持ちなのか。

 フと合点がいった。
 本当は現場で働きたいのに動けないもどかしさ。
 傷つく同期を前にした無力な自分。

 萩原は目の前の女の涙の意味をようやく理解した。

 なので。

「何もできない、なんて言うなよ」
「でも、」
「警視庁のマドンナちゃん≠ヘ、警察学校のマドンナちゃん≠ナしょ」
「…え?」
「俺の知る警察学校のマドンナちゃん≠ヘ、真面目で、努力家で…」
「………」
「破天荒だったよ」
「え?」

 萩原は一生懸命にマドンナちゃんを見上げながら話した。
 どうか落ち込まないで。どうか気に病まないで。
 そんな気持ちを必死に言葉に紡いだ。

「どういう意味…?」
「だってさ、マドンナちゃん覚えてる? 体育祭の棒倒し」
「覚えてる、けど」
「あの時キミは、周りの反対を押し切って歴代初の女子大将やったでしょ。勝つために作戦を立てて、全員を巻き込んで無事勝利をおさめた」
「…うん」
「破天荒でしょ?」
「そう、だね」
「…でも、それでもキミはやり遂げた。今の自分にできることを精一杯考えて、それを実行できるだけのチカラがあった」

 なまえは訝しげな顔をしながら頷いた。
 萩原が何を言わんとしているのかがイマイチ掴めなかったからだ。

 しかし、続いた萩原の言葉に──、

「今≠フマドンナちゃんは、今≠フ自分にできることを精一杯考えてる? 俺には、キミが型に収まって縮こまってるようにしか見えないんだ」
「…ッ!」

 頬を打たれたように目を見開いた。
 耳元でパァン! とクラッカーを鳴らされたような。そんな衝撃が走った。

「マドンナちゃんは型なんかに収まるような女の子じゃないと、俺は思うよ」
「そう。…そうね」

 今の自分にできること。
 萩原の言葉をゆっくり噛み砕いて、それから小さく息を吐いた。

 瞳の奥に強くて眩い光が少しだけ戻り、それを見た萩原は「あぁ、やっぱりこの子はこうでなくちゃ」と思う。
 きらきら輝く宝石みたいな瞳に、あの頃の俺たちは全員が夢中になっていたのだから…と。

「今の私に、できること」

 足元から上ってくるような高揚感に身体が震えた。
 目の前の壁が崩れ去ったような、夜の街に朝日が上ったような、そんな心地だ。

「萩原くん」
「ん?」
「ありがと。なんか分かった気がする」
「そりゃよかった」
「お見舞いに来たのに、私が励まされてどうすんだって感じだけど…」
「そんなの気にすんなよ。マドンナちゃんは俺たちのお姫さんなんだからさ」
「なにそれ」
「イヤほんとに」

 俺たちのお姫さんが笑ってくれるだけで場が華やぐのだ。
 彼女の頑張る姿に勇気をもらえるのだ。

 だから。

「キミは、警視庁のマドンナちゃんでも警察学校のマドンナちゃんでもなくて、俺たちの<}ドンナちゃんなんだからね」
「…うん!」

 なまえは萩原の言葉にようやく笑顔を見せた。
 大輪の牡丹が綻んだような。萩原が、そして104期の全員が大好きな、俺たちのマドンナちゃんの笑顔だ。
 桜色の乙女はそのまま落ち着かない風にそわそわ足踏みをして、「行きな」と微笑む萩原の言葉に強く頷いたのだった。

