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ハッピーエンドはまだ早い




母と一緒に住めることが嬉しくないわけがない。
またクロや研磨と学校に通えるのなら、あの守れなかった約束を果たすことも出来るだろう。

でも、潔子みたいに仲良くなれる女の子なんかそうそういるものじゃなくって。

嫌なことがあっても太陽みたいな笑顔で忘れさせてくれる西谷は、東京にはいない。

母と一緒に暮らせば、西谷と離れなくてはならなくて。西谷と一緒に居たい気持ちを優先すれば、母の折角の覚悟を無駄にしてしまう。

運命はいつも大きな濁流で、その流れに逆らうこともできずに翻弄されて生きてきた私にとって、選択肢があるってだけでももしかしたら凄いことなのかもしれない。

だからって、大切な人達との絆を天秤にかけるなんて。

俯いた私の頬を、次々涙が流れ落ちてゆく。

「…………ナマエさん」

空いてる手でその涙を拭いながら、西谷が苦しげに私の名を呟くから、

「わ、わかってる。これは私の望みで、喚きたいのは西谷の方だよねっごめっ」

ああ、もう。自分の所為のくせに。

彼にこれ以上の迷惑をかけまいと力なく笑う。と、

「ナマエっ」

耐えかねたように呼んだ西谷が、繋いでいた手を思い切り引いて、

「っ!ゆ、う……っ」

衝突と言っても差し支えないほどの勢いで彼の胸に飛び込む。

「自分でかーちゃんと一緒に住みたいって、泣いて喜んでたんじゃないスか。なのに、そんな風に泣くなんて反則だろ」

ぎゅっと強く抱き締められた腕の中。

糾弾されているのに、呆れたような困ったような、はたまた怒ったような声で言う西谷。

「だ……だってっ」

責められているのについ反論しようとしてしまう私は、どれだけ気が強いのだろう。

「ほーんと、俺のナマエさんは我儘な女だぜ」

そんな私を笑いながら許してくれる西谷は、

「……っ!ご、ごめっ」
「でも、そういうとこも愛してます」

少しも言い淀むことなく、なんでもないことみたいに愛を吐く。

「西谷……っ」

いつか告白してくれた彼が、私のいいところも悪いところも愛してやると言ってくれたことを思い出す。
西谷はその言葉通りに、欲張りで我儘なところすらも愛してくれている。

