私がお世話になっている、そしてこの荷物の目的地である虎屋さんの敷地内を、志摩さんの後ろについて歩く。縁側に座るお坊さんに挨拶をしながら付いて行くと、裏口らしきところへ到着した。今朝は正門から出たのでどうにも見慣れない景色をきょろきょろと見回していると、志摩さんは野菜の入った大きな荷物を地面に置いてふぅ、とひとつ息を吐いた。あああ、そんな乱暴に置いちゃだめですよ……!
「ほい到着。お疲れさん!」
「は、はい、お疲れさまです」
「虎子さんおるやろか。おーい虎子さあん!!」
まるで疲れていないかのようにすぐ調子を取り戻した志摩さんは、裏口の戸を開けて中を覗き込み、この荷物の受取人さんの名前を呼ぶ。私も倣って隙間から中を覗くと、ぱたぱたと着物姿の女性がこちらへ駆けてくるのが見えた。
「金造やないの、どないしたん?それにあら、かなえちゃん?」
「こんにちは、虎子さん」
この人こそ、勝呂虎子さん。
私の母の友人で、この老舗旅館虎屋を切り盛りしている女将さんだ。明るく優しい彼女とは、物心ついた頃から何回かお会いしたことがある。何度会っても、素敵な女性。はきはきとした性格なのにその仕草に一切のがさつさがないのは旅館の女将をやっているからなのだと知ったのは、ついこの間のことだ。
そして今回私が夏休みの間ここ京都に滞在できるのも、虎子さんが快く部屋を貸してくださっているからである。
本当に、虎子さんには頭が上がらない。
金造、虎子さん、と呼び合うところを見ると、志摩さんは虎子さんと馴染みがあるのだろうか。友達のお母さんとか……いや、確かに虎子さんには息子さんがいるが、彼は私よりも年下だった筈だ。
真相は分からす仕舞いだが、まずはこの荷物を渡さなければ。
「あの虎子さん、これ、八百屋さんからで……」
「えっ、あらま!かなえちゃんと金造が持ってきてくれたん?」
虎子さんに野菜たちを通りの八百屋さんから受け取った旨を伝えると、彼女はぱっと優しい笑顔を浮かべる。ありがとうねえ、とくしゃりと私の頭を撫でた手はあたたかい。ここの人たちの手はみんなこうなのだろうか。さっきの志摩さんの手も、こんな風に凄く優しくて、あたたかかったから。
志摩さんはにんまりと笑いながら、「かなちゃん頑張ったんやで、」と虎子さんに先ほどあったことを告げる。するとみるみるうちに、虎子さんの眉間に皺が寄っていく。美人が怒ると、迫力が凄いなぁ……。なんてのん気に考えながらも、私は少しの喜びも感じていた。虎子さんが怒ってくれているのが私のためだと、分かっていたから。
「なんやのソレ!しかしほんま、かなえちゃんに怪我しはらんでったわ」
「え、あ、や、でも私荷物落としちゃって、」
「そんなんええのよ!これはお客さん用やなくて身内用やし、それに金造の手に渡った時点で無事届いたのが奇跡や」
けらけらと笑う虎子さんはなぁ、と志摩さんに視線をやった。志摩さんはばつが悪そうだ。「虎子さん、それは言わんといてぇな」と唇をとがらせるその仕草が子供のようで、なんだか可愛らしい。年上の男の人に可愛いなんて、怒られてしまうかもしれないけれど。
「でも、志摩さん、かっこよかったです」
本当に、かっこよかった。
今子供のようにしている志摩さんが、あの瞬間、まるでヒーローのようだった。そこまで言うのはなんだか恥ずかしいので口を噤むが、たったそれだけで志摩さんはまた表情をパァッと明るくさせる。垂れ気味の瞳がきらきらと輝いていて眩しい。
「ほ、ほんまか!?」
「え、は、はい。とても」
「さよかさよか……!」
うんうんと確かめるように何度も頷いて、志摩さんはにんまりと笑みを深くすると、何かを思いついたらしい。せや!と声をあげて、特徴的な垂れ目をこちらに向ける。
「なあかなちゃん、この後暇やろか?」
「え、は、はい」
「よっしゃ!ほなら、オレがこの辺り案内したるわ!まだコッチきたばっかで上も下も分からんやろ?」
「それを言うなら右も左もや!」
虎子さんが志摩さんの間違いを訂正しながら、こちらへ向きなおって首を傾げる。
「かなえちゃん、用があったら断っても平気やからな?見た感じこんなやけど、そん位やったら怒ったりせえへんよ」
「あ、えと、本当に大丈夫です。特に行くところもなくってぶらぶらしてたので……それに、ですね。志摩さんが本当に良い人なのは、ちゃんと分かってます」
そう言うと、虎子さんは一瞬だけ目を丸くさせてから、途端に破顔して、せやねと何度も頷く。その何だか嬉しそうな表情は、まるで息子を誉められたお母さんのようだ。きっと、本当に志摩さんを息子のように思っているのだろう。自分の口が発した言葉の普段言わないようなストレートさに少し羞恥も感じるが、虎子さんが嬉しそうなら私も嬉しい。つられて緩む頬は、少しだけ熱を持っていた。
そういえば、と志摩さんに視線を向けるが、彼は顔を違う方向に向けていたのでその表情は伺い知れない。もしかして、気に触ってしまったりでもしたのだろうか。慌てて弁明に頭を巡らせていると、大きな手が伸びてきてぐしゃぐしゃと私の頭を撫で回す。そのせいで、上にある志摩さんの表情はやはり見えない。
「ほっ、ほなオレ一旦部屋行ってくるさかい、かなちゃんは入り口で待っといてな!ほな!」
こちらに顔を向けずに早口でまくしたてた志摩さんは、砂埃を巻き上げる勢いで駆けて行く。返事を返す暇もなくただ呆然と彼の背中を見送った私に、虎子さんはくすくすと笑った。
「喜んどるなあ、金造」
「喜ん、で?」
「せやよ。アイツ仰山おる兄弟の中の真ん中っ子なんやけど、普段は年下にも年上扱いされとらんのよ。せやからかなえちゃんに誉められて、嬉しくて仕方ないんやろなあ」
そう、なんだ。喜んで、もらえたのか。
こんなことさっきのお礼にもならないけれど、でも、私の言葉に、喜んでくれたのか。
胸が、ほわりとあたたかくなる。
そんな私を微笑ましげに見つめながら、虎子さんはぐしゃぐしゃになった私の髪をそっと直してくれた。