何で俺、こんな光景見せつけられてんだよ





「撒いたか?」
「うん、もう追ってきてないみたい」
「……ハァ…キッツ……」

なまえの声に脱力した松田は、木陰にドカリと崩れるように座り込んで頬を流れる汗を乱暴に拭った。

訓練開始から数時間が経つ。
現在のスコアは未だ百点満点のまま。
つまり、まだ誰も教官からペイント弾を浴びていない。
点数だけ見れば上々の出来だが、状況はあまりよろしいとは言えなかった。

目的もなく広大な土地を逃げ回るというのは思った以上に精神的に厳しいのだ。
地図もなく、土地勘もない。
即席で作った班のため、咄嗟の連携も取り辛い。

オマケに相手は、土地勘も経験もバリバリにある教官たちだ。
少しでも気を抜くとスグに予想もしていないところから容赦なくペイント弾をぶっぱなしてくるので、常に左右に視線を走らせながら行動しなくてはいけなかった。

特に松田は、チームの要である護衛対象を担っているため、誰よりも余計に神経をすり減らしていた。
いつもの訓練の半分ほどしか動いていないのに、いつもの三倍疲れているのだ。
オマケにタバコも吸えないので、本気で「もうリタイアしたろかな」と考えるレベルでしんどかった。

「松田くん、お疲れ様」
「…サンキュ」

疲弊しきった松田に、なまえは外ヅラの笑顔でドリンクボトルを差し出した。
昨晩の偉そうな態度などおくびにも出さずに「全部飲んじゃっていいからね」と優しく笑う女は、この班の誰よりも元気である。

理由は単純かつ不純。好きな男の役に立ちたいからだ。
この訓練でいい所を見せつけて、愛しの伊達から「お前が居てくれて助かったよ」と言ってもらいたいので。
だから完全にスイッチを切り替えている。
この間はあんなに緊張して吃りまくって松田にいちごミルクをぶっかけたというのに、
「伊達くんもちょっと休んでいいよ。疲れたでしょ」
とキラキラした笑顔で小首を傾げる余裕まであるのだ。

「応。サンキュ」

汗まみれの顔を拭う伊達の笑みを正面に受けても尚、「いえいえ」と綺麗に微笑むことができている。
心の中では「デヘ、ヘ…」とだらしなく緩みきった表情で蕩けている癖に。

「君も少し休んだ方がいい」
「ふふ、ありがとう降谷くん。でも私は大丈夫だよ」

この状況で元気な奴がもう一人。
成績学年トップの降谷は涼しい顔で「今日は暑いな…」と呟きながら軽い屈伸運動をしている。全く嫌味な男である。
前列索敵として誰よりも走り誰よりも神経を研ぎ澄ませていたはずの降谷となまえだけが元気、という意味のわからない状況だった。首席とはそういうものなのだ。


「班長、他の班の今の状況は?」

ボーッと虚空を見ていた伊達は急に話しかけられて「あ? …あぁ、ほらよ」とビックリした顔で支給されたスマホを降谷に向かって放り投げた。
彼は今まさに「お母さんのご飯が食べたいな」とお空を見ながら考えていた所だったのだ。

「あ、スマン」
「問題ない」

スマホはあらぬ方向に飛んで行ったが、降谷はそれを難なくキャッチする。

班に一台だけ支給されたスマホには、他の班の点数やリタイア状況などがリアルタイムで反映される。
ぺたぺたスマホを操作する降谷の手元を覗き込む元気のある人間はなまえしかいなかった。

伊達は先程なまえと喋ってからずっと口を開けながらお空を見上げているし、松田は木陰に座り込んだまま動かない。
廣瀬と芹沢に至っては地べたにテディベアのように足を投げ出して座りながら、死んだ顔で推しを見上げるので精一杯だった。

「まだ減点されていないのは僕らの班だけか」
「わ、もうリタイアしてるグループがこんなに…気が抜けないね」
「ああ、ここからはもっと気を引き締めないとな」
「寝るところもそろそろ見つけないとだね」

