「好きなの、付き合って下さい」 消えそうな声でそう言ったセミロングの女子にはなんとなく覚えがあった。 確か1年のときに同じクラスだった。名前は覚えていないが。 舜は黙っていた。彼女はうつむいたまま、縋るように続けた。 「1年の時、文化祭の劇の台本褒めてくれたでしょ?その時からずっと好きなの。だから、」 お願い。 震えているその声に舜は薄く笑った。 そんなことを言われても思い出すはずもなかった。 彼女にとっては大切なきっかけだったのだろうが、舜にとっては何て事無いただの出来事だった。まさか彼女は想い人が自分自身のことを覚えていないとは考えもしないだろう。状況離れしたその現実に、舜は笑いがこみあげてくる。 だか一切顔には出さず、顔上げて、と優しく彼女に声をかけた。 「いいよ」 「え?」 「付き合おっか」 にっこりと微笑んでやると、彼女は目をまんまるにして。 見開いたその目から雫がぼろぼろとこぼれおちる。彼女は顔を手で覆って頷いていた。指の隙間が日に当たって鋭く光っている。そして一言、ありがとう。そう言って走り去って行った。 薄暗い体育館裏で、舜は一人きりになった。 舜は、散って地面の茶と混ざり合った桜の花弁をくしゃりと踏んで、壁に頭を預けた。 その目はまるで空洞だった。ただ目の前を映すだけの鏡だった。 ああ、またこのパターンだ。舜は笑う。口を歪めて笑う。 今回は何カ月もつかな、と。 「・・・・めんどくせ」 どこか責めるような口調だったが、誰を責めているのかは舜にもわからなかった。 瞬間、昼休みの終わりを告げるチャイムが遠くで聞こえた。 舜はだるそうに目線を下げて教室に戻ろうとした。その時だった。 あの黒が、目の前に立っていた。 舜は一瞬目を丸くして、でもすぐにいつもの笑顔で。 「盗み聞きとか悪趣味だね、榊森さん」 目の前の黒、榊森愛はじっと舜を睨みつけた。 「『めんどくさい』って何が?」 少しの沈黙の後、舜はゆっくりと口を開いた。 「知りたい?」 彼の目はすっかり悪戯っ子の色に染まっていて。 愛は何も答えない。舜はゆっくり彼女に近づいていく。鐘の音はとっくのとうに鳴りやんでいた。 「違うよ」 びゅう、と暖かい風が2人を撫でた。その中で舜は眩しそうに目を細めた。 彼の目の色はほんの少し悪戯っ子の目とは違っていた。 嫌悪や恐れの入り混じった負の感情の彩り。 「もう全部、めんどくさい」 愛は何も言わなかった。ただじっと彼の言葉に身体を預けているように見えた。 舜はじゃあね、とまたいつものように微笑んで、彼女の横を颯爽と通り過ぎていった。 彼の姿が見えなくなって、『黒』は風に吹かれながら。 「新堂、舜」 囁くように彼の名を紡ぐ。その黒曜石は冷たい光を帯びていて。 彼女もまた、桜の花弁を踏みつぶした。 その足取りはまるでギロチンの刃を落とすかのような重いものだった。 結局午後からの授業を受けずに校内をうろついていた舜は、6限の終わりを告げるチャイムを聞いて教室に戻った。 木製の白い扉を引くと、教室内がわっとざわついた。 「舜ー!オマエ何処行ってたんだよー!!」 「サボりかサボり!」 「うっわ悪ー!!不良ー!!」 「ちょっとちょっと誰もサボりって言ってないでしょ、決めつけんなっつーのー」 「じゃあ何処行ってたんだよ」 「久保センセに口説かれてた」 「嘘付けー!!!」 「あのお堅い久保ちゃんがそんなことするわけないじゃーん!!」 教室に爆笑の波が広がって、女子も可笑しそうにクスクス笑っている。 だがそれはすぐに止んだ。・・・舜の背後を見て。 舜がゆっくり後ろを振り向くと、そこには爆笑のネタにされた当の本人、久保明日香が腕組みをして立っていた。 「誰が誰を口説いたって?新堂くん」 純粋な意味ではない可憐な笑みに、舜も焦ることなく無邪気に笑ってみせた。 「やだなぁ先生、照れなくていいのに」 「貴方には私が照れているように見えるの?」 「見える」 「眼科行ってきなさい」 べし、と軽く日誌で頭をはたかれると、教室内ではまた爆笑が巻き起こった。 大げさにいったぁーい、と悲鳴をあげてみせる。すると久保は呆れ顔で溜息をついた。 「HR始めるわよ、席について」 「え?まだ終わってなかったの」 「貴方を待ってたのよ・・・っ!!」 怒りに震える久保をまたも笑顔で撒く。 久保はしょうがないわね、と教卓に立った。舜は成績も良く人望も厚い、『優等生』。 だから彼女は舜に何も言わない。他の教師と同じく。 それを、その先入観を利用しなくてどうするんだ。舜は心の中でほくそ笑んだ。 HRが始まって、でも舜は耳を傾けずに。 目線を窓際に向けた時、初めて気がついた。 (あれ) 窓際のあの席に『黒』がいなかった。 あの昼休みに会ったのにまだ戻っていないのか。意外と悪いなぁと思って、後ろの席の同級生に問うた。 「なぁ、榊森って何処行ったの」 「え?」 その男子は窓際をちらりと見て首をかしげた。 「知らね、つかアイツ学校来てた?」 「ふーん・・・」 「早退よ」 振り向くと、久保がこちらを見ていた。どうやら聞こえていたらしい。 「5限目に早退させたわ」 「うわぁ久保センセ盗み聞きー」 「貴方達の声が大きいのよ!!!」 どなり声にキャーと怯えるフリをして、でも心の中では違うことを考えていた。 早退。5限目のチャイムは愛と一緒に迎えた。 もう一度日差しが降り注ぐ愛の席を見つめた。影の黒が侵食されていた。それを一瞥して目線を戻した。 主人を失ったあの席がさびしそうに見えた、なんて。そんなの性に合わなさ過ぎて自分自身に吐き気がした。 人間の感情の100のうち95を吐いてしまいたい。 影の黒が光の白で強調されてより美しく見えた、そんな感情も。 |