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運命のいたずら
吐く息は白く、凍りつくように寒いのに。 それでも体の内側が綻ぶような歓びで満たされて、胸がとても熱かった。
クリスマスの夜には、母とこんな風に笑い合う日が来ることなんか夢でしかなかったのに。
西谷と付き合えた日も、こんな風にふわふわした気分だったな、なんて。 たった数ヶ月前のことを遥か昔のことのように、けれど当時のときめきは昨日のことのように、思い出してしまった。
「え?じゃあ……売ってないってこと?」
「……うん」
母の言葉に目を見張れば困ったように眉を寄せた彼女は、どこか悔しそうではある。
でも、
「あの家には、貴方の言った通りたくさんの思い出が詰まってて。私には……取り戻せない幸福な日々を一人で見つめる勇気がなかった。だから、見て辛くなるくらいなら売ってしまおうって思ったの」
細められた瞳の中に映るのが苦いだけの感情とは思えないのは、私の勘違いではないと思う。
「だけどクリスマスの日、ナマエに言われたでしょう?逃げてるだけだって」
「うん」
クリスマスの日、母に罵倒といって差し支えないほどに責められたことを私は忘れていない。
忘れられるわけもない。
まだ、一ヶ月半しか経っていないのだ。 精々深く抉られた傷がカサブタになった程度だ。
けれど、なにも傷を負ったのは私だけではないのだということを、知っていた。
私が一方的に踵を返して背を向けてしまった背後で、母がどんなに苦しんでいたのか。
想像しただけで、胸が張り裂けてしまいそうだ。
「確かに、その通りで。娘に図星を突かれて逆上するなんて、本当に弱くて情けない親だけれど。恋をして、強くしなやかになってゆく貴方を見て思ったわ。私も、強くなりたいって」
そう言って照れ笑いを浮かべた母は、とても40歳になんか見えない。 可憐な少女のようですらあった。
「……!」
あんな風に反抗したことなんか初めてだった。
父との離婚を告げられた時も、突然宮城へ引っ越すように言われた時も、離婚は私の所為だと罵られた時も、悲しくはあっても怒りなんか湧いてこなかった。
なのに、西谷との交際を反対された途端に、簡単にキレてしまうのだから、私ってやつはとんだ恋愛脳になってしまったものだ。
でも、まさかそんな変化が母に何かを齎すだなんて思ってもみなかった。 驚いて眉を上げたままポカンとしてしまう。
と、
「今日、ナマエが会いに来てくれるなんて思っていなかった。あんなに酷い言葉を浴びせかけたんだもの、もう二度と会ってもらえなくても当然だって思ってたわ」
母が風で乱れた私の髪に手を伸ばし、
「そんな!」 「だから、私から会いに行こうと思ってたの」
そっと耳にかけてくれる。
その指は微かに震えていた。
「……え、」
思わぬ一言に間抜けな声が漏れる。
だって、
「貴方に嫌だと言われてしまえば……それまでなのだけど、もしも私にもう一度チャンスをくれるのなら」
あんな別れ方をした母とこうして微笑み合えたそれだけでも、私にとったら奇跡みたいなものなのに。
「もう一度、あなたとあの家で住みたい」
まさかこんな言葉を掛けられる日が来るとは、
「……!」
驚きと感動で言葉も出なかった。
「一度は全てを捨てようとしたくせに、ムシのいいことを言っているってことくらいわかってるわ。あなたになんの得もない話だってことも。それでも、私を母と呼んでくれるのなら……もう一度私にチャンスをください」
「っ!」
母は自分にも他人にも厳しく、プライドの高い人だった。 だからこそ仕事で成功してきたし、だからこそ父と別離することになった。
その母が私の手を両手で包みながらまるで祈るように言いながら、
「きちんと、私が母になれるように!すぐには、うまく甘えさせてあげられないかもしれないっけど、あなたとちゃんと家族になりたいの……!」
感極まって言葉に詰まっても想いを伝えようとしてくれる。
「お母さん……っ」
そんな姿に胸打たれない娘なんか、いないだろう。
「あの家を悲しかったことなんか忘れてしまうくらいに、楽しい思い出で埋め尽くしたい。あなたと、ふたりで……っ」