スマホを覗き込みながら真剣な顔で話す首席二人に、「尊い…」と廣瀬がシワシワの声を出した。

「やっぱあの二人お似合いじゃん…」
「オマエ…ふざけんな…マドンナちゃんは皆のモノだぞ…」
「そういう幻想もうやめな…イタイから…」
「ていうかお前は降谷がマドンナちゃんとくっついていいのかよ…てっきりガチ恋だと思ってたけど…」
「ハ? アタシ別に降谷くんガチ恋じゃないし…カレシいるし…」
「リア充かよ……ズル……」

テディベア状態で話す廣瀬と芹沢のシワシワ声に、今まで木の根っこでせかせか動き回るアリをジ…と見つめていた松田がゆるりと顔を上げた。

視界に飛び込んできたのは、手元のスマホを見ながら真剣な表情で話す降谷となまえの姿。
驚く程に整った顔の二人に「たしかに絵になるな…」と思うのと同時に、少しだけチクリと胸が痛んだ。

「(何でだ…?)」

変なモンでも食ったっけ。思わず首を傾げる。
無意識に視線を落とすと痛みは一瞬で消えた。
気のせいか、と無理矢理納得して再び二人に視線を向けると。

「わ、!」

ビュウ、と強めの風が吹いてなまえがよろめいた。
あ。と手を伸ばして立ち上がろうとした松田は、途中でピシリと固まった。

「おっと、大丈夫か?」
「ご、ごめんね降谷くん、ありがと」

隣にいた男が、その華奢な腰を掴んで支えたからだ。
その男は、ハニーフェイスを少しだけ緩めながら「だから休んでおけと言ったのに」と溶けるように笑った。
そのまま腕の中にちんまりと収まったままの女の乱れた髪を「葉っぱついてるぞ」と直してやる。

「あ、ありがとう…」
「どういたしまして」

「え、降谷カッコよ…」
「降谷くん…スキ…」

芹沢と廣瀬の声色に少しだけ元気が戻る。
ドギマギと頬を赤らめて身体を固くするなまえと、彼女を見下ろしてクスクス笑う降谷の図は、それだけ絵になったのだから。

「…なんだよ」

オマエ、伊達のこと好きなんじゃなかったのかよ。
降谷如きに顔赤らめてんじゃねぇよ。
何で俺、こんな光景見せつけられてんだよ。

松田は無意識に拳を握りしめた。
再びチクチクと痛んだ胸は、しばらくの間治まらなかった。



△▽



「あー…ネミ…」

あっという間に夜になった。
さすがに夜通し逃げ続ける訳にもいかず、一同は森の奥まった所にあった開けたスポットにテントを張って眠ることにした。

しかし自分たちが寝ている間も関係なしに教官たちはやって来るだろう。
なので交代でテント前に見張りに着くことにしたのだ。

腕時計の小さなアラームでパチ、と目を開けた松田は大きな欠伸を零しながら起き上がった。
松田は護衛人なので本来見張りをする必要はないのだが、「それだとオレたちが寝る時間少なくなるじゃん」「そうよ! 女の子にはシンデレラタイムがあるんだから!」と芹沢と廣瀬が盛大な駄々を捏ねたので、仕方なく見張りのローテーションに入ったのだった。

隣では芹沢が大口をあけてガァガァ大イビキをかきながら気持ちよさそうに寝こけていた。
少しだけ殺意が湧いて高い鼻をムギュ、と摘む。
暫くおとなしくなった芹沢は数秒後、「フガッ!」と唸って顔面をクシクシしたので思わず「ダハハ」と笑いが零れた。

