リンカーネイション
深い深淵を下へ下へ落ちていく感覚がする。時折火の玉みたいなのが足の間を通り抜けたり、こっちにおいでよと言いたげに目の前を横切る。それらを全部無視して私はただひたすら下へと降り続けた。
「――、見て見て!ほら!って、聞いてるの?ねぇ、雪ってば!」
肩を揺さぶられどこか遠くへ行っていた意識を戻したと同時に、至近距離にあった目玉に驚いて思わず奇声を上げた。
「うぎゃああああああッ!!!ちょ、何!?なんなの!?」
「もう!雪ってばまたぼーっとして!前もそうしてて電柱にぶつかったばかりでしょ?」
「え、そうだっけ…」
「そうだよ!」
ぽこぽこと腰に手を当てて怒る茜にごめんごめん、と平謝りしながら頭を掻いた。今の感覚、なんだったんだろう…まるで長い夢を見ていたような、そんな気分だ。
「それより、何だっけ」
「あ、そうそう!!近くに新しいカフェができたんだよ!そこのパフェが絶品なんだって!雪ってばパフェ好きだったよね?ねね、今度一緒に行こうよ!」
「ぜひとも一緒に行かせていただきます茜さん」
「言ったなぁ?約束だよ?」
「もち」
じゃあ私、次の講義向こうの校舎だから!
そう言って別れた茜の背中を見送る。あ、私も急がないと次の授業に遅れちゃうなぁ。確か次は地球物理学だった気がする。よし、早く行こう。そう思って足を一歩前に踏み出した。
「ねぇ、あの噂本当なのかしら…」
「ッ、」
ハッと意識を戻すと、教室の片隅で数人のグループでコソコソ話す女子たちが目に入った。彼女たちは時折私を小馬鹿にしたようにチラチラと見る。それが無性に腹が立った。
「雪のお姉さん、援交してるって噂だよ」
「えーッ!そうなの?」
「そうそう!まだ先生たちの耳には入っていないみたいだけど、就職の内定も決まってるのにこんなんじゃ、バレるのも時間の問題よねぇ?」
「でも、姉って言っても親戚でしょ?別に関係ないんじゃない?」
「バカね。雪が居候している時点で無関係なわけないでしょ?そもそもお互い親が蒸発した者同士だもの。傷の舐めあいしてるのも甚だしいわ」
耳障りな声で笑う彼女たちを視界に入れないように立ち上がり、教室を出た。
姉さんは遠い親戚にあたる私の唯一の家族で、私の親同様彼女の両親も蒸発し、自分自身も大変なはずなのに路頭に迷う私を引き取ってくれたんだ。
お前らに一体何がわかる。姉さんは好き好んであんなことをしているんじゃない。私のために好きでもない相手と交わってお金をもらってるんだ。行けないことだってわかっている。でもそれをバカにするようなやつは許さない。それもこれも私たちを見捨てて蒸発した親のせいで…!
ガリッと強く噛み締めた唇から血が滴り落ちたとき。
「雪ッ!」
背中に飛んで来た茜の声をに立ち止まった。茜は私の前まで来ると、心配そうに顔を覗き込んできた。
「雪、大丈夫?あんなの気にしちゃダメだよ!」
「…気にしないわけないじゃん。今してるバイトだけじゃ足りないからって姉さんは私のために体まで売って…!何もわかっていないあいつらにとやかく言われる気持ちがあんたにわかるの!?このままじゃ姉さんが壊れちゃう…!私のせいで姉さんの将来が無茶苦茶になるッ!!私のせいで将来を誓い合った恋人とも別れて…!全部全部私のせいだ…私が情けないから姉さんに苦労ばかり掛けて…!」
「雪…」
「もう、嫌だよ…生きるのが辛い…最近じゃ私が死ねば姉さんは私から解放されるんじゃないのかって思っちゃう…私さえいなければ姉さんは…!茜、私はどうすればいい…ッ?」
「雪、諦めちゃダメ。生きて入ればなんとでもなる!私、こんなことしか言うことができないけど、それでも私はずっと雪の味方だから。ね、負けないで。雪は1人じゃないよ」
「あかねぇ…ッ!!」
よしよし、と私の頭をなでる茜の手に心の奥底から安心感を覚えた。たとえ私からみんなが離れて行っても、茜だけはずっと私の傍にいてくれると思った。
「あんたなんて引き取らなければよかったッ!!」
ばしん、と頬に強烈な痛みが走った。あぁ、私、姉さんに叩かれたのか。どこか他人事のように思いながら、まるで親の仇でも見るような目で私を睨み付ける姉さんを呆然と見上げた。