その事実が、私を強く、同じだけ脆くしているのだろう。


「大丈夫です、ナマエさん。距離なんか離れた程度で消えちまうような想いなら、それだけだろ」

私をぎゅっと抱き締めたままになんでもないことのように言う西谷。

「え……」

まさかそんなことを言われるとは思わずに、喉の奥がキュッと締まる。
正直、彼の言葉は大丈夫なんて一言が霞むくらいの衝撃的な言葉だったわけだけど、

「でも俺は、ずっとナマエさんが好きですよ」

「……っ」

次に締め付けられることになるのは心臓のあたりで。

きっと、300キロ先でだって、この想いは育ち続けるんだろうなって思った。

「だから、たとえあなたが忘れたって、いつか俺が攫いに行きます」

「っ!」

私を攫って駆け落ちしてやるって言ってくれたのが、母を挑発する為の口先だけの出まかせじゃないことくらいわかってる。

西谷は男も惚れるくらいの男前だ。
どんなことでも有言実行するし、守れない約束を口にすることはない。

「その頃には、俺は責任も取れる歳になってるはずなんで。あなたを攫った責任を取りますから、覚悟しといてください」

そう言って微かに笑う声がする。
西谷が本気だってことは疑いようもない。

耳元で将来の約束を囁かれるのなんか、初めてじゃなかったけど。

それでも、
いくらなんでもかっこよすぎやしないだろうか。

「〜〜っ西谷ぁっ」

こんな場面なのに、彼の魅力にまた一つ突き落とされる気がして、恐怖に似た感情すら湧くから。
その背中にしがみつくように、抱き締めた腕に力を込める。

「ばかっなんでそんなかっこいいことばっか言えんのっ成績悪いくせにっどーなってんのよぉ……っどーせ攫うって漢字書けないくせに!」

西谷夕って男は、知れば知るほどカッコよくて。

愛しさ余って憎さは湧いてこないものの、いっそムカつく、くらいのことは考えてしまう。

「なっ!せ、成績は関係ないじゃないすか!こんな時まで……くっそーっナマエさんめっ」

ムッとして耳元で喚く西谷が、悔しげに喉を鳴らす。

西谷がどうしようもなく男前なように、私って女はどうしようもなく素直じゃないのだ。


例えば悪役に攫われたとして、大人しくヒーローが助けに来てくれるのを待ってるような、可愛いヒロインに今更なれるわけもない。

嬉しい。待ってるね!なんて感激して西谷が責任取れる歳になるのを待つなんて、私のキャラじゃないのだ。


「忘れるわけないじゃない……っふざけんな……っ!」

顔を上げて西谷の額に自身の額を押し当てれば、涙でぐしゃぐしゃの顔を彼の眼前に晒すことになる。

「っ!」

けど、西谷が動揺してるのは私の不細工な泣き顔に驚いたわけじゃなくて。

「毎日LINEするし、電話も、たくさんするのっ」

「……はい」

自分ばっかり想ってるみたいに言わないでって、離れてたって、手を繋ぐことは叶わなくたって。心臓をあげるって言ったことを忘れないでよって、私の憤りを知ったからだろう。