「…ぇ、あ、ナニ…おっぱい…?」

おっぱいの夢を見ていたようだ。
どんな夢だよ。俺にも見せてくれよ。

「今寝たら俺もおっぱいの夢見れるかな…」
と本気で悩んでイカンイカンと頭を振った。

芹沢の奥には降谷が眉根に皺をよせて眠っていた。
昼間あんなに輝いていた綺麗な蒼の瞳はギュ、と瞑った薄い瞼に隠れている。

「ウ……新聞…もう取ってるんで…ア…入ってこないで…」

降谷は悪質な訪問販売にあっているようだ。
横が煩いから悪夢を見ているのだろう。可哀想な男である。

対象的な二人をジ…と眺めていた松田はもう一度頭を振ると、「行くか…」と呟いてからノソノソ起き上がってテントの外に出るのだった。




「伊達、交代」
「応、サンキュ」

テントから出た松田は交代相手の伊達に声をかけた。
伊達の隣にはちまく体育座りをしたマドンナちゃんが「あ…もう時間…」と少しだけ残念そうな顔で伊達を見上げる。
見張り時間は各三時間。伊達はちょうど三時間のノルマが終わったところ。なまえはあと一時間半残っている。

ちなみに見張りシフトは以下の通りになっている。

21:00~22:30 廣瀬
21:00~0:00 伊達
22:30~1:30 なまえ
0:00~3:00 松田
1:30~4:30 降谷
3:00~6:00 芹沢
4:30~6:00 廣瀬

「アタシお肌のゴールデンタイムだけは絶対守りたいの!」という廣瀬のワガママによって組まれたシフトである。
ちなみになまえは「私は何時でもいいよ(伊達くんと一緒の時間があるなら)」といい子ぶったのでご褒美に伊達と同じ見張り当番にしてもらった。

「じゃ、何かあったらすぐ呼べよ」
「うん。ありがとうね、伊達くん」
「ん、おやすみ」
「おやすみ」

伊達は眠そうに欠伸をしながらなまえの肩をポン、と軽く叩いてから、続いて松田に「頑張れよ」と強めの肩パンをして男子テントに入っていった。



「…ってぇな」
「肩パンいいなぁ…」
「スゲェ痛ぇぞ伊達の肩パン」
「…痛いのはヤ…」
「だろ?」

懐中電灯の心もとない灯りにボヤリと照らされたマドンナちゃんは、絵画の様に美しかった。
つるりとした丸こい頬に影を落とす長い睫毛。小さな赤い唇をむにむに触る細っこい指先。
思わずその綺麗な横顔に見とれた。

「…なに」
「いや…」
「タバコ、吸いたいの?」
「あるのか?」
「キャスターでいいなら」

松田の視線を斜め上に解釈したなまえは、「今日全然吸えなかったもんね」と胸ポケットからシガレットを取り出した。

「はい」
「サンキュ」

百円ライターごと受け取り火をつける。
ジ…とシガレットの先端が赤く色づき、半日ぶりの煙を肺いっぱいに吸い込んだ。
特有のバニラの甘こい香りがふわりと鼻腔を擽る。

「…ウマ…」
「でしょ」

自分たちの声以外に聞こえるのは、背後の男子テントから微かに聞こえる芹沢の大いびきと虫の音だけ。
夜闇は深く、五メートル先は完全な暗闇となっていた。
いつ教官の足音が聞こえてもおかしくない。
必然的に会話は少なくなった。
今の自分たちに出来ることは、ひたすら耳を澄ませて足音に怯えることか、すぐに霧散して夜闇に溶ける白い煙を目で追いかけることだけ。

「…そういや、」

沈黙に耐えきれなくなった松田はフゥ…と煙を吐いてからなまえに視線を向けた。

「さっきまで、伊達と何喋ってたんだよ」
「…ただの、思い出話」

マドンナちゃんは体育座りの姿勢で、膝に顔を埋めながら「私と伊達くんの唯一の思い出話。…私が伊達くんを好きになったキッカケの話」と答えた。吸っていたシガレットは、いつの間にか携帯灰皿の中に仕舞われたらしい。

「…告ったのか?」
「まさか。言えるわけないでしょ」

驚く松田を尻目に、マドンナちゃんはぽつりぽつりと話し始めた。
まるで悪いことをした小学生がお母さんに言い訳をする時のような、か細くてやわこくて今にも消え入りそうな声で。



