HQ | ナノ
鉛毒



西谷、本当にごめん
幼馴染から母が東京に帰ってきてる
と連絡がありました
私は母に会いに行ってきます
帰りは何時になるのかわからない
約束を当日になってこんな風に
破ってしまうなんて
許されないと思ってる
でも、出来るなら
私がちゃんと頑張れるように
応援していてほしい

宮城に帰ったら連絡します
本当にごめんなさい


西谷にメッセージを送ったのは、新幹線の中。仙台東京間は一時間半。
あと一時間もしたら、東京だ。

私は宮城に引っ越してから一度も東京を訪れてない。

クロや研磨とも、母とも会ってなかった。

母の携帯の電話は、もうずっとスマホに表示されたまま。
通話ボタンを押せないままに、私は新幹線に飛び乗っていた。

母から毎月入金される生活費にバイト代、生意気にも蓄えはある。
新幹線なんて高校生のくせに生意気だけど、今の私には交通費より時間の方が重要だった。


西谷には申し訳ないこと、しちゃったな。
楽しみにしてるって言ってくれたのに。
私も何より、楽しみにしてたのに。

特別な夜にしてあげるって約束、守れそうにないや。


自分で会いに行くって決めたのに、バカみたいに手が震えてて。
ああ、もう、西谷に会いたいって、抱き締めて激励でもしてもらってくればよかった。とか、情けないことばっかり考えた。


そうこうするうちに、一時間半なんてあっという間だ。


東京駅に着いて、ついに逃げ切れずに母に電話する決心をする。

時刻はもう15時を回っていた。

新幹線乗り場を出て、人混みを掻き分けて歩けば、少しだけ人の少ない場所に出た。

よし、なんて勇んでポケットに手を突っ込めば、

「え、」

私のいつも大人しいスマホは確かに振動してた。

そして、その振動の原因、着信は――。

「おかあ、さん」

私がこんな場所まで会いに来た母、その人だった。

「ナマエ?」

電話口に聞こえた声は、酷く懐かしくて。

「うん。ナマエだよ」

あんなに会うのが怖かったのに、声を聞いてしまえばその人は間違いなく私の大好きで、憧れの、母だった。

「良かった。今ね、久々に日本に帰ってきてるの」

「うん。クロに聞いた」

母の落ち着いた声。
仕事に生きて、家庭を顧みないと言う人もいるだろう。
でも、私もいつか母のような強くて自立したかっこいい女性になりたい。
そう思う気持ちは、幼い頃から何一つ変わってない。

「そう、鉄朗くんが。……今少し、話せるかな?ナマエ」

母の口からクロの名前が出たのが、なんだか嬉しく思えた。
私の友達の名前なんか、ちゃんと覚えててくれてるんだなあって。

そして電話口で、母が唇を湿らす音がした。
それは母が緊張している時にしてしまう癖で、緊張しているのが私だけじゃないんだって思うとなんだかおかしかった。

「うん。実はね、私今、東京にいるんだよ」

慣れなければ迷ってしまうような東京駅の構内。

「えっ嘘っ!?」

電話の相手は一年と八ヶ月ぶりに話す母。

「お母さんに、会いたくて」

私の手の震えは、いつの間にか止まってた。





母は綺麗っていうより可愛らしい感じの人で、もう40歳だなんて言われなければ30代前半にすら見える若々しさを持ってた。

何より、見た目以上に内面からにじみ出る彼女の聡明さと強かさがその印象を引き上げていたんだと思う。

私の自慢の母は、すぐに見つけられた。

新宿駅に着くと指定されたカフェへ向かった。
世界的にも最大級と言えるようなターミナル駅の周りは、いつも人でごった返していたけれど、西口側には都庁やオフィスビルがあって比較的落ち着いた雰囲気のカフェもあって。

母が指定したのはそのうちの一つ。
昔からの行きつけの店。思えば、母との待ち合わせはいつもこの店だった。

記憶の中と変わらない店内に、最後に会った日から何も変わらない母。

その姿を瞳に映した、それだけで。
胸が締め付けられて、泣いてしまいそうになる。

「ナマエ……また身長伸びた?」

それは、母が私に会うたびに訊いてくる質問だった。
平均身長そこそこの母から生まれておいて、私はいつまでも、にょきにょきと育っていったからだ。

実はこの一年でも2センチくらいは伸びた。
きっと父の長身を受け継いでいるのだと思う。私は昔から父にそっくりだと言われていたから。

「うん、少しね。お母さんは変わらない」

そう言って話すと、自分でも驚くほど自然に笑えた。

「ふふ……まあ、伊達に高い美容液使ってないわよ」

そしてそれは私だけではなく、母も同様のようで。

「そっか。そりゃー凄いや」

私達は馴染みの店で、まるであの頃のように笑い合う。

そうして母の懐かしい声を聞きながら、今日ここへ来れてよかった、と心から思った。





母はいつもダージリンを飲む。砂糖とミルクをたっぷり入れるので、そんなに入れたら紅茶の香りなんて分かるのかなって疑問に思うけれど、母はダージリンしか飲まない。

私は適当にカフェオレを頼んだ。

母は相変わらず忙しいらしく、今日も私と会った後夜は別の予定があるらしい。
まあ、折角日本に帰ってきたのだ。
会いたい人、会わなければならない人もいるのだろう。

私は学校でのことを話した。いつも一緒にいた幼馴染と離れて、学校で元気にやれているのか心配を掛けていたらしい。母はもちろん、私の母なのだ。
だから潔子という美しく心の清らかな、それこそお嫁さんにしたいくらい大好きな親友が出来たことを話すと、母は自分のことのように喜んでくれた。母も昔からあまり同性に好かれるタイプではなかったから、心から信頼できる友人が出来るなんて羨ましい、と。

それから、私にはもう一つ話したいことがあった。少し迷ったけれど、きっと母なら、今の私達ならばそんな話も出来るんじゃないか。

そう、思った。

「あのね……お母さん」

「うん?」

突然かしこまった私に、母は首を傾げた。

「私、好きな人が出来た」

そう言った瞬間の母の顔を、私は見てなかった。
自分から話そうって思ったのに、やっぱりこんな話をするのは恥ずかしくて。目を逸らした。

「10月から付き合ってるんだけどね」

私はコーヒーカップの取っ手を指でなぞりながら、

「一つ下の後輩でね、西谷っていうの。これが驚異的なお馬鹿さんで、もうテストとか意味分かんない点数取るんだけどさ、でも部活でバレーボールやってて……」

人生で初めての恋を母に報告する気恥ずかしさと、それを上回る喜びで何も見えなくなってたんだ。

だから、気付けなかった。
母の瞳に先程まで確かに映っていた慈愛の色が、消え失せてたってことに。

「ナマエ」

その声はとても静かで、私はそれが制止の声だと気付くのに、一拍遅れてしまった。

「西谷は」
「男なんか、ろくなものじゃないわよ」

遮るように発せられたその声に、驚いて顔を上げれば、

「……え、」

私を見据える母は、酷く冷たい目をしてた。

「ナマエ、あなたには再三言っておいたはずよ。自分の為になることをしなさいって」

突然豹変したように声色を変えた母に、驚いて固まる。と、

「あ……いや、で」
「でもじゃない。だからこそ余計な心配をしなくていい母さんの家に引越しをさせたんたんだし、烏野は田舎の高校だけど、心静かにいられる環境なら、あなたなら独学でも十分に勉学には励めるはず。そう思ったから転校させたの。あなたに恋だの彼氏だのくだらないことをさせる為にわざわざ引っ越しさせたんじゃないわよ」