「萩原くん」
「なーに?」
「いい男ね」

 去り際、お姫さんがゆるりと包帯越しに額を撫でてくれるモンだから。

「…ほんっと、いい女」

 萩原は声を上げて笑ってから、目を閉じて彼女の残り香に浸るのだった。

 陣平ちゃんずりーな…あんないい女をカノジョにできて。という気持ちで。



△▽



 翌日。
 萩原の元に、幼なじみ兼親友の男がやってきた。

「ハギ、具合どうだ?」
「毎日聞かれても返答に困るよ陣平ちゃん。…あ、でも昨日は来なかったよな? 何か事件でもあった?」
「あー…マァ、事件っちゃ事件か」

 松田は萩原の元に毎日見舞いにきていた。
 が、昨日だけ松田は来ず、代わりになまえがきたのだ。

「また爆弾?」
「イヤ、そういうんじゃねぇよ…ただ」
「ただ?」

 松田は歯切れ悪くモゴモゴ言い淀んだ。
 明らかにいつもの松田とは違う。元気がないのだ。

 萩原は頭に「?」をたくさん浮かべながら続きを待った。
 ここまで松田が言い淀むということは、仕事関係というよりも──。

「マドンナちゃんと、なんかあった?」
「…そんなとこだな」

 カノジョ絡みだろう。という萩原の予想は的中したのだった。
 松田は苦い顔をして頷いた。

 萩原は「はて」と思う。
 昨日の去り際のマドンナちゃんは希望に満ち溢れた顔をしていた。
 そんな彼女が松田の顔を曇らせるようなことをするだろうか…と。

 がしかし、萩原はまだあの女のバカ真面目さ・ストイックさ・頑固さを理解していなかったのだ。

「…しばらく距離をおきてぇって言われた」
「は!?」



 昨日の夜。松田はなまえに呼び出された。
 彼女の家と松田の寮からほど近い、よく二人で夕飯を食べた小洒落た居酒屋だ。

『あのね、陣平。お願いがあるの』
『なんだよ急に…つーかお前また痩せたろ。顔色も悪ぃし…』
『それはごめん。でもね、もう大丈夫よ』
『あ?』
『私、やりたいことがあるの』

 なまえは目をきらきらさせながら話した。
 警視庁に入庁してから久しく見ていない、松田が大好きな大輪の笑顔だ。

 松田は「?」と首を傾げながら続きを促した。
 あれ、こいつ昼間泣いてなかったっけ…という気持ちで。
 実は松田、この日もしっかり萩原の見舞いに行っていた。
 しかし病室の扉を開けようとした時、中から自分のカノジョのすすり泣く声が聞こえたため入るのを躊躇ってしまったのだった。

 ので、今呼び出されたのもきっと限界を迎えた彼女からのヘルプサインだと思っていた。
 たくさん甘やかして自己肯定させてやろうと思って来たのだ。

 が、しかし。

『私、間違ってた。何もできない自分を全部求められてる役割≠フせいにしてたの。でもね、思い出したの。私が警察学校のマドンナちゃん≠セったこと。警察学校のマドンナちゃんに不可能はなかった。だからね、今の私にできることを精一杯頑張ろうと思って…まだ考えが固まりきってないんだけどね。でも私、一度決めたことはやりきる自信があるの。…だからね、お願い』

 なまえはつらつらと流れるように続けた。

『私がやりきるまで、距離を置いて欲しいの』
『…あ?』

 松田はピク、と眉を動かし、続いて形のいい瞳を細めた。
 眼光が鋭くなる。普通のニンゲンであれば「ヒィッ!」と逃げ出してしまう殺気に似た迫力だった。

 しかしマドンナちゃんはそれしきでは動じない。
 舞台に立つ女優のように自信満々に話し続けたのだ。

『私、今まで陣平に散々助けてもらったわ。合同訓練の時も、体育祭の時も…伊達くんにフられた私を勇気付けてくれたのも陣平だった』
『………』
『今度は、自分一人の力でやり遂げたいの。…ほら、陣平が近くにいると頼っちゃうでしょ』

 自分の力を試したい。
 役立たずな自分を殺してやりたい。

 なまえの熱い思いに、松田は一時間以上粘りに粘り、代替案を出しては蹴られ、考えに考え抜いてから──、

『……分かった』

 折れるしかなかったのだった。

 だって松田は、この女のことを一番近くで見てきた。
 誰よりもプライドが高くて、クソ真面目で、努力家で、ストイックで、頑固なことを知っていたのだから。

 昼間、自分の親友の前で泣いている声を聞いたのも大きかった。
 このプライドが富士山よりも高い女が他人の前で涙を見せるというのは、それだけのことだと思ったから。

『一つだけ約束しろ。距離を置いたとしても、俺は絶対別れねぇからな』
『…うん』
『あともう一つ』
『一つじゃないじゃない』
『うるせぇな。…俺からは連絡するからな。ソレをしねぇとお前、俺のことなんてすっぽり忘れちまいそうだから』
『そんなことないって』
『お前が大丈夫になったら、返してくれればいいから。…頼むよ』

 懇願するような松田の視線に、なまえはゆっくり頷いてから「…自分勝手でごめん」と頭を下げた。

『いい。…イヤ、あんまよくねーけど』
『ごめん』
『謝んな。距離置くって決めたのはお前だろ』
『…うん。ありがとう』
『待ってるからな、いつまでも』

 こうして、マドンナちゃんは松田の前から消えていったのだ。



「…だから、俺はアイツが頑張るのを待つしかなくなった」
「そっか…」

 萩原は呆然としながら、しかし何も言えずに松田の顔を見上げた。

 松田のフォローをしようと口を開き、しばらく考えてから言うのをやめた。
 親友が決めたことだ。
 ここで俺が何か言うのは野暮≠チてモンだろ、と。

 萩原は「マ、この二人なら大丈夫だろ」と心のどこかで思っていた。
 距離を置くのも一時的なものだろうし、きっとスグに元通りになるだろう、と。
 だって誰の目から見ても、松田とマドンナちゃんはお似合いだったから。

 そこから数年。この二人が全く会わなくなるとは、思ってもみなかったのだ。

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