△▽



マドンナちゃんの中学時代は、一言で表すと『ひとりぼっち』だった。

元々活発なタイプではなかった。
体育よりも国語が好き。
休み時間はみんなでドッチボールをするよりも自席で静かに本を読む方が好き。
放課後はみんなで遊ぶよりも一人で家にいる方が好き。

なので友達と呼べる存在は殆ど居らず、クラスの中では空気のような存在だった。
マドンナちゃんはそんな中学生活をなんとも思っていなかったし、十分に満足していた。

しかし、周りはそうは思っていなかった。
なぜならば、マドンナちゃんは当時から学年で、イヤ学校で一番整った顔をしていたからだ。

男子たちからは『あの子可愛いよな』『他の女子みたいにギャンギャン煩くないし大人しくていいよな』と遠巻きに熱い目で見られていたし、女子たちからは『お高く止まって嫌な子』と僻まれていた。

はじめの方は全く気にもとめていなかったのだが、女子たちからの僻みは高学年になるにつれて加速していった。第二次性徴──つまり身体の発達と伴って。
胸が膨らんできた。化粧に興味を持ちはじめた。女の子≠ゥら女性≠ノ変化を遂げ出す頃。
『あの子より可愛い』『あの子よりも胸が大きい』とお互いの顔やスタイルを比較し、自分の中でランク付けを行い、憧れの先輩やクラスで人気の男子にアピールをするようになる頃だ。

『いや、お前らケバすぎ』
『それに比べたらあの子って可愛いよな。あれでスッピンだろ?』
『誰よりもスタイルいいよなアイツ』

雑誌で特集されていたメイク道具で自身を磨き始めた女子たちは、男子から言われた心無い言葉に愕然とした。
だって化粧を施した自分たちは見違えるほどに綺麗になったと思っていたのだから。
濃いめのアイラインとマスカラは細い目を何倍も大きくしてみせてくれたし、ピンクのグロスは薄い唇をぷっくりとふくよかに彩ってくれていたのだから。

しかし、それでも。

『ウチらの努力って何なんだろうね…』

幾ら努力しても、教室の隅でひっそりと本の世界に閉じこもる木偶の坊には叶わなかった。
だってあの子は、何の努力もしなくても自分たちが欲しいぱっちりした目を持っていた。血色の良いピンク色の頬が、スッと通った形の良い鼻が、吸い付きたくなるようなふっくら唇が、完璧な配置で小さな白い顔に収まっていたのだから。
だからマドンナちゃんは、何もしていないのに僻みから来るちょっとした嫌がらせを受けるようになった。
表立って虐められることはなかった。だってマドンナちゃんを虐めた瞬間、男子たちによる制裁が待っていることくらいは全員が理解していたから。

だから嫌がらせの内容は、本を隠されたり、上履きが裏返しになっていたり、自分の番だけ大縄のスピードが早くなったり、という本当に些細なもの。
マドンナちゃんは少しだけヤだな…と思ったが、それよりも大事にしたくなかったので気づかないフリをしていた。


そんなある日のこと。
その日は夕方から大雨警報が出ていた。だから確実に傘を持ってきたはずだったのに、昇降口の傘立てからお気に入りのピンクの傘がなくなっていた。
案の定放課後は土砂降りの雨で『どうしよう』と口を小さく開けて灰色の空を見上げながら途方に暮れていた。

『どうしたんだ?』

途方に暮れていたマドンナちゃんに声をかけたのは、隣のクラスの伊達だった。
伊達は当時からクラスのリーダー的存在の人気者で有名人だった。
一度も喋ったことはなかったが、名前だけはマドンナちゃんも知っていたのだ。

『あ…傘忘れちゃって』

マドンナちゃんは長い睫毛を伏せながらムニムニ言った。嫌がらせされて…とは口が裂けても言いたくなかったし、隣のクラスの人気者と喋っているところを女子たちに見られたくなかったからだ。だって嫌がらせが加速するかもしれなかったから。
伊達はそんなマドンナちゃんを気に止めることもなく、『ドジだなぁ…』と頬を緩めて笑った。

