オルカ・オルカ | ナノ



 沈んだ意識の向こうで、近所の大型犬が景気良く吠える声が聞こえた。昨日はなかなか寝付けなかったから、出来ることならまだ惰眠を貪っていたい。いつまでもあたたかい布団に包まれていたい。穏やかな夢の海の中を揺蕩っていたい――けど! 目覚ましが鳴る直前にカッと目を見開き、布団を蹴り上げ飛び起きる。
  そんな悠長なことを言っている場合ではない!
 騒ぎ出す寸前のアラームに待ったをかけて、忙しなく部屋を飛び出した。

 短い春休みの前と変わらないルーチンワークを終えるなり、無人の玄関に行ってきます、とそっと声をかけて、家を出る。家鍵にくくりつけてある小さな鈴の音が、心地よい春風にりん、と溶けた。
 逸る気持ちのまま急いで支度を済ませたから、時間はまだ少し早い。しかし止まっている余裕など今の私には存在しない。気分は回遊魚、止まったら緊張と期待にばくばくと弾む心臓だって黙ってしまう。

 四月の一週目、今日は待ちに待った決戦の日。
 すれ違う新入生たちの制服に着られている感じに懐かしさを覚えながら、目的地である体育館へと足早に向かう。
 今年の桜は例年より少しだけ気が早い。はらはらと舞う薄紅色が趣深いですね――壮年の天気予報士が朝のニュースでそう笑っていたが、残念ながら私はそんなに繊細な質ではないので、そこまでの風流さは感じられない。もちろん普通に綺麗だとは思う。しかしごく単純に、今の私にはそんな繊細な美にうつつを抜かしている余裕など微塵もありはしないのだ。なんなら私の方が桜より気が早いし。前年度の終業式直後から、なんなら三学期の頭から心の準備運動してたし。
 きっと新生活への不安を胸いっぱいに孕んだ新入生よりも、私の方がよっぽど切羽詰まった顔をしているに違いない。
 その理由は単純明快。何故なら私は今から、とある戦いに赴かねばならないのである。

(……ついに今年もこの日がきてしまった……)

 大きな張り紙に集まる生徒の塊を前に、さながらソルジャーの面持ちで逸る心臓を鎮めるために大きく深呼吸をする。吸って、吐いて、吸っ……うげ、口の中に花びら入った。って足踏まれた! 痛い! いきなり幸先悪すぎやしないかなコレ!
 内心悲鳴を挙げながら、それでも私は耐えた。大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせ、口の中へ侵入したおっちょこちょいな花びらをハンカチに出す。よし。
 気合いを入れもう一度深呼吸をし、そして意を決す。大丈夫、心の準備はしっかりとしてきた。目指すはあの運命の通知書、我、人だかりの中へといざ飛び込まん――、

「はよー。つばさ、アンタ今年も橘くんと同じクラスじゃん」
「ア」

 アアア……? と気の抜けた声をあげながら錆びついたブリキの人形よろしくぎぎぎと振り返ると、そこにはお団子頭の友人がなんでもないように片手を上げ挨拶しながら立っていた。おい気合い入れ直したってのにいきなり出鼻挫かれたぞ。……というか、あんた今なんて……?

「だから、橘くんと同じクラスだよアンタ」
「……ア……(ほんとに?)」
「口に出してないのに何言ってるか分かるわ……マジマジ。おい泣くなよ相変わらずガンギまってんな」

 明らかに引き気味な友人は私の鞄に勝手に手を突っ込み、先程の花びらを包んだハンカチを投げつけてきた。べしっ、と見事に目の辺りに命中するが、今はそれどころではない。いやマジでそれどころじゃない。
 暫しの時間をもって友人の言葉を咀嚼した私は、天を仰ぎながら至上の喜びに打ち震える。
 天高く上げたのは、勝利の拳だ。

「に、二年連続同じクラスううう……!」
「あーはいはい良かったね。ところで私も同じクラスなんだけど」
「ウィッス」
「ぶん殴んぞ」

 握り拳を作った友人が青筋を浮かべながら威圧してきたので、すぐさま嬉しい! 同じクラス嬉しい! と太鼓を持った。友人の濁った視線が刺さるが、それはそれ、これはこれ。いやもちろん、気の合う友人と一緒で嬉しいのは本当なのだけど。それでもどうにか溜飲を下げてくれた様子に自分の身を守りきったことに妙な達成感を抱きながら、再び張り紙前の人集りにぼんやりと目を向けながら噛みしめる。

(……そっかあ、またおんなじクラスかあ)

