オルカ・オルカ | ナノ




 麗らかな春の日差しはいともたやすく、つまらない授業の時間をお昼寝タイムへと変える。それが午後一番の体育の授業のあと、古文の授業ともなればその威力は計り知れないというもので。教室の奥、一番後ろのこの席からは、前方に陣取るクラスメートたちが次々と睡魔に負けてひれ伏していくさまが一望できる。いっそ壮観だ。同時に平伏する生徒たちに哀愁を漂わせる、当クラスの担任であり古文の教科担当、天方先生――通称あまちゃん先生の姿も見えてしまうので、少し心苦しくもあるのだけど。
 しかし正直、そんな周囲に構っている場合ではない。私は隣の席、大きな背中を小さな椅子の上で丸めている彼をちらりと盗み見た。ガラス窓越しに差し込むあたたかさを広い半身で受け止めて、優しげな垂れ目がふにゃふにゃと溶けている。昼下がりの光を浴びて微睡むその姿はさながら。

(――まごうことなき天使!)

 机の下で、ぐっと力いっぱい、ひ弱な握力の限り拳を握りしめる。すぴすぴと微かに聞こえはじめた寝息も、もちろん天使成分の一端である。寝息だけでこんなに世界を華やかにさせるなんて、多分橘くんは酸素を吸って天使成分(原子番号不明)を吐き出してるんだと思う。人間国宝だな……。
 しかしこの席、至上にもほどがある。どんなに倍率の高い人気アイドルグループの最前チケットよりも、よっぽど神席というやつだ。こんな席、無料で手に入れちゃっていいんですか? と疑心暗鬼にもなる。
 始業式を終えたあと、早々に行われた席替えにて楽園へのチケットを手にした私はその現実に耐えきれずクラスの死角で友人にタックルをかました(そして見事いてこまされた)。震える足で席に着いた私に、「あ、俺の隣安土さんだ! よろしくね」と朗らかに微笑んでくれた橘くんの周りに桃色の花が咲いて見えたのは幻覚なんかじゃないと思っている。
 あああ、それにしても橘くん、本当に美味しそう。穏やかな寝顔をここぞとばかりに目に焼き付けながら、涎が垂れてしまわないように気合いを入れる。これからこの素敵に無敵な横顔や寝顔が見放題だなんて、どんな高級ホテルのビュッフェだって霞んでしまう。
 彼は今、どんな夢を見ているのだろう。あどけない寝顔。幸せそうに緩んだ頬は柔らかそうだ。

(……はあ、もー、ほんとにおいしそう)

 これは心底真面目な話なのだが、橘くんは砂糖菓子で出来てるんじゃないかと思うことが昔からたびたびある。パステルカラーの砂糖菓子。甘い笑顔も、広い背中も、柔らかそうな頬も、綺麗な鼻筋も、透き通った瞳も、全部全部美味しそうだ。流石天使。考えてみれば、天使のなんちゃらとかエンゼルなんちゃらとか、甘くて美味しいものにはそういった形容詞がつくではないか。
 なるほど、と一人勝手に納得しながら、その天使の横顔を見つめ続ける。クラス中が睡魔に平伏す今こそエンゼルスリーピングフェイスを堪能する貴重なチャンスである。
 普段はきらきらの飴玉のような眩い瞳に耐えきれずまともに見ることすら出来ないけれど、今はあのエメラルドも薄い瞼で閉じられている。
 そう、今ばかりは私の邪魔をする者はいな――。

「……」
「……」

 ――いたよ。
 すぴょすぴょと教室中にマイナスイオンを振り撒きながら無防備に眠る彼の、向こう側。こちらをじぃっと見つめる平淡な瞳に、知らず上がっていた口角が引きつる。なんたることだ。油断した。
 ヤツ――七瀬遙とは橘くんと同じく、小学校からの付き合いである。でも、あくまでそれだけ。七瀬は超弩級のマイペースで、心のパーソナルスペースも広く、関わる機会もほとんどなかったのだ(まあ例えあったとしてもそこまでの仲を築いていたとも思えないのだけど)。
 それでも、七瀬のことはよく知っている。何故なら、ヤツは橘くんの幼馴染。そしてなにより、この男に橘くんが日々、えらく苦労しているからである。そう、それはそれは苦労しているのだ。
 もちろん、橘くんがそれを含めてこの七瀬遙という男と一緒にいることも知っているし、むしろ橘くんの方から積極的に関わりに行っているのだって分かっている。橘くんにとっての七瀬の存在の大きさだってじゅうぶんに理解している。しかし、……しかし! 腹持ちならないことだってあるじゃん!? 見てるこっちがやきもきすることもあるじゃん!?

 小中高と長きに渡り抱いてきたやるせなさに、ぐぬぬと先ほどとは違った意味で拳を握る。
 しかも何で今日に限って起きてんの? いつも爆睡してるじゃん。ん? 何で? てか何故昨日始業式早々いなかった? また橘くんが迎えにいったんでしょくそう……。しかしちくしょう、残念なことに七瀬がこちらを見ているならこれ以上橘くんの寝顔を目に焼き付けることも叶わな……。

 あれ。

 不意に、こちらをじっと見つめていた深海色がふい、と窓の方を向いた。つい今の今までの探るような視線など、なかったかのように。
 ……まあ、マイペース人間だからなあ。
 七瀬の考えることは昔からよく分からない。よく分かったことなど一度もない。というか、この男の思考回路を理解できる存在が橘くん以外にいるとは思えないんだけど。橘くんはやっぱりすごいなあ。
 まあ考えてみれば七瀬がこちらに興味があるとは思えないし、こちらを見たのも偶然だったに違いない、とさっさと思考を切り替える。
 何はともあれ、邪魔がなくなったのならこちらのものだ。時間にして一分近く無駄にしてしまったけど、その分は念入りに目に焼き付けることで取り返そう。そんな決意を固めながら、再び天の使いの寝顔へと視線を戻す――と。

「……おはよ?」

 ぼんやりと開いた瞼の奥から上目遣いにこちらを覗く、とろけそうなくらいに柔らかなエメラルド色。そして寝ぼけた混じりの舌っ足らずで囁かれた挨拶の不意打ちダブルコンボに、私は咄嗟に頷き、そのまま勢いよく机に伏せた。

「(なにそれかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいい……っ!)」

 周囲とはまったく異なる理由で机に伏せながら、目に焼き付いて離れない瞳に頭を抱える。きらきらとろとろのエメラルド。ああもう、顔が熱くて仕方ない。これも全部全部七瀬のせいだ、なんて、八つ当たりもいいとこだと分かっているけれど。


 甘ったるい寝癖


 安土さんおやすみ、なんて、春の日差しよりずっとあたたかい声で言わないでほしい!


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20130721
201906 加筆


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