オルカ・オルカ | ナノ



「……で、多少は落ち着いたかよ」
「め、面目無い限り……」

 あの混沌とした(私がさせた)プールを出てもなお思考がとっ散らかったままの私を見かねた松岡が買って来てくれた缶ジュースで乾ききった喉を潤しながら、つい数分前の己の失態を思い返して項垂れる。
 私の必死のエスオーエスを無事に受信してくれた松岡は、盛大な溜息ののちあれよこれよという間に完全に木偶と化した私をプールサイドから引きずり出してくれた。どうやら私がジャージを着ていないことを理由に、上のギャラリーで見学させる許可を部長さんに取ってくれたらしい。なんだかんだで抜け目のない、そして面倒見の良い男である。
 よっお人好し、と脳内で囃しながらギャラリーへと続く階段に腰掛けて一息ついている私の頭頂部に松岡の呆れ声が落ちてくる。

「にしても安土お前、似鳥から聞いてなかったのかよ。昨日あいつが言ってたけど、姉弟みたいなもんなんだろ」
「だってまさか愛一郎が言う、最近転入してきたちょっと怖いけど泳ぎがすごく早くてめちゃくちゃかっこいい、背が高くて赤毛で鮫歯のワイルド系先輩が松岡だなんてこれっぽっちも思わなかったんだもん……!」
「いやじゅうぶん思い至る条件揃ってるだろ!」
「赤毛の鮫歯、流行ってるのかなって……」

 ずいぶんと局地的なブームもあったもんだと流してしまった自分を恨むほかない。あと多分この話をされている時、私の思考は本日の橘くんを回顧するのに容量を割いていたとしか思えない。でもまぁそれなら仕方ないよね、ルーチンワークは大事だもんね、えへへ。いやまぁつまるところ、自業自得というわけである。重ね重ね面目無い。
 ほとんど引き摺られながら退散する最中プールサイドの声を拾った限り、何やら鮫柄の部長さんと竜ヶ崎くんがなにやら揉めているようだった。竜ヶ崎くんが水着を忘れてきてしまったらしく、ごねる彼に予備の水着を着させるべく愛一郎がほとんど無理やり引きずって行ったらしい。申し訳ない竜ヶ崎くん、愛一郎はあぁ見えて意外と強引だし頑固な男なのである。あと存外に力がある。
 しかしおかげでこうして沸騰した脳みそをクールダウンする時間が生まれたのだから、愛一郎にも竜ヶ崎くんにも感謝せざるを得ない。いやまぁこの短いアディショナルタイムで心の身ぐるみを剥がされてしまった私に何ができるかって話なんだけど。

「……あっ、ところでコウちゃんを狙う不埒な輩がいるって噂を聞きつけたんだけどどいつ?」
「どっからその低い声出してんだよ……。あー、部長だよ、御子柴部長」
「あの人か……!」

 竜ヶ崎くんに向けた言葉を聞く限りまともな部長さんのような気がするが、それはそれ、これはこれのため、海馬に赤字でミコシバさんは要注意人物と刻み込む。大丈夫、コウちゃんは私が守る。そこまで気を回す余裕がないだろう実兄に変わって。
 そういえば、電話やメールはしていたけれどこうして直接会うのはスイミングスクールの前で再会して以来だ。無事に水泳部に入ったようだし、ひとまず私がかける言葉は特にないだろう。この入部で何かいい方向に行くといいんだけど、と一段上に腰掛けて私が落ち着くのを律儀に待ってくれているその顔を見上げると、なにやら思いつめたような堅い表情が向けられていて、肩が跳ねた。なに、その顔。ぶつかった視線に、松岡が眉をひそめる。

「……なんだよ」
「いやこっちのセリフなんだけど。何かあった?」
「……いや、別に何もねえよ。それより落ち着いたならいい加減上行くぞ。そろそろ練習も始まるだろ」

 いや明らかに何もなくないよね、と思うが、その背が語ることを拒んでいるように見えて、口を噤んだ。なんだか最近こういうことが増えたような気がしてならない。
 オーストラリアから帰ってきてからの松岡は、心を厚い壁で囲ってしまっている。根っこの松岡は変わっていないはずなのに、その真意を窺おうとするとき、重厚な障壁が邪魔をする。その壁を敷いた原因はきっと、水泳なのだろう。だからこそ水泳から縁遠い私くらいはいつも通りでいようと努めているけれど、それもあまりうまく出来ているようには思えなかった。水を纏わずに生きている私にしか通れない抜け道、隠し扉を探したいのに、触れるものは未だ冷たい壁ばかりだ。実感がない。自信もない。正解が見えないから、これでいいのかも分からない。
 まぁどちらにせよ水泳の話なら私は何も言えないわけだし、そもそも私に言うような話じゃないかもしれないし、と無理やりに納得するのは逃げだと理解している。でも、松岡がそうしたいならそうすればいいと思うのも本当なのだ。私に出来ることはそう多くはないと分かっていても、抜け道を探すことは辞めない。辞めたくない。捻くれ者で不器用な松岡が本当に一人では立ち行かなくなってしまったときに、独りぼっちにしてしまわないように。これはもう、意地だ。エゴだ。独り善がりだ。それでも、私が胸を張って松岡の友人だと言うには、絶対に必要な意地だった。
 立ち上がった松岡に倣って立ち上がり、己に気合いを入れるように残ったジュースを一気に飲み干す。それから勢いよく自分の瞼を擦りにかかった。ごちゃごちゃ考えていても、問題は次から次へと襲いかかってくるのだ。

「……なにしてんだよ」
「ご覧の通り、めちゃくちゃに目を擦っています」
「何故」
「いや多少霞むからさ……直視したらマジで卒倒する……」

 そう、ここを上がったその向こうでは水着姿の橘くんが待ち構えているのだ。タイムリミットは近い。しかし松岡の機転によってギャラリーから見学できるというのは本当にありがたい話である。何がって距離的に。コウちゃんのお隣なんてそんな距離にいたら間違いなく彼を直視などできず、また橘くんに不要な心配をおかけしてしまうところだっただろう。しかしコウちゃんに近付く不埒な輩を威嚇するというミッションも同時並行で解決しなければならないため、その点においてはマイナスだ。ぐぬぬ、難しい。隣にいれば多少なりとも抑止力になれるかもしれないが、しかしその抑止力はこの地において最弱に等しいのだ。ジレンマが胸を渦巻く。
 葛藤する私の顔を見て呆れた様子の松岡が、怪訝そうに首を傾げる。

「でもお前、入ったんだろ。水泳部。毎度そんなんやってんのかよ」
「え? 入ってないよ」
「っ、はぁ!?」
「いやそんな声あげられましても」

 入っていないものは入っていないのだから仕方がない。あくまで私は水泳部の応援団長であり、水泳部ではない。そもそも入部届も出してないし、むしろこのポジションなら応援部に近いのではないだろうか。いや、人数的に応援同好会かな……会長私、副会長私の孤独な同好会だ。だったらもう橘真琴くんを崇める同好会にしよう。流石に名前が顕著すぎるので天使崇拝同好会かな。来たれ同志。

「今回はコウちゃんが心配だから来ただけだよ。だから心の準備は数日前からしてるんだわ……いやまぁ完全に水泡に帰したんだけど……ってちょっと待ってちょっと待って私の前にちゃんといて私を一人にしないで」
「いや重いしお前それほとんど抓ってるっててていってえ!? 変なツボ抓んな! 力弱ぇのにやけに痛ぇんだよ!」

 松岡の腰をほとんど握るように掴みながらギャラリーへの扉を潜ると、再び塩素の匂いに包まれる。縋り付く力を多少弱めて(というか何やら痛いツボに入ってしまっているらしいので少しずらして)広くなった背の向こうを覗き込むと、そこには飛び込み台の上に立つ橘くん。

「ヒェッ待って待って橘くんから泳ぐとか聞いてないんですけど……!?」

 紺地に橙が入った水着に包まれる逞しくもしなやかな肢体。水泳帽を被ったその端から覗くミルクティ色の髪が少し変な方へ跳ねてしまっているところも愛おしい。いやそれにしてもろ、ろ、露出がすごすぎるいや水着だしプールだしどうせなんだけどそして予想としてたんだけどそんな私の貧相な頭からはじき出された予想なんてたかが知れていたと実感せざるを得ない。もはや破壊力がすごすぎて叫ぶこともできない。やっぱりどう見ても宗教画なんですけど……世界的に有名な彫刻なんてはるかに凌ぐ……さすが歩く国宝……。やっぱり私なんかが見るのは烏滸がましいのでは……?
 私のことは放置を決めたのだろう、じっと七瀬の様子を伺う松岡の半歩後ろであ、あ、と意味をなさない母音を零しながらうろうろと視線を泳がせるこちらに、不意に橘くんの視線が向けられる。
 ひら、と手を振って微笑む橘くんに、慌てて手を振り返す。て、天使からのファンサいただきました……!?
 混乱の渦中に身を落とす私にふにゃりと微笑んだ橘くんがゴーグルを嵌めて、鮫柄の部長さんが鳴らすホイッスルの音と同時に、大きなカーブをその背で描きながら水面へと飛び込む。
 ――気付けば松岡の後ろから離れて、引き寄せられるようにバルコニーの柵に手をついていた。

「……橘くんが泳いでる……」

 怒涛の展開に混乱したままの頭では、その引力に抗うことなんて出来なかった。大きな水槽の中、水を掻き分けて進む逞しい背中に視線を乗せる。
 思えば、橘くんが泳ぐ姿をちゃんと見るのは数年ぶりだった。胸にこみ上げるのは感慨深さだろうか。いや、単純に嬉しいだけなのかもしれない。橘くんがこうして泳いでいることが。そしてそこに、橘くんが望むように、七瀬が存在することが。
 綺麗で力強いターン。こちらへと向かって泳いでくる大きな体。その姿を、随分と気の抜けた顔で見つめてしまっていたのかもしれない。隣に並んで柵に肘を置いた松岡が、視線をプールに落としたまま呟く。

「……真琴の専門はバックだ」
「背泳ぎだよね。……うん、知ってる」

 あのリレーでもそうだったもんね、とは言えなかった。橘くんのすぐ近くに七瀬がいる。渚くんもいる。でもそこに松岡がいない寂しさを、言葉にしたくなかったのだ。

「松岡は今日は泳がないの?」
「今日は一年との合同練習だからな。俺は終わった後に自主練する」
「ふうん」

 松岡が泳ぐ姿も見たくなって来ていたので、残念に思い声色が落ちる。それがなんとなく拗ねたような色を帯びてしまって、少し気恥ずかしい。
 難なく五十メートルを泳ぎ切った橘くんが壁に手をつくと同時に準備万端の渚くんがホイッスルの音を受けて飛び込んで行く。彼が飛び立った台の上には、次に泳ぐらしい竜ヶ崎くんが続く。
 それにしてもやっぱりみんな泳ぐの上手だなぁ、と渚くんの泳ぎを見ながら素人丸出しな感想を抱いていると、不意に松岡に名前を呼ばれた。

「……安土」
「ん、なに?」
「お前、もしかして――」

 呼ばれるままに顔を向けると、眉間に皺を寄せた松岡がそっと目を逸らす。何か言い出しにくいことがあるのか、そのツリ目を私から外しながら、もご、と困ったように口ごもる。なに、どