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西谷夕の傾慕



初めて見たあなたの泣き顔に、俺はもう自分の全部捧げたっていいって思った。

いつも気丈で飄々としてて、他人なんかに乱されないあなたが俺の名前を呼んで泣いてるのを見たとき、俺は目の前の変態を殺してやりたいって思った。

でも、意識を飛ばしてる男にまだ殴り掛かろうとする俺をナマエさんは全力で止めた。

「私はもう!大丈夫だからっ!!」

そうやって叫ぶあなたの手がどれだけ震えていたのか、わからないんですか。

浴衣みたいなデザインのバイト先の服は少し着乱れていて。
ナマエさんは流れ落ちてく涙も拭かずに自身の肩を抱き締めながら、

「西谷が来てくれたら、私はもう大丈夫」

俺に笑いかける。

膝なんか見てられないくらいガクガクいってて、とてもじゃねぇけど大事はなかったなんて口に出来るような状態じゃなかった。

なのに、大丈夫、なんて強がりを口にする。から、俺はナマエさんを抱き締めたいって思った。嘘つくなって言いたかった。
怖かったって泣けよって、怒ってやりたかった。

「俺、ひと、呼んできます」

でも必死に自分を抑えて、拳を握り締めた。

ナマエさんは今、気持ち悪い男の欲によって怖い目にあって震えてるんだ。

それを、あなたに下心を抱いてる俺なんかが抱き締められるわけがねぇ。

そんなの、余計に怯えさせるだけだ。
そんなことしても、きっと拒絶されるだけだ。

こんな泣きながら震えてるナマエさんの傍を離れることに不安がなかったかって言ったら、嘘になる。

でも、もしかしたら見ていたくなかったのかもしれねぇ。
抱き締める権利も無いくせに、恐怖にひとりで耐えるナマエさんを見てるのは、胸が焼ける思いがしたから。

「お願い」

そう短く頼んでくる言葉を言い訳にして、もしかしたら、俺は見たく無い光景から逃げたのかもしれねぇ。

それから、人を呼ばなきゃと思ったら俺たちの声が聞こえたらしい他のバイトの人が向かってきてて。事情の説明もそこそこにとりあえず付いてきてもらうと、ひとり残ったナマエさんの涙は止まってた。

俺は驚いて声も出なかった。

あんなに震えてた手足もいつも通りだった。
でも、ナマエさんの掌はぎゅっと強く握りめられたまま白く色を変えていたから。

ああ、この人はこうやって、きっと今までに何度も何度もいろんなことを押し殺して笑ってきたんだなって、思った。


ひとりにするのが怖いって言ったのに、ナマエさんは帰れって言って聞かなかった。

「私のせいで西谷が補導されちゃったら、嫌だよ」

なんて悲しそうな顔をされたら、俺が帰らざるおえないのをナマエさんはわかってんだ。

いつもそうだ。
ナマエさんは相手がどうすれば自分の思うように動くのかをよく分かってる。

そうやって自分の心は誰にも触らせないように守りながら、他人を欺いて平気な顔してるんだ。

腹が立った。

あなたからしたら、俺は確かに頼りねぇのかもしれねぇ。
背だってナマエさんのほうが高いし、年下だし、いつも手のひらで転がされてるんだろうなって感じはしてる。

でも、あなたがひとりになりたがるのを俺は放ってはおかない。

他の誰が許しても、俺だけはあなたが本当はひとりぼっちをとても怖がってる寂しがりだってことを、絶対に忘れてやらない。

そう覚悟を決めて、ナマエさんのバイト先から程近い道でナマエさんが通るのを待ってた。

多分、一時間くらいは待った。
ナマエさんは店長って言ってた落ち着いた男の人と歩いてて、俺はいらなかったのか?なんて一瞬考えたけど、送るって言ったら、

「送ってください」

ちょっと照れて、でも素直に息を吐くあなたが悔しくなるくらい可愛かった。

もしかしたら、俺がもっと早くトイレに行けてたらナマエさんをもっと早く怖い思いから解放してやれたのか。
俺がナマエさんを好きになんかなってなきゃ、ただの後輩としてあそこで抱き締めてやれたのか。
もし俺が抱き締められてたら、ナマエさんはまたひとりで自分に嘘をつく努力なんかしなくて済んだのか。

済んだことを考えても仕方ねぇって思うのに、今隣で笑ってるナマエさんはもう無理してねぇのかな。
なんて、考えても意味の無いことを考えちまうんだよ。

或いは、俺の前でくらい恐怖を忘れられてるって思いたかったのかもしれねぇ。

不安を抱え込んでるのか、それとも本当に楽しくて笑ってるのか。
そんなこと考えながら一緒に歩いてるうちに、ナマエさんが俺の誕生日プレゼントとしてなんでも一つ願いを叶えてあげる、と言った。