 まぶたの裏に思い浮かべるのは、ミルクティ色と大きな体。優しい目元に柔らかな声の――あれはまさしく、天使。
 あああだめだめ口元が弛む。春休み中毎朝神棚に土下座して良かった! ご先祖さまありがとう! 所詮農民とか思っててごめんなさい! 農民は農民でもすごいタイプの農民だった! 豪農! ありがたや! ありがたや!!
 ご先祖さまにこれっぽっちも纏まりのない感謝の気持ちを述べながら、深い幸せを噛みしめる。帰りに和菓子屋さんに寄って、お供え物のお饅頭をたくさん買わなきゃなあ、なんて、にやつきそうになる頬をここ数年で鍛えた表情筋を駆使し押さえ込みながら意識を彼方に飛ばしている私を呼び戻したのは、他ならぬ彼の声だった。

「あ、安土さんたち、おはよ」
「!? って、」

 て、天使光臨した……!!?
 突然現れた天使に見事硬直する私をよそに、友人は何事もないかのように彼に「はよ、」と男前な挨拶を返す。なんだお前勇者か?
 そう、何を隠そう彼こそが私の言う天使、橘真琴くん。この世に舞い降りた天使そのものである。やばい、今日も寸分の狂いなく天使。むしろ天使って彼のための固有名詞じゃん。彼とは小学校から同じ進路なのだが、橘くんが天使じゃなかったことなど一度とてない。ちなみに、このお団子頭の彼女とは中学からの付き合いである。
 その友人の横で再び(むしろ先ほど以上に)打ち震える私に気付いた彼が、身長差を埋めるように膝を曲げて、顔を覗き込んだ。元々下がり気味の形のいい眉がさらに下がり、優しい目元にはありありと心配の色が浮かんでいる。

「安土さん、大丈夫?」

 ああ、後光が差している……。それが幻覚だと理解しながらも、あまりの眩さにどもりながら(色んな意味で大丈夫ではないんだけどなんとか)絞り出すように大丈夫だと言うのが限界だった。咄嗟に顔を逸らしてしまったのは、もちろん橘くんが天使すぎるからである。致し方ない。

「……ほんとに?」

 なんともかわいらしく小首を傾げながら再度確認してくる橘くんに、スカートを握りながらぶんぶんと頷く。そうすれば橘くんはふうわりと笑って、「良かった」とはにかんだ。
 ああああああ天使! 約二週間ぶりの天使……!! っていうか毎年言ってるんだけど橘くんって春似合いすぎじゃない? 桜の花びらが髪についてるんだけど? 完全に桜の精なんだけど?? 教えてあげたいけれど、もったいない気もする、ってか桜がここまで似合う男子が未だかつていただろうか否いないあっこれ反語ね橘くんのおかげで反語をこんなにも的確に使えるようになっちゃった……さすが天使……さす天……。
 ちなみにここまでコンマ三秒。もちろん顔には出さない。私は内心狂っていても(これでもそれなりに自覚はある)、顔に出さないことが出来る。個人的に自分の数少ない特技の中で一番有用性の高いものだ。いや本当、この特技のおかげで私は今も最低限は社会的地位を保っている。
 必死の主張に納得してくれた橘くんは、もう一つにこりと笑ってから、中腰を直した。そうだ、もうそろそろ体育館に行かなくちゃ。
 橘くんも迫る時間に気が付いたのだろう。先に行くね、と声をかけて行こうとした彼に、私はあっと小さく声をあげて、咄嗟に彼の制服の裾を掴んだ。

「あ、の、橘くん」
「ん?」
「し、し、心配してくれて、ありがとう……っ」

 残念ながら目を見ることは出来ない(眩しすぎて)。それでも橘くんは嫌そうな雰囲気もなく、ふふ、と小さく笑みを零しすらして、うん、とだけ言って体育館へと向かって行った。
 残された私は小走りで駆けて行く彼の背中をぼんやりと見つめていた。相変わらず、広い背中だ。初めて会った時と同じ。

「……美味しそう」
「バーッカ! そこは乙女チックなモノローグ入れるとこでしょうがぁ!」

 友人がなにやら叫んでいるが、現在私の頭の中は橘くんという春の訪れによりお花畑まっしぐらである。本当に橘くんは罪深い天使だ。マジギルティエンジェル。けしからんもっとやれください。

(……そういえば、桜が髪の毛に引っかかってたの、言いそびれちゃった)

 もし式典が終わっても取れていなかったら、教えてあげよう。もちろん、心のシャッターを十六連写で切って永久保存してから。きっと橘くんは、照れ臭そうに頬を染めて、桜よりもずっと綺麗に笑うだろう。
 そうとなれば善は急げ。呆れ顔の友人と共に私も体育館へと向かう。思い出すのはミルクティ色に桜色、それから優しい若葉色。帰りに桜餅を買おうかな、なんて。

 ああもう、今年もいい一年になりそうだ!


 溺れるファンタジスタ

 なおここまでが、新学期早々行われた席替えで見事大天使の隣の席を引き当て、内心半狂乱を起こす二時間ほど前のことである。


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20130716
201906 加筆


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