「ね、さん…」
「姉さんだなんて呼ばないでッ!!私はあんたの姉さんなんかじゃない!!どうして私ばかりがこんな目に合わなくちゃいけないのよッ!!彼氏とも別れて、好きでもないやつらとあんなこと…!!もういやよこんなの…あんたなんて…!!」
まな板の上の包丁を握りしめた姉さんはその切っ先を真っ直ぐに私に向けた。ぎらりと照明に反射する銀色に一歩後ずさる。
「あんたなんて…!死んじゃえばいいのよッ!!!」
バンッと勢いよく玄関を開け放ち部屋を飛び出した。いらない、引き取らなければよかった、死んじゃえばいいのに。
姉さんに言われた言葉がぐるぐるぐるぐる頭を駆け巡って酷い吐き気を覚えた。姉さんがあんなことを思っていただなんて…いや、何となくはわかっていた。姉さんが私を煩わしく思い始めていたって。でも、それでも彼女が私に優しく接してくれたあの日々は偽りなんかじゃない。そう思っているからこそ信じたくなかったんだ。
「はッ…はぁッ…!あか、ねぇ…!」
辿り着いたマンションの屋上で、震える手を必死に動かして携帯のボタンを押す。電話帳から親友の名前を探し出し、通話ボタンを押した。
「茜、茜…あか、ね…!」
『もしもし?雪?どうしたの』
「あかねぇ…!」
酷く長く感じたコール音の後、待ち望んだ声が鼓膜に響き私の涙腺は限界を超えた。
「わ、たし…!!どうしよッ!姉さんに…!」
『雪!?雪落ち着いて!お姉さんがどうしたの?今どこにいるの!?ねぇ雪!!』
「姉さんに、死んじゃえって言われたぁ…!!」
『ッ!!』
電話越しに茜が息を呑んだのがわかった。私はただ、言葉にならない嗚咽も漏らし続ける。自分でも何言ってるのかわからないけど、精一杯今さっきあったことを伝えて、そして口を閉ざす。
「もう…疲れたよ茜…」
『ダメだよ雪!早まらないで!もう一度お姉さんと話し合おう!今ならまだ引き返せる!お願い、一度だけでもいいから話をして!!』
「で、でも姉さんは…」
『死んじゃえだなんてお姉さんが本当に思ってると思うの!?あの人はいつだって雪のことを考えてくれてたじゃない!!今まであんたがお姉さんといた時間を信じてあげてよ!!』
茜の言葉にハッとした。綺麗事だってわかってる。それでもやっぱり私は姉さんを信じたい。どうしようもなく大切で大好きな存在だから。だから…
「わか…た…もう一回、姉さんと話してみる」
『うん…電話は一応繋げておこうか?』
「…お願い」
茜との通話を終了させないまま屋上を出る。こうしているとまるで茜が隣にいてくれている気がして少し勇気をもらえた。姉さんの部屋のドアノブに手をかけて、やめた。
「ッ…」
『大丈夫、私もいるから。ね?』
「…う、ん」
そうだ、茜がいてくれる。大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫…ちゃんと謝って、姉さんに負担をかけないようにバイトも増やして、もう一度あの時みたいに笑って暮らせれば…
一度大きく深呼吸をして、ドアを大きく開いた。
「姉さん…あの、ごめんなさい…私、姉さんにばかり負担を押し付けて…私、もう姉さんに辛い思いをさせないように頑張るから!だから…、」
ぶらん、とぶら下がる影に絶句した。天井から垂れたロープに首を引っ掛けて小刻みにゆらゆら揺れる姉さん。四肢はだらりと力なく垂れ下がり、まるで亡霊のように宙に浮いていた。
足元に走り書きしたような何かが書いてある紙切れを見つけ、それを力なく持ち上げる。
“雪へ
酷いこと言ってごめんね。大好きよ”
「あ…あ…あぁぁあああああああああああ!!!!!」
とても短い文章だけれど姉さんの思いは痛いほど伝わった。
どう、して…なんで…なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで…!!!!全身の震えが止まらない、止められない。姉さんが死んじゃった。私のせいで姉さんが死んだ。私の、せいで…私が姉さんを追い詰めたんだ。私が姉さんを殺したんだ…!