「潔子の尻ばっか追っかけてたら許さないからっちゃんとバレーも頑張ってよ……?」

「な!当然じゃないスか!言われなくてもっ」

ムッと頬を膨らませる西谷は、ランドセルを背負わせたら小学生で通用するなあ。なんて失礼なことを思う。

けれど、この小学生みたいな男が誰よりも輝く瞬間を、私は知っていて。

バレーをしてる西谷を初めて見た時に、私は自分の恋心を自覚したんだっけ。と、懐かしく思った。

「東京体育館で待ってるからね?」

遠い日の約束を口にした私に、

「……っ!はい!待っててください!必ず全国へ出場してみせます!!」

目の前で綺麗な色の瞳が見開かれて、それでも淀みなく宣言される。

きっと、あんなでっかいキラキラの体育館で西谷のレシーブを見たら、私はまたバカみたいに深みへ嵌っていってしまうんだろう。

「でもちょっとは勉強もして」

「ぐぬぅ……そ、れはっ」

こんなことを言いつつ、西谷のちょっとかなりおバカなところすら、嫌いじゃないのだから。

私も図らずも、彼のいいところも悪いところも愛してしまっていた。


「夕」

静かに呼んだ彼の名前に、

「は、はい!」

大袈裟なほど揺れる背が、愛しい。

「ありがとう。大好き」

その気持ちのままに呟いたお礼と愛の告白に、

「……っ、……ん、俺もナマエが好きだぜ」

一瞬息を詰めて、西谷も静かに呟いた。

「遠距離乗り越えたらさ?本物だなーって思わない?」

想いが本物かどうかなんて、証明する方法なんかあるんだろうか。
むしろ証明する必要なんかあるんだろうか。

「……そっスね。本物っスね」

そうは思うけど、これは愛の試練で、二人の想いが試されているとして。
その聳え立つ壁に臆するより、信じて挑んだ方がよっぽど建設的だ。

そんな似合わないポジティブシンキングは、もしかしたら西谷の前のめりな姿勢が移ったのかもしれない。

「頑張ろ」

「はい。頑張りましょ」

額を重ねたまま、そっと誓い合った私達は、うっかり世界で二人きりの気分になってしまっていたわけだけれど。

「あ、あのー……」

「「……!」」

気まずそうに咳払いしてから口を開いた母の声にハッとして、どちらともなく額を離した。

「盛り上がってるとこ悪いんだけどね?ナマエ、西谷くん……」

「「……?」」

そう前置きした母に首を傾げながら、私は振り返り、西谷もまた瞳を瞬く。

と、次の瞬間。

「私、今受け持ってるプロジェクトがあと一年くらいは手が離せなくて……」

バツの悪そうな顔をした母が、頬を掻きながら舌を出す。
てへなんてふざけた台詞でも聞こえそうな彼女の仕草に、

「?」
「へ?」

西谷はまるで理解が追いついてない様子だったけれど、私は素っ頓狂な声を上げる。

でも、

「ナマエが大学進学するのと同時に一緒に住もうと思うんだけど」

そこまで言われれば彼にも話しの流れは読めたようで。

「……っ!」

もともと大きな瞳がより一層見開かれる様がスローモーションのようだった。

「えーっと、だから、西谷くん。それまで、ナマエのことをよろしくお願いします」

参ったなーなんて声が聞こえてきそうな困り果てた表情を少しだけ引き締めて微笑んだ母に、

「は、はい……!」

西谷はピンと伸びた背筋を更に正して返事をする。

「ふふ、攫いに行くのは、むしろ私の方かしらね?」

その素晴らしいお返事がお気に召したらしい母がご機嫌な声でそんなことを言うのは、1年後、仕事が落ち着いたら私と一緒に住むつもりでいるからなのだろう。

今度こそ、あの家で家族としてやり直す為に。

「な……っ!それならっ、俺は攫い返しにっ!」

にやりと悪戯に微笑んだ母に、まるで恋敵が何かを前にしているみたいに息巻く西谷は、まるで私を稀代のお宝か何かのように言うけれど。

わかってるんだろうか。

「西谷ぁ」

母の言葉の意味がわかってから、あまりの驚きに上手く声にならなかった。

だから、ようやく読んだ彼の名はあまりにも間の抜けなことにひっくり返ってしまった。

けれど、

「は、はい。どうしました?ナマエさ」
「よかったよぉーっ」

そう言って飛びついたのは、照れ隠しとかじゃなくて。

ただひたすらに、西谷と離れずに済んだことが嬉しくて堪らなかったからだ。

「!」

西谷が抱き着かれて驚いてる間にも、私は彼の肩口に額を擦り付ける。


「私まだ西谷と離れたくないもんっもーすぐバレンタインなのに!西谷にチョコ郵送するとかやだよーっ」

さっきまで張り詰めていた心が解き放たれたから、西谷を抱き締める腕が震えてしまって。

なんだか笑えた。

「そ、れは……っナマエさんから貰えるってだけでめちゃくちゃ贅沢っスけど、俺だって、どうせならっ」

きっと、遠距離には遠距離なりの楽しさとかもあると思う。
でも、ずっと前から西谷に渡すために練習を重ねているバレンタイン用のチョコケーキを、宅配業者の手に預けるなんて絶対に嫌だ(もちろん宅配業者が悪いわけじゃないけど)。

どうせなら、目の前で包装を開封して煌めくその瞳を見たいし、食べて美味しいって言って欲しい。

「他の女から貰ったチョコなんか全部食ってやろうって思ってたのに、それも叶わないのかと思ったーっ!」

西谷がモテないのなんか知ってる。
大体、田中とつるんでる時点でモテるわけない(失礼)。

それでも西谷は明るくて友達が多いし、その男前っぷりは男子を惚れさせまくっているわけだけど、いつ私のように西谷の魅力に気がつく女子が現れるとも限らないではないか。

遠距離になったらその隙を狙った女子が義理と見せかけて本命とかを渡してくることだって有り得る。
女は可愛い顔して狡猾な生き物なのだ。

私も女だから、よくわかる。

近くにいたらそんな女の魔手から西谷を遠ざけることも出来るけれど、遠距離ってなったらそうはいかない。
そんな私の小賢しい乙女心を西谷から隠すように、

「お、俺はっ!ナマエさん以外からのチョコなんか!」
「あ、貰えないか」

小馬鹿にした声でニヤリと笑う。と、

「なっ!?」

簡単に煽られてムッとするから。

「でも大丈夫だよー!私がどでかいケーキあげるからねー!」

あーもー、ほんと小学生みたい!なんて可愛くて仕方がなくて、抱き締めたまま西谷のワックスでべちゃべちゃな髪をわしゃわしゃする。

「〜〜っ!ナマエさん!」

そんなぞんざいな扱いに西谷も声を上げるけれど、彼が満更でもないことくらいお見通しだ。

「やったねー!西谷ーっ!」

私が笑えば、彼も笑う。

「……はいっ!よかったです!ナマエさん!!」


大学進学まであと一年とちょっと。
西谷にへばりついていられる期間には、確かに制限がついてしまったわけだけれど。

人生80年って考えたら、ハッピーエンドにはまだ早いから。

人はすぐに手にした幸せを見失える愚かな生き物だから、君とあと一巡りの季節をこんな空気の澄んだ場所で過ごせることを、大切にするためにはちょうどいいのかもしれない。

なんて、西谷の前のめりを見習って、思う事にしようかな。




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