『俺の使えよ、ホラ』
『え、で、でも…』
『俺は他の奴に入れてもらうからよ』

伊達が差し出してきたのは大きくて真っ黒のジャンプ傘だった。
戸惑うマドンナちゃんに其れを押し付けた伊達は『気ぃつけて帰れよ! じゃあな』と快活に笑って校舎の奥に消えて行った。

その屈託のない満面の笑みと、ふわりと香った男らしい制汗剤の香りに──。


恋に落ちる音がした。



「…それで?」
「それで…って?」

松田はなまえの口からひたすら紡がれる伊達くんとの思い出話≠黙って聞いていたが、これで終わりだとでも言うようにパクンと口を閉じたなまえに向かって、絶対に言ってはならない一言を言ってしまった。

「それだけ…?」
「悪い?」

膝の隙間からギロリと睨まれて肩を竦める。
あんなに長い間話した癖にエピソードが薄すぎた。傘借りただけで恋に落ちるとか中学生か? ア、そっか中学の時のハナシか…と心の中で考える。声に出すとまた睨まれそうだったので。

「…だから、さっき伊達くんには傘を貸してくれてありがとうっていうのと、返せなくてごめんねって話してたの」
「返せなかったのか?」

松田の言葉にマドンナちゃんは小さく頷いてから、また小声で話し始めた。



借りた傘を返したかったしどうにかして伊達ともう一度喋りたかったけれど、勇気が出なかった。
自分の中学での立ち位置は嫌という程分かっていたから。今までの自分の振る舞いが原因だが、周りから浮いている陰キャラが隣のクラスの人気者に話しかけるというのは中々にハードルが高かったのだ。

急に話しかけたらキモくないかな。周りから色々言われないかな。
『イヤ、返さなくていいよ…』とかドン引きした顔で言われないかな。
彼女のマイナス思考は昔から健在だった。

それでも、数日間ほどウダウダ悩んだなまえは、傘を返しに行こうと決意した。
ただ、あまり目立たないように放課後。
彼が所属していた柔道部の部室に向かった。

マドンナちゃんは部活動に所属していなかったため、運動部の部室棟は未知の世界だった。
散々迷いながら辿り着いた柔道部の部室前。
意を決してノックをしようとしたマドンナちゃんは、振り上げた拳をピタリと止めることとなる。

『やっぱあの子かわいいよな。みょうじさん』

中から自分の名前が聞こえてきたからだ。
どうやら部室の中には何人か居るようで、しかも話題は『ウチの学校で誰が可愛いか』という男子中学生らしい話だった。

『分かるわ。ダントツだよな』
『大人しいし控えめだし』
『マァ根暗だけどな』
『バカそこがいいんだろうが』

意気込んでここまで来たものの、流石に自分の話題の時に入っていける気はしなかった。
マドンナちゃんは息を殺して中の会話を盗み聞く。早く自分の話題が終われという気持ちと、もしかしたら伊達も自分のことを『可愛い』と言ってくれるんじゃないかという淡い期待で胸を膨らませながら。

『なんつーの? ピュア? 純粋って感じじゃん。俺色に染めてーよな』
『お前らやめろって』
『そういう伊達はどうなんだよ?』
『俺?』

きた。マドンナちゃんはグッと傘を持つ手に力を入れてピタリと耳を扉にくっ付けた。
言って。お願い。私のこと可愛いって言って。

『あー、俺は…』

しかし、伊達の声で語られた名前は、なまえの淡い期待とは裏腹に、お世辞にもあまり可愛くないクラスメイトの名前だった。
あまり可愛くはないが、明るくて、クラスのムードメーカー的な女の子。マドンナちゃんの対極の位置にいる女の子だった。

『俺は、外見よりも明るくてみんなの中心にいるヤツの方が…マァ、好き…っつーか…』
『伊達っぽいな』
『そうか?』
『確かに伊達がこれで顔が可愛いヤツが好き≠チて言ったら解釈違いっつーか…』

