合わせていた手を離して、立ち上がる。瞬間足首に痛みを感じてそちらを見下ろすと、人の子とさほど変わらないくらいのライガがわたしに噛み付いていた。まだ生まれてからそう経っていないくらいの子供だろう。きっと、ライガ・クイーンが遺した子だ。
ライガの子はグルル、と低い唸り声をあげながらわたしの足首から歯を離した。食いちぎられるかもしれない、と頭のどこかで思っていたが、そうはならなかったようだ。しっかりと歯が食い込んでいたそこからは血が流れるが、ライガには毒があるわけでもない。治療をすれば大丈夫だろう。そう脳内で結論付け、ライガの子と向かい合う。
「確かにアレは食物連鎖の正しい形ではないけれど、……コレも正しい形とは言えないわね」
不思議と、口元に歪んだ笑みが浮かんだ。人は何にでも干渉する。弱肉強食の世界だから、彼女が淘汰されてしまったのも自然の摂理なのだろうか。なんて答えの出ないことをぼんやりと考える。本来ならここで、残りのライガは始末しておくべきだろう。しかし、どうしてもこの子供に手をかける気にはなれなかった。
(これは所詮、ティアの言う"甘さ"ってヤツだ)
優しさではなくて、甘さ。どちらにせよ、リーダーとなるクイーンを失ったライガ一匹ではエンゲーブに向かったところで何もできやしないだろう。敵意のないことを感じ取ったのか、ライガの子はおずおずとわたしから離れて母の頬を舐めている。その姿が、泣いていないのに涙を流しているように見えて。いつかの幼い自分の姿と重なって、頭痛がする。
謝罪が喉まで出かかったが、しかし音にはならなかった。
とりあえずこのままではルークたちに合流できないため、手のひらに第七音素を集め噛まれた患部に添える。みるみるうちに止血され傷跡すら消えるそこに、気が付いたらしい。何かを期待する目で見ているライガの子に気が付いて、わたしは眉尻を下げた。
「……ごめんね、わたしのこれではあなたのお母さんも兄弟も助けられないの」
果たして、ライガに人間の言葉は伝わるのか。クイーンとの会話はミュウを介していたため、恐らく何を言っているかは分からないだろう。しかし空気で感じとったのか、ライガの子はクゥンと悲しげに鳴いたまま、わたしに襲いかかることもなく母の元へ寄り添うようにしゃがみ込んでいた。
患部に手を当てながら、傷が治るまで手持ち無沙汰なわたしはさっき拾ったリンゴをポーチから取り出して、一定距離を保ったままライガの子の方へ転がした。自らの方へ転がってくる赤い果実に気が付いたライガは何度かわたしとリンゴを交互に見る。丁度治療も終わったため立ち上がると、こちらをじっと見つめ、やがて興味を失ったかのように目を伏せた。わたしもそちらに背を向けて巣をあとにして、ルークたちの待つチーグルの住処へと向かう。長い間、あの喰えない軍人と一諸にしたくはない。言うなれば、ルークは人質に近い。今は、悲しむ暇も用意されていないのだ。
木々の間を縫って差し込む光が、眩しくて仕方がなかった。
「リアさん、よろしくお願いしますですの!」
「……え、ええ、よろしく?」
小さな手をぴっと上げる小さな魔物に、チーグルの住処の前で出迎えられた。ルークの足元にちょこんと立つチーグルの仔は、どうやら季節が一巡りする間ルークに仕えることになったらしい。恐らく、クイーンの咆哮により崩れ落ちてきた岩から命を救われたことに感謝しているのだろう。チーグルは、恩を忘れない魔物だというから。ガイたちへのお土産だ、と微妙に嫌そうな顔でよこしてくるルークに苦笑する。
どうやらもう用は済んだらしく、このまま森を出るようだ。早く早くと急かすルークに付いて歩くと、くん、と後ろから袖を引かれた。
「……ティア?」
「リア、あなた顔色が良くないわ。休んだ方がいいんじゃないかしら」
「ありがとう、でも大丈夫よ。ティアこそ、さっきの戦闘で疲れていない?」
「わ、私は大丈夫だけど……」
「そう、良かった。無理はしないでね」
にこりと笑ってから、ティアにもう一度ありがとうと言う。彼女のヘーゼルナッツの瞳は何かを言いたげにしていたけれど、その後何かを続けることはなかった。
森の出口まで戻ると、ふわふわのツインテールを揺らしながら駆けてくる小さな姿。
「あ?あの子お前の導師守護役じゃないのか?」
「はい、アニスですね」
「……!?」
その、すぐ後ろ。彼女に連れられるようにして後を追う複数の鎧に、わたしは反射的に身構えた。大佐に視線を向けるが、彼の瞳はアニスへ向いていて意思疎通は図れない。マルクト兵たちが、わたしたちを囲む。不安げに問いかけるルークに大佐は一度視線をやってから、指揮を待つマルクト兵たちに指示を出した。
「そこの二人を捕らえなさい。正体不明の第七音素を放出していたのは、彼らです」
「ジェイド!三人に乱暴なことは……」
「ご安心下さい。何も殺そうという訳ではありませんから。……彼らが暴れなければ」
イオン様を諭すように優しげに笑いながらも、こちらへ向ける視線の奥には探るような冷たさがある。彼ら、と言いながら、ようやく大佐がこちらを見た。どうする。ルークを、これ以上危険な目に遭わせる訳にはいかない。ティアにだって。ここで逃走を図っても、大佐が地の果てまで追ってくるのは一目瞭然だ。
頭をフル回転するわたしの腕に、何かが捕まった。
「……アニスちゃん、」
「お姉さん」
大きな瞳が、じっとこちらを見つめてくる。これは大佐の指示か、それとも。しかしどちらにせよ、抵抗は出来なさそうだ。こんな子供、しかも女の子を振り払うような甲斐性はあいにく持ち合わせていないし、それに、改めて考えてみると大佐からは探るような視線は感じてもこれみよがしな敵意は感じられない。
諦めを含んだ溜め息を一つ吐いて、腕の力を抜いた。
「いい子ですね。――連行せよ」
指示を受けたマルクト兵たちが、わたしたちを連れて行く。どこに連行されるかは分からないが、その中に一つ見覚えのある人を見つけて、わたしはまた一つ溜め息を吐いた。
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20130225