流れ落ちる涙に心打たれない人間なんか、いないだろう。
「そん、なのっ答えなんか、決まってるっ」
母の涙に、気が付けば私まで泣き出してしまっていて、
「私だって、もう一度お母さんと一緒に住みたいっちゃんと家族として、同じ家に帰りたいよぉっ!!」
その胸に勢いよく飛び込めば、華奢な両腕がしっかりと私を抱きしめ返してくれた。
「ええ……ナマエっありがとうっ!ありがとうねっ!お母さんっ、今度こそ頑張るからっだからっ!」
「……うんっ!私も……もうこれからは聞き分けいいふりなんかしないよ?私、実はすっごい我儘なんだからっ!」
泣きながら互いのコートに顔を埋めて抱きしめ合う私達は、もう十何年と親子をしてきた筈なのに。
今やっと、親子としてスタートすることが出来たのかもしれない。
*
母との和解を果たし大きな一歩を踏み出した私を、その人はただ一人塀に凭れるわけでもなく、ただ待っていてくれた。
「おめでとうございます、ナマエさん」
「西谷……!?」
墓石の並び立つ墓地で、背の低い彼は不意に現れたように錯覚する。 それくらい、私は浮き足立っていて。
大きな前提をすっかり失念してしまっていた。
「よかった、ちゃんと全部話せたみたいで。頑張ったんスね!」
「……うん、ありがとお。何もかも、西谷のお陰だよぉっ」
母と抱きしめ合う腕を解いて、西谷に歩み寄れば、
「なーに言ってんスか。ナマエさんが頑張ったんですから、ちゃんと自分を褒めてやってください!俺は背中押しただけで、実際なんもしてねぇよ」
これでもかってくらいに優しい笑顔で微笑んでくれる。
「それでもっ西谷が背中押してくれなかったら、私っきっと勇気出せなかったって思うよ」
たったそれだけで、自身を生んでくれた母の腕の中より安心してしまうのだから、私ってやつは本当に西谷に大事なものを預け過ぎていると思う。
「んなもん、」 「だから!ありがとうでしょ?」
瞼の端に浮かぶ涙の雫を手の甲で拭いながら笑みを作れば、
「……っ!そう、っスね。じゃあ、どういたしましてっスね……」
それを見た西谷が微かに動揺してから、尻すぼみに呟く。
「……西谷?」
いつも元気で煩いくらいで、今日だって油断したら俯いてしまう私をあんなに励ましてくれたのは西谷なのに。 明らかにおかしな彼の様子に首を傾げる。
「…………っ」
苦痛に歪む眉根、悔しげに噛み締められた奥歯は、何かを必死に耐えているようだった。
「あ、の……どうかした?なんか、」
なんだろう。 彼の苦しみに検討もつかないのに、それが寒くてお腹痛いとかそんなアホな理由じゃないってことだけは、わかって。 不思議なくらい湧き上がる嫌な予感に、私の表情までもが険しくなる。
と、
「ナマエさん、俺のことぶん殴ってください」
西谷が口にした言葉があまりにも突飛過ぎて、
「へ……?え、ごめん、なんか上手く聞こえなかったから、もう一回」
何かの聞き間違いかと思った。
けれど、
「俺のこと、ぶん殴ってくれませんか?」
辛そうな表情のままもう一度そう言った彼は真っ直ぐに私を見ていて。
「んな、え?何なに?どうしたの!ほっぺた痒いの?意味わかんな」 「ナマエさん、あなたの幸せが俺の幸せだ」
冗談なんかじゃないって、わかってた。 それでも重い空気に耐えかねて半笑いで口にした私に、西谷は言う。
「!」
いっそ悲しくなるほどの愛の言葉に、息を呑んだ。
「あなたの笑顔が何よりも好きだし、俺は今日あなたのそんな幸せそうな顔が見たくてここまで一緒に付いてきました」
西谷が優しい人だってことを誰よりも私が知っている。 けれど、今日彼が私についてきてくれたのが優しいからじゃなくて、私の幸せを誰より願ってくれているからだってことも、知ってた。
「う、うん……っえっと、あ、ありがと?」
西谷の言葉に照れくさくなりながらも、その言葉を喜びきれない自分がいるのは、
「かーちゃんと一緒に住むってのは、あなたの長年の夢だ。それが叶うのが、俺だって何より嬉しい。自分のことのように嬉しいです。だけど……っ」
私の念願の一歩を喜んでくれた彼が、その言葉にそぐわない顔をしているから。