なまえはその話題を最後まで聞くことはなかった。
その場から走って逃げてしまったからだ。

走りながら、その綺麗な目から大粒の涙をボロボロ零した。
このままじゃダメだ。
陰キャラの私と人気者の伊達くんじゃ釣り合わない。
そもそも、自分のような人間は伊達の好みではないのだ。

マドンナちゃんはそれきり、伊達とは一切顔を合わさずに中学を卒業した。

高校も大学も、伊達とは違うところに行った。
なまえの目標はその更に先──警察学校で彼と再会することだった。だって彼は、警察になるのが夢だと卒業文集で書いていたから。

だからなまえは、今までの自分のことを誰も知らない遠くの高校に進学した。
三年間かけてキャラを作り直した。今までの自分の殻に閉じこもった陰キャラの自分を殺して、明るくて分け隔てなく愛されるようなキャラになるように努力した。
部活も柔道部に所属したし、より一層勉強に力を入れた。伊達と釣り合うような完璧な女になりたかったから。



「それで、出来上がったのがマドンナちゃん≠ネの」

マドンナちゃんは自嘲気味に笑って、バニラのタバコに火をつけた。

外見はもちろん良し、明るくて、お淑やかで、みんなの中心的存在なマドンナちゃん。
でも根っこは変わらず暗いし、ジメジメウジウジしている昔の自分のまま。そして周りからどう思われるかばかり考えているお陰で少しだけ性格は歪んでしまった。

「…お前、やっぱスゲェな」
「何が」
「イヤ、マジで。この間も思ったけど」

松田は素直に感心した。
同時に、目の前の女のことを傍若無人の猫被り≠ニ思っていた自分を恥じた。
ただひたすら真っ直ぐで、少し不器用だけど誰よりも努力家な女だったから。

今までの自分の人生で、ここまで努力をしたことってあったっけな。
少しだけ考えて、「一つもねぇな」と恥ずかしくなる。
だって自分は、こんなにウジウジ思い悩んだことは皆無だったから。
基本的なことは少しやっただけで物に出来てしまうほど器用だったから。

「(だからお前は、こんなにも眩しいんだろうな)」

手を伸ばして目の前の女の細っこい指先からシガレットを取り上げて携帯灰皿にしまう。
「あ、」と文句を言おうとする女のサラサラ流れる髪をゆるりと撫でた。

昼間降谷が触れていた髪は少しだけベタついていたが、それでも尚松田の指の隙間にサラリと纏わりつく。

「な、なに、」
「黙ってろ」

少しだけ怯んだマドンナちゃんをピシャリと跳ね除け、何度も何度も流れる髪を撫で付けた。
少しだけ赤くなった頬に触れたら、戸惑うように震える唇に吸い付いたら、この女はどんな顔をするんだろう。ボーッとそんなことを考えて、グッと距離を詰めた。そんな時。



「交代の時間だけど…どうした?」
「…イヤ、何でもねぇよ」

ベリ、とマジックテープの剥がれる音と共に開いたテントから出てきた降谷に、松田は思い切り仰け反って明後日の方向を向いた。

「(俺、いま何しようとしてた──?)」

我に返って癖毛を掻き回した。
かわいいな。と思ってしまったのだ。努力家で、一途で、不器用な女に対して。
オマケに顔は整っているし、大きめの胸も細っこい腰つきも全てが松田の好みド真ん中だったから。
だから危うく道を踏み外す所だった。絶対に叶わない想いを目の前の女に持ってしまうところだった。

「あっぶねぇ……」

チラリとマドンナちゃんを盗み見る。女は今しがた松田に何をされそうになっていたのか全く理解していないような顔で「降谷くん、これから三時間頑張ってね」と外ヅラの仮面で微笑んでいた。