母は非難を少しも包み隠さずに私を非難する。

「……そんな、」
「そんなって何?」

唇をわなわなと震わせて母を見つめ返す私に、母は口答えなど許さないって口調だった。

でも、私にだって言いたいことはある。

「お母さん、私に好きな人が出来たの、喜んでくれないの?」

母にいつか話そうと思えたことが、私にとっては心の成長だったと思う。
自分の心を大切な誰かに明かそうと思えることが。
誰かを大切だと思える心こそが。

でも、

「……喜ぶ?冗談じゃないわよ。なんであんなに無駄なことに時間を使わないで若いうちから自分を磨きなさいって言っておいたのに」

母にとってはそんなこと、成長などではないのだろう。

母は眉間に深い皺を作ったまま私に説教をした。
幼い頃から数えても、母が私にお説教なんてものをしたのは殆ど無かったと思う。

だからこそ彼女にとって、この説教が譲れない考えを元にしたものなのだということはよくわかった。

「……自分は、恋愛して結婚したのに?」

両親は恋愛結婚だ。それも学生時代からの長い交際の果ての。

小さい頃はよく、若い頃の父は飛ぶ鳥を落とす勢いでカッコよかった。と母は惚気てくれた。悲しくも過去の話だけど。

「それを後悔してるから、あなたにはそうならないように」
「後悔……?」

母の言葉の全てに、私は今なら噛み付ける気がした。

剣呑な雰囲気を隠しもしない私達に、周囲に座っていた客までも無粋な目を向けてくる。
けど、他人の目なんか今の私には少しの自制心にも繋がらない。

「そう。あなたもわかってるでしょう。長い時間を無駄にしたわ。あの男は、私をずっと裏切ってたんだから」

「なにそれ」

ため息まじりに話す母を、私は図らずも睨みつける。

「……ナマエ?」

母を睨んだことなど、この歳まで一度も無かったことだ。
だから流石の母も戸惑ってるように見えた。

「父さんを好きになって、結婚して、子どもを産んで、そうやって生きてきたことを、母さんは後悔してるの?」

「そ、れは……」

私の言葉に、母が動揺して言い淀む。
彼女がそんな風に戸惑っているのを見たのは、たったの三度目だ。

「無駄だったって思うの?」

一度目は私が母にもっと会いたいと泣いた幼い日。
二度目は父と別れる口論をしていた時だ。

そして三度目も、きっかけは私だ。

母はいつも深い森の奥の湖のように大きく偉大な人なのに。

「…………してるわ」

長い沈黙の後に、母はさっき言い淀んだとは思えないほど、はっきりと答えた。

「……っ」

きっと私は、期待してたんだろう。
母が確かに父を愛したことも、その後に私を産んだことも、苦い思い出にはなったけれど、後悔はしていないと思ってた。思いたかった。

けれど、私は母の人生にとって、静かな湖畔に石を投げ込むような存在だった。

「男なんてね、所詮目の前の欲のことしか考えてないのよ。あなたはまだ若いからよくわかっていないかもしれないけど、恋なんかより」

そうして私を嗜めようとする母に、私は人生で初めて、はっきりと逆らったと思う。

「西谷は父さんとは違う」

二人が似ていてくれたなら、私は母に逆らおうなんて気にはならなかったと思う。

「私もお母さんとは違う」

母のようになりたかった。
強く聡明で、小さい頃からずっと尊敬してきた。

それでも母の言う事を全て鵜呑みになんて出来るほど、もう幼くない。

「ねえ、家を売るって、クロに言ったの?……どうして?」

突然矛先を変えた私の質問に、母は少し考える顔をした。

「それは……」

きっと、私に理由を話すべきなのかって悩んだのだろう。

今更そんな風に、私に言うべきことと言わざるべきを考えようとする母に、

「あの家には、母さんが無駄だって言った日々が詰まってる!」

ただひたすらに腹が立った。

「……っ!」

その薄い肩がビクリと震える。
母はいつの間に、こんなに小さくなっていたのだろう。

なんて、考えた。私の方が背が高くなったのはもう大分前なのに、なぜかこんな時に。

「父さんとの幸せだった時間が!今はもう取り戻せない家族の日々が!あそこにはあるのに!!それを」

静かなカフェで、声を張り上げた私はどうしようもなく浮いていた。
奥の喫煙席まで声が響いているのだろう。見知らぬ視線に睨みつけられる。

けど私には、依然そんなことを気にする余裕なんかない。

そして、そんな私とは対照的に、

「だからよ」

母は眉ひとつ動かさず、何処までも冷静な声で答えた。

「もうあんな日々を思い出すなんて懲りごり。今の私には」
「そんなの逃げてるだけじゃない!嫌なこと見ないようにして!そうやってっ」

そうやって煽るように言った私に、いつも冷静な母の仮面も、

「私の幸せな日々をぶち壊したあなたが!そんなことを言えると思ってるの?!」

剥がれ落ちた。

「……っ!」

今度は私の肩が、ばかみたいに大袈裟に震えることになる。

「ナマエ!あなたにだけは言われたくないわ!その生意気な口がどんな結果を招いたのか!忘れたわけじゃないでしょう?!」

母は最後に会ったあの日の記憶の中と同じ顔をしてた。

「……っ」

そしてその顔は、これだけの期間声も聞かずに過ごして尚、母は私を少しも許していないのだと。知るには十分過ぎるほどの憎悪が滲んでいた。

「…………だからなの」

長い沈黙の後、唇から漏れたのは、吐息に近いくらい小さな声だった。

「え?」

聞き取れなかった母は、先程までの熱を確実に冷まして。
それでもまだ拳を握りしめたままで、表情に疑問符を浮かべていた。

私は、声を振り絞って問う。

「私を宮城に引っ越させたのは、もう、私の顔も見たくなかったからなの?」

ずっと、怖くて訊けなかった事。

でも呪いみたいに、いついかなる時も私の頭からは消えてくれなかった。
知りたくて知りたくない、母の本心。

「…………そうね」

母がそう答えた瞬間、胸が引き裂かれるかと思った。

「少なくとも私達には、時間が必要だと思ったわ。それは本当」

そして、自分の手足にまるで感覚がないことにも気付いた。

多分、心に身体が呼応してる。
これ以上何も感じたくない。心の声に、身体が応えた。

「……そう。わかった」

静かに答える頃には、不思議なくらい、胸に走った痛みはもう無くて。

辛いはずなのに、涙も流れやしなかった。

「でもナマエっ私は!」

無表情の私に、ハッとした母が何事かを言おうとする。けど、

「電話、鳴ってるよ」

母の鞄からは、先程からけたたましくバイブレーションが主張していた。

私達が怒鳴りあっていたから気付かなかっただけで、或いは大分前から鳴っていたのかもしれない。

「あ……」

指摘すれば母は、バツが悪そうに眉を顰めた。

「この後も予定あるんでしょ?大丈夫。私もすぐ宮城に帰るから」

そう言って私は、席を立つ。
もうここには用はない。もう、母の本心は聞けたのだから。そう思った。

「……ナマエっ」

私を見上げる母は、唇を噛み締めていた。

とてもプライドの高い人だ。
そんな顔、父と別れた時にも見たことが無かった。

だから少しは驚いたけど、

「バイバイ、お母さん」

私の声は、冷静を通り越して無機質にさえ響いた。


心に鉛が埋まってる。
鉛毒は酸素の働きを阻害するらしい。

息がやけに苦しかった。



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