見れば、その眼は真剣そのもので、いつもみたいにからかって言ってるんじゃねぇってのは歴然だった。

正直に言ったら、俺にはそりゃあ下心があった。

好きな女にそんなこと言われて、なんの煩悩も浮かばない男なんかいないだろ。

俺にもそりゃあ、少しは浮かんだ。

例えば、潔子さんにするみたいに抱き着いて頬擦りとかされてみたい。とか。

多分、ノリが良くて人の心を乱すことが大好きなナマエさんのことだから、俺が頼んだら二つ返事でOKしてくれるんだろうなって思った。

けど、

「なんなら彼女にだってなってあげられるよ」

ナマエさんの口から出た言葉の意味が一瞬わからなかった。
驚く俺に、ナマエさんはまだ何か言ってた。私が彼女ならーなんてなんでもないみたいな顔して。いつも人のことオモチャみたいにからかって遊んでる時みたいな顔で。

だから、これはもしかしたらとんでもないチャンスなのかもしれない。
そう思いながらも、断った。

ナマエさんの側になんの気持ちもないまま付き合ったって、今の構ってもらえる後輩って立ち位置と何が違うんだよ。
そう思ったら、目の前のチャンスを俺は棒に振ってた。

そしたら、ナマエさんは流石にちょっと傷付いたみたいな顔で笑って、その瞳がちょっと潤んだように見えて、俺は謝った。

動揺した。
もしかしたら、案外本気で彼女になるなんて言ってくれてんじゃないか、なんて薄っすら期待しちまったところに、

「潔子と西谷のこと応援してあげることくらいは出来るよ」

そんなの幻想だって思い知らされる。

あなたって人はどれだけ残酷なんだよ。
俺がナマエさんを好きだって可能性なんか、きっと頭の片隅にも浮かんでない。

仲はいいけど、所詮はからかうと楽しい後輩の一人。
きっと俺が今まで、死ぬほどドキドキしたり飛び跳ねるほど嬉しかったりした、一緒に過ごしてきた時間だって、あなたにとっちゃなんでもないことだったんだろう。

そんなプレゼントなんかいらねぇって突っ撥ねれば、一瞬ナマエさんが泣いてるような気がした。

けど、期待なんて馬鹿らしい。
そんなの、俺がそうだったらいいのにって思っちまう幻想に違いなかった。

あなたみたいな強い人が、俺に提案を断られたくらいで泣くはずがなかったから。

途中からずっと繋いでたナマエさんの手は、酷く冷たかった。
俺の熱なんか、まるで伝わらないみたいに。

それから俺は、

「バイト辞めてください」

胸に溜まってく苛立ちを吐き出すようにそう言った。

戸惑うナマエさんは、意味がわからないって顔のまま間抜けな声を漏らす。

そんな、自分を見てる視線の意味にも気付かない鈍感さに耐えきれなくなって。

「俺に守らせてください」

願望を口にする。
そうしたいってずっと思い続けてきたこと。そうしてほしいってナマエさんに望んで欲しいこと。

俺があなたを護る。
どんな暴漢からでも、その身に巣食う孤独からでも、あなたが自分を大切にしてくれない分、俺が誰より大事にしてやりたい。

そう思ってんだよ、俺は。もうずっと前から。あなたが俺に初めて笑いかけたその日から。

なのに、

「大丈夫」

長い沈黙の後に返ってきたのは、そんな言葉だった。

ああ、たとえこんなに想っていてもあなたにとったら俺の気持ちなんか、取るに足らない無数に寄せられる好意の一つに過ぎないのか。

護りたいなんて、迷惑なのか。

そう思って唇を噛めば、

「西谷の言ってることがよくわかんない」

目を逸らされた。

なんだよそれ。
こんなに説明してもわからねぇなんて、そんなもんわかりたくないってことなんじゃないのか。
俺の気持ちに気付いたら、今まで散々弄んできた都合のいい可愛い後輩と一緒にいれなくなるから。

心配する理由?
護りたいって思うワケ?

そんなもん、ひとつだろ。
鈍感もいいかげんにしろよ。

耐えきれなくなった俺が手を引けば、びっくりするくらい簡単に、その細い身体は俺の胸の中に飛び込んできて。


ずっと、抱き締めたいのを我慢してきたのに。
散々焦がれたのに思っていた何倍も簡単なその行為に、俺の心臓はドドドって壊れたみたいに鳴ってた。

でも、ナマエさんといる時なんかしゅっちゅうだよ、こんなの。
今更な心臓の音に、ビックリしたままナマエさんは固まってて。

「俺はナマエさんが傷つくようなことがあったら、耐えられない」

好きだって言う代わりに、護りたい理由を話した。

のに、

「そう……なんだ」

現実ってのは残酷だ。

ナマエさんにとっちゃ俺の心臓がこんなにあなたを好きだって鳴ることも、好きだから護りたいってことも、そうなんだで済むことなのか。

そう気付いたら、ナマエさんの見た目以上に頼りない薄い肩を強く抱きしめてた。

ああ、くそ。
こんな時でさえ、抱き締めたあなたの柔らかさやその髪が纏う甘い匂いに胸がいっぱいになる自分がいる。

「たまにはナマエさんにだって、俺のことを考えて悩む夜があったっていいと思います」

少しは、俺にもあなたの心を乱せたらいいのに。
そう祈りながら、名残惜しく絡めた指を解いて。

俺は家までの距離を走ったけど、ナマエさんはそこから一歩も動かないまま俺を見てた。


もし俺の気持ちに気付いたナマエさんに拒否される日が来るなら、俺はどうやってあなたを護ろうか。

考えながら見上げた月は、いつもより少し大きかった。




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