「じゃあ、おやすみ」
「…オウ」
「ああ、ゆっくり休めよ」

マドンナちゃんは少しだけ伸びをして立ち上がり、女子用のテントに帰っていくのだった。
仄かなバニラの香りをその場に残して。



△▽



「…お前、さっきみょうじさんに何しようとしてた?」
「別に…」

マドンナちゃんと交代した降谷が、先程彼女が座っていた場所に腰を下ろす。
開口一番、一番触れて欲しくない話題を出されて松田は小さく舌打ちを零す。

「…アイツの髪がヘンだったから、直してやってただけだって。昼間のお前みたいに」
「ホォー…」

降谷は訝しげな視線で松田を見やる。
懐中電灯の光に蒼の瞳がギラギラと反射した。

松田がマドンナちゃんを特別視していることは少し前から分かっていた。
なぜなら、降谷もまた彼女のことを特別な目で見ていたのだから。

「…僕は、彼女のことが気になってる」
「は?」

松田がマドンナちゃんを恋愛的な意味で特別視しているのかは分からない。ただ、他の女生徒と関わる時とマドンナちゃんと関わる時では、松田の態度が少し違って見えていた。
だから、降谷は松田に対して早めに牽制しておくことにした。

弾けるように降谷を見た松田は、その整った顔をポカンと歪ませた。
その間抜けヅラに少しだけ笑った降谷は「あの子、いい子だよな」と続ける。


綺麗な子だな、というのが第一印象。
男女の成績トップということで、何回か教官からの雑用を押し付けられる度に話すようになった。
いい子だな…と思っていたら彼女が「マドンナちゃん」と呼ばれるほど人気を集める存在だと知った。
でも、彼女はそんな呼び名に胡座をかくことなく、研鑽を怠らない。
他の女生徒たちが自分たちを囲んでキャアキャア言っている間も、「先生、先程の授業で分からなかった所が」と教官に教えを乞いに行く姿を見て更に「いい子だな」と思った。
今日の訓練でも、降谷の意図を組んで的確なサポートをしてくれた。降谷はいつもの班よりも何倍も動きやすかったのだ。

「だから、僕は彼女のことを…そうだな、好きなのかもしれない」
「…そーかよ」

つまんなそうに腕を組む松田にもう一度言った。
「俺にどうしろってんだよ」と続けた松田に降谷は少しだけ笑ってから。

「別に」

と告げた。

「は?」
「イヤ、てっきり松田もそう≠セと思ってたから」
「は!?」
「だから、宣戦布告だよ」

降谷は軽く笑って松田の肩を叩いた。

「僕は遠慮しないからな」
「…俺は別に…アイツのことなんか…」

松田は降谷の手を払い除けて胸ポケットに手を伸ばす。いつもならそこにはタバコを入れているから。
しかし、今日は入れてきていない。だからさっきもマドンナちゃんのタバコを貰ったのだった。

「(クソ…イライラする…)」

松田はグシグシと眉間を擦ると、「勝手にしろよ」と降谷に吐き捨てて懐中電灯の光を睨んだ。

そのまま、芹沢が「交代ってしなきゃダメ?」と目を擦りながらテントから出てくるまで。

二人の間に会話はなかった。





▽過去を吐露した女
 マジでこの訓練楽しい。だって実質デートだし。って言ったら松田から「それはデートとは呼ばねぇ」ってマジレスされてムカついた。

▽宣戦布告された男
 何で俺が宣戦布告されたんだ?ていうか俺さっきアイツにキスしようとした?の気持ち。降谷の思いを知ってめちゃくちゃモヤモヤしたしあまり寝れなかった。

▽宣戦布告した男
 テントから出たら気になってる女の子とライバルが妙に距離が近くてムカついた。邪魔な虫は絶対殺すマンなので先んじて釘をさしておいた。

▽苦労人(はんちょう)
 中学の時の思い出話をされて「そんなこともあったっけな」の気持ち。正直あんまり覚えていなかった。

▽おっぱいの夢を見た男
 よく覚えてないけどすごい幸せな夢を見てた気がする。イビキがうるさい?知らん。耳栓すれば?

▽お肌のゴールデンタイムを守れた女
 この班で一番充実した睡眠を取れた。推しと親友がなんかすごくいい感じの雰囲気醸し出してるからニンマリしてる。

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