嫌な予感がした。 何か大切なものを取り逃がしてしまったような焦燥感が背筋を掠めて。
次の瞬間、
「すみません。俺は今、あなたと離れたくないなんて、そんな我儘を口にしようとしてて……っ」
泣きそうな声で言った西谷。
「……っ!!」
その言葉のあまりの衝撃に、思いもよらない方向から後頭部をぶん殴られた気がした。
「これはいいことなんだって、わかってます。離れたって一生会えなくなるわけじゃねぇ。簡単に会えなくなるとしても、俺の想いはもちろん変わらねぇし、ナマエさんの気持ちを疑ってるわけでも無いっス。ただ、」
どうして、忘れていられたんだろう。
私は母の一言によって宮城へと引っ越してきて、知らない土地で知らない人々と出会い、かけがえのないものを貰ったり築いてこれた。 その全てが私の宝物だし、得難い縁だったと思う。
中でも西谷との出会いは私の人生を変えたと言っても過言ではないくらいに、大きなもので。 何にも代えることなんかできないくらい、西谷が大好きで、大切で。
けれど彼と出会えたのも、母との確執があったからこそ、なのだ。
その母と向き合うことが叶って、あの家でもう一度再スタートを誓うということは、
「これからは、会いたい時に簡単に会えない距離になっちまうのかと思ったらっ」
私は東京へと引っ越すということだ。
「西谷……っ」
運命のいたずらで出会った私達は、離れなくてはならない。
そんな重大な前提を、どうして忘れられていられたのだろう。
悲痛に歪む西谷の顔。 我慢出来ずに溢れ出した涙が頬を伝うそれだけで、真冬の空気の中で凍りつくように寒い。
「あなたのピンチに駆けつける事も、寂しい時に泣かしてやる事も、怖いとき抱きしめてやる事も、これからは容易じゃなくなるのかって思ったら……っどうしてもっ喜びきれない、自分がいます……っ!」
息が出来なかった。
私の心臓を持ってる西谷が苦しんでいるからなのか、
「あなたの幸せが俺の幸せだって、そう思う気持ちに嘘なんかねぇのに……っくそっどうしても……っ!」
半身を引き裂かれるのだと身体が悟るから、なのか。
「俺が……っナマエさんの手をずっと繋いでいてぇって、思っちまうんだよ!」
「……っにし、のやぁ!」
耐え切れずにしゃくりを上げて泣き出した私の手を、西谷がそっと包み込む。
その優しい掌に何度救われてきたんだろう。
彼がいなかったら、私は母どころか潔子に本音を明かすことすら出来ない弱虫のまま。 虚勢だけは一丁前の、意気地なしのままだっただろう。
「私だって、離れたく無いよっ!西谷が甘やかしまくるからっ一人で夜道歩いて変なやつに会ったらどうしたらいいのかとかっもう覚えてないし……!」
自分の願いが叶ったというのに、こんな言い草ってあるだろうか。
そうは思うのに、溢れる涙は止まらなくて。
「東京は宮城ほど寒く無いけどっだからって手袋なしで歩けるほどあったかくもなくてっでもっもう2月なのに!今更手袋なんか買ったってすぐ春になっちゃうよ……っ」
西谷と半分ずつ使ってる手袋。 男の子のくせに女の私と同じサイズの、けれど私のものより確実に骨ばって皮膚の硬くなった、バレーへの努力が滲む掌。
年下とは思えないくらい男前な西谷の優しさが、私の冷たい指先を何度でも温めてくれた。
「ナマエさ」 「こっちで桜が咲くのは東京で桜が散った後だよ?同じ季節を感じる事もままならない……っ」
21世紀になってもどこでもドアはないままだけれど、それでも、仙台東京間は一時間半。
決して会えない距離じゃない。 けれど、300キロの距離は、まだ子どもに過ぎない私達が手を繋ぐには遠すぎる。
「西谷がいなくちゃっ私……っどうやって泣いたらいいのかもっ思い出せないのにっ!」
一つずつ願いを叶えていけば、最後にはハッピーエンドが待っているものだって思ってた。
でも、現実には私の二本しかない腕で手を伸ばせるものは限られていて。 何もかもを掴み取ることなんか出来ない。
神様が意地悪く笑ってる気がした。
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