お兄さんと笑いあっていた私だったが、忘れてはいけないことが一つあったことを思いだして、途端にさぁっと青ざめる。
「あっ、野菜!」
「あぁっ忘れとった!」
詰めなおしたけれど、中身は大丈夫だろうか。それにお兄さんが飛び蹴りをした時、彼が地面に置いたダンボールが倒れていた気がしなくもない。
「阿呆」
慌てる私の横で、ぺちっと志摩さんの頭を叩く手。私の正面、志摩さんの後ろに佇むのは、先程の八百屋のおじさんだった。おじさんの手には、足元には、野菜たちがきっちり詰まったダンボール箱がある。
どうやら私たちに渡し忘れたものを届けにきて、この現場に出くわしたらしい。何で私は気付かなかったんだ。いかに自分に余裕がなかったのかを思い知りながら、おじさんにお礼を言う。
「ありがとうございます!あ、でもお野菜大丈夫でしょうか……」
「おっちゃんのとこは野菜も果物も強ぉできとるからな、気にせんでええ!金造も、よおやったなぁ!」
「わわっ」
「うおっ」
二人同時に大きな手に撫で回される。お姉ちゃんもよう頑張ったと言われてしまい、恐縮する。私はただ、黙って俯いていただけだ。しかしおじさんに撫で回されていて、それを伝えることはかなわない。しばらくして満足したらしく、おじさんは私たちの頭から手を離す。途端に我に返ったように「あっ、お客さん待たせとるんやった!」と慌てて踵を返して去るおじさんはまるで嵐のようだ。
呆然とその背中を見つめていた私の肩に、お兄さんの手が乗っかる。彼の顔を見上げると、お兄さんはニィ、と大きく笑って私の撫で回されてぐちゃぐちゃになった頭を更に乱してくる。「わ、わ」と情けない声を上げると彼はまた笑って、私の頭をぽんぽんとたたいた。
「お嬢ちゃん、頑張ったなぁ!」
「が、頑張ってなんか、」
「いや、頑張っとったやろ。逃げひんかったやないか」
「それは、」
逃げられなかっただけです、とは続けられなかった。そう、逃げられなかっただけなのだ。私の情けない足がすくんで、動いてくれなかっただけ。
そう伝えようと彼の顔を覗くと、――笑っていた。全部分かっているのか、はたまた何も分かってないのか。それでもただ包み込むように、笑っていた。
「お嬢ちゃんは頑張っとったわ。野菜見捨てへんかったし、あいつら追ってこうとする俺止めてくれたんも、助かったと思うとる」
「でも、」
「ええねん!この金造様が言うとるんやから、大人しく受け取っとかな損やで!」
きょとん。
自信満々に言ってふんぞり返るお兄さんに、私は目を丸くする。気がついた時には私は頷いていた。
そんな私に満足げに頷いて、お兄さんは再びダンボールを抱えなおし、私の分のビニール袋をこちらに渡す。それを受け取って、お兄さんを見上げる。やっぱりまだ怖いけど、今度はちゃんと、目を合わせて。
「本当にありがとうございます、お兄さん」
「ええてええて」
「あ、そう、じゃ、なくて、……今のはさっき助けて貰ったことじゃなくて、あ、もちろんそれもあるんですけど、お兄さんのお陰で、すごく、気分が軽くなったから」
しどろもどろでしか伝えられない私の言葉を、どうにか拾ってくれたらしい。お兄さんは照れくさそうにそっぽを向いて、気にせんでええよと零した。
それに再び頷くと、お兄さんがハッとしたようにこちらにバッと向き直る。
「せや!」
「へ?」
「お嬢ちゃん、俺んこと呼んでみ!」
「……お、お兄さん?」
「それや!」
ようやく分かったわ、と一人頷くお兄さんに首を傾げると、名前や名前と返される。
「名前?」
「俺、嬢ちゃんの名前知らへんねん」
「あ、」
確かに言われて見ればそうだ。
てっきりもうそんなのとうに済ませたものだと思っていたのだが、考えてみれば私たちはついさっき八百屋さんで出会ったばかりではないか。
「ほな、改めて。俺は志摩金造や。よろしゅう!」
「あ、私は唯川、かなえです。改めてよろしくお願いします、志摩さん」
「おう!こちらこそよろしゅうな。かなえ……ってことはせやな、かなちゃんやな!」
かなちゃん。聞き取りやすい声色で紡がれた自分の名前が、何か特別なもののように聞こえた。差し出されたそれに応えるように握った手は、無骨なようでどこかすらっとしているようにも思う。爪が綺麗に手入れされているからだろうか。本当に、不思議な人だ。
「ほな、あんな奴らのことは忘れてはよ行こか!はよせな虎子さんに叱られてまうわ」
「はいっ」
今度こそもう落としてしまわないように大事に袋を抱えなおし、再び先ほどのように並んで歩き出す。自然と足取りがほんの少しだけ軽くなってしまったのは、内緒だ。