オルカ・オルカ | ナノ



 制服姿の男女が大多数を占める電車に揺られながら、ふう、と一つ大きく息を吐く。今日は朝からずっとこんな調子だ。理由は明白、脳内を埋め尽くす煩悩を断ち、また大天使のみ、み、水着姿を見ても口から出てこない、あるいは一発で停止してしまわないよう、己の無力な心臓に文字通り「心の準備」をさせるためだった。
 たとえ水着姿というワードを脳内ですらろくに噛まずに言えないとはいえ、今日の私はいつもとは一味違う。なにせ大事な妹分を守る、そして橘くんに心配をおかけしないという大義があるのだ。昨日はお経の如く古文の教科書を唱えながら寝たし、今朝だって禊として冷水のシャワーを浴びてきた。隣の席に在わす大天使にも恐らくいつもよりスムーズにまともな挨拶が出来ていたはずだ。友人からも「今日のお前なんか仏じみてるな……」とのお言葉をいただいている。
 そう、今日の私は修行僧、俗世から乖離するべく励む存在である。反動で明日は橘くんを見ただけで倒れそうだけど、それはそれ、どうにかします。
 しかしどうにか準備を整えきったと思っていた私の前に、ここに来て一つ大きな問題が浮上していた。

「……いったい私はどこに向かえばいいんだろう」

 そう、彼ら岩鳶高校水泳部と合同練習をする学校を聞くのをすっかり忘れていたのである。
 この大問題に気付いたのが寮暮らしをしている弟分の実家に寄っておばさんから荷物を受け取った時なのだから、我ながら抜けていると言わざるを得ない。いや、単純にそんなことに思考を回す余裕が微塵もなかったんだよね! 精神統一に全ブッパしてたから!
 恐らくコウちゃんも、まさか私が松岡の転入先を知らないとはこれっぽっちも思わなかったのだろう。私も自分で自分に驚いたもんね。普通に聞きそびれてたよね。ついさっきそれに気付いたよ。あいつ今どこにいるんだよ。
 とりあえずコウちゃんにも松岡にもメールは送っておいたけれど、今のところ返事はない。松岡の方には「あんたどこ高?」なんて田舎のヤンキーもかくやのメッセージを送りつけてしまったが、テンパっていただけなので許してほしい。まさかそれにイラっとして無視されてるわけじゃないよね? 大丈夫だよね?
 しかし何はともあれ、どちらにせよまずはこの大きな紙袋を弟分に届けるところから始めなければならない。足元に置いたやたらと重いそれに視線を落とす。
 渚くんが部員勧誘のために持ち歩いていた大きなそれに近い袋の中には、手彫りのイワトビちゃんストラップやポスターに代わり、おばさん手作りのお菓子や最近の気温に合わせた追加の着替え、それから持たせてくれと言われていたらしい漫画などが纏めて入っている。いや漫画て。はるばる荷物を届けるお姉さまに何を持たせるんだあいつ。一冊二冊ならまだしも十巻って、しっかり最終巻まで持ってこさせるんじゃないよ。
 とはいえおばさんにはお世話になっていることもあり、申し訳なさそうな彼女に大丈夫です、と頷いてしまったのはやはり私なので仕方がない。ついでにおばさんから整理整頓が苦手なヤツの部屋のチェックをお願いされてしまったのだが、流石に男子校の寮に単身乗り込む度胸はないのでこのミッションまで果たせる自信はないのだが、優しい彼女なら許してくれるだろう。
 それに、今から姉貴分泣かせなあいつにはちょっとした辱めが待っているのだ。んふふ、と意地悪くほくそ笑みながら、目的の駅に到着したため紙袋を抱え直して電車を降りる。
 そういえば今向かっている目的地も松岡のところと同じ、寮がある男子校だなぁ。この任務が終わるまでに松岡家のどちらかから返信が入っていれば問題ないけれど、すでに部活が始まってしまっていて携帯を見ることができない可能性だってある。強豪水泳部の情報など門外漢の私が知る由もないが、弟分ならこれだけ情報があれば候補の一つでもあげてくれるだろう。県内に同じ条件の学校がそんなにたくさんあると思えないし。
 どうにかなりそうな気配に自然と気分も上昇する。うん、きっとどうにかなる。あとは橘くんに会うまでにメンタルを最終調整するのみだ。心の準備は何よりも念入りに。とりあえず弟分のところにわらわらといるであろう水着男子の群れで肩慣らしといこうじゃないか。



 流石に男子校に足を踏み入れるのは初めてなので門を潜る際少し緊張したが、運良く通りがかった水泳部の監督さんが対応してくださり、一緒にいたマネージャーくんに私のことを託してくれた。これは幸先が良いぞ。
 監督の先生は職員室に戻るとのことで、プールまで彼が連れて行ってくれるようだ。マネージャー兼選手であるという美波くんは大人っぽい見た目から同級生か一つ上だと思ったのだが、自己紹介がてら話を聞くと弟分の同い年、つまりまさかの年下だった。年下の男の子となると弟分や渚くんといったベイビーフェイスとしか接点がなかったため、あまりの発育の良さに気の抜けた声が出てしまった私に気分を害した様子もなくけらけらと笑いながら、美波くんは世間話を続けてくれる。コミュ力高男くんだ、さては渚くんタイプだなお主。

「にしても安土さんそれ重くないですか? 持ちますよ」
「いやいや、選手にそんなことさせられませんよ。大丈夫です、この借りは本人に返してもらうんで」
「全然いいのに。……でもまさかあいつにお姉さんがいたなんて。全然そういう話しないんですよ、あいつ」
「姉貴分ってだけで血の繋がりはないんですよ。それに思春期だから恥ずかしいんじゃないかなぁ。ヤツの反抗期が私に向いてるような気もするんですよね」
「あはは、そういう言い方、本当のお姉さんっぽいですね」

 そうだろうか。姉っぽいなんてあまり言われることもないので、つい照れ笑いが滲んでしまう。調子に乗ってこれからもあいつをよろしくお願いします、とそれこそ姉ぶった発言をしたら、ノリの良い美波くんは勿論、と頷いてくれた。さすがコミュ力高男くんだ。
 その和やかなコミュ力のおかげで当初の緊張もほぐれた私は、彼のノリの良さに乗じて一つ、小さな悪戯を持ちかけた。いいっすね、と先ほどよりも砕けた様子で了承してくれた美波くんの背中に早速身を隠す。
 塩素の匂いが近い。私の準備が出来たことを確認するなり行きますね、とにやけ混じりの潜めた声に頷いて、彼の影を維持しながら見慣れない大きなプールサイドへと裸足で踏み込んだ。

「おーい似鳥、お客さんだぞ!」
「え、僕? ……って、えっ、姉さん!?」
「はーい、愛一郎くんのお姉さんですよ!」

 美波くんの後ろからひょいと顔を出して、彼と同じくにやにやと笑いながら右手に持ったヤツの名前が書かれた忘れ物、数学の教科書を軽く掲げて振ってやる。ふふふどうだ、同じ部活の人たちに身内を見られる気分は! さぞ恥ずかしかろう! わははは!
 当初は普通に入り口まで呼んできてもらおうと思っていたのだが、ここまで抱えてきた荷物の重さやらこの間食べられたプリンやらを思い出したらこのくらいの悪戯は許されてしかるべきだろう。小さな鬱憤を割と陰湿な方法で晴らして満足した私は、慌てた様子でこちらに駆け寄ってくる弟分の向こう側に立つ姿に気ままに揺らす手を硬直させた。え、は、えっ。
 突然の身内の来襲に慌てる弟分よりも、よっぽど私の方が混乱を極めているに違いない。三日天下どころか私の有頂天の寿命は三十秒だった。

「たっ、ちばなくん……!?」
「えっ、安土さん!?」

 目を丸くする橘くんと目が合い、ここまでなんだかんだと大事に抱えて持ってきた重量のある紙袋を床に落とす。あぁっ! と愛一郎が悲痛な声を上げたが、今はそんなことに頓着している余裕などない。
 固定されてしまった視線の先には、水着姿の橘くん。均整のとれた筋肉があまりに目に眩しい。眩しすぎる。いや眩しいなんてものじゃない。えっ……これは……宗教画……?

「つばさちゃん! 早く来れて良かった!」
「あっ、つーちゃーん!」
「……あーあ」

 橘くんの後ろでは、コウちゃんと渚くんがぶんぶんと大きく手を振ってくれている。七瀬に至っては微塵も視線を寄越す気はないようだ。知ってたけど。橘くんの隣にいる眼鏡の男の子が、おそらく渚くんが言っていた竜ヶ崎くんなのだろう。そしてそのさらに向こうには、残念なモノを見るような呆れた目をこちらに向ける松岡――っていやいや聞いてない聞いてない、こんなの全く聞いてない!
 いや、改めて考えれば十二分にあり得た話なのだ。県内の、それも電車ですぐ行けるような距離にある、水泳部が強い全寮制の男子校。そんなものがいくつも存在するはずがない。つまり、松岡が私の弟分である似鳥愛一郎と同じ、鮫柄学園に編入していたってなにもおかしくなどないのだ。
 ここまで計画的に重ねて来た心の準備が想像の遥か先の衝撃を受けて無に帰し、混乱が閾値を超えた私の足は、カモシカが乗り移ったかの如くプールサイドを強く蹴る。

「まっ、ま、松岡貴様ぁ!」
「何やってるの姉さん!?」
「うおぉ!? ちょ、おま、何すんだよ安土てめぇ!」
「あいだだだだだだごめんなさいごめんなさい!」
「ちょっ、ちょっと凛っ!?」

 突如現れた私に様々な反応をする彼らの間を無心で駆け抜けて、とにかくジャージで防備されていることが確認できる松岡へとタックルさながらの頭突きをかました私は、容赦のないアイアンクローをこのとっちらかった頭へといただいたのだった。


脳幹までひとっ飛び


 こんな時ですら慌てて助けてくれようとしてくれる橘くんは本当にあまりに大天使なわけですけど、流石に刺激が強すぎる。今すぐここから連れ出してくれと必死に目で語りかける私に、松岡が五指の力を緩めながら腹の底から心底重苦しい溜息を吐いた。

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20190709


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