ぼんやりとした意識の中、床に転がる包丁を手に取った。
『雪!?何があったの!?ねぇ雪!!雪ってばぁッ!!』
「茜…私、姉さんを殺しちゃった…」
『え…?』
「いやだよ…もう、耐えられない…!」
『な、何言ってるの…?ねぇ、雪…!』
ことり、と床に携帯を置いて包丁を高く掲げた。茜が何か叫んでいるが、今はそれに耳を傾ける余裕なんてない。諦めるなって言われたけど…ごめん、私もう無理だよ。逃げたでも卑怯者とでもなんとでも言えばいい。姉さんを殺してしまった。私に居場所なんてない。私はもう…
「ごめん、茜…」
『雪やめてぇええええええッ!!!!』
茜の絶叫を聞きながら掲げた包丁を腹に思いっきり突き立てた。深く深く。貫く勢いで。ごぼりと口から血が噴き出、床に倒れ込んだ。あぁ、痛い…意識がどんどん遠くなっていく。自分でぶっ刺したにしろとても痛い…腹が熱くてかき回されているようで…
『…雪、願って』
携帯からいつになく真剣で、そしてどことなく優しげな茜の声が木霊した。
『あなたが心の底から求めるものを願うの。こんな結末私は許さない。私は雪に幸せになってほしい。だから早く…手遅れになる前に…!』
茜の言ってることがよくわからない。けど、私の求めるもの…余裕のある暮らし?有り余るお金?誰も逆らえないような絶対的な地位?
…違う、私は…私は…大好きな大切な家族と、友人と…あのときみたいに…
「ふ、つぅに…生きて、い、た…ぃ…!」
『…その願い、聞き入れたよ』
そして私の視界は暗転した。
あぁ、そういうことだったのか。思い出した。全部思い出したよ。本当の両親のことも、親友のことも、私が殺したも同然な姉さんのことも。…自分の本当の名前も。こんなこと、忘れてはいけなかったのにどうして忘れていたんだろう。死んだ覚えがないと思ってたけど、自殺してたんだね、私。
きっと茜が私を思って消してくれたんだ。二度と私があんな思いをしないように、思い出して苦しまないように。そんなの、私の姉さんに対しての償いにならないよ。茜が何者かわからないけど、私を思ってくれているのは痛いほどわかった。だけど…
「それじゃあ、ダメなんだよね…」
ざわざわと私の脚に黒いどろどろとしたものが絡みつく。きっとこれは自分を見失った魂たちが、私を引き込もうとしているんだ。逃げないと…早くこの部屋から出ないと…
けれど私の体は一向に動く気配はしない。逃げなきゃと頭ではわかっていても、心のどこかではこのまま誰にも知られずにここで果てればいいのにと思ってる私がいる。結局のところ、どこにいようが私の存在意義なんてなかったんだ。
…なんだ。
「なぁんだ…はは…」
黒い影が私を覆い尽くそうとどんどん這い上がってくる。いいよ、このまま何もしないでいるから、どうか私をもう一度殺して。そっと目を閉じたときだった。強い光が私の目の前で弾け、周りを蠢いていた黒い影たちを蹴散らした。そして頬に伝う強い衝撃。
「あ…」
呆然と見上げたその光は、ふよふよと旋回した後煙のように霧散した。この感覚、私知ってる。茜が諦めるなって言ってる…
そっか…そうなんだ、茜。ごめん、私もう一度頑張ってみる。今度はもう同じ過ちを犯さないよ、だから…
急速に意識が遠のいて行く感覚がした。待って、私まだ茜に聞きたいことがいっぱいある。待ってよねぇ。まだ閉じないで私の瞼。お願いだから…
「あかね…」
次に目を開けたとき、そこはもう暗闇の中ではなかった。
-----
ここにきて夢主ちゃんの過去というか、今まで忘れていた前世の記憶の理由が判明したわけですが。
ちなみに「雪」というのは変換できないです。夢主ちゃんの前世の名前で、なぜ雪にしたのかというと、中国語読みをすればデフォである「シュエ」になるからです。安直でごめんなさい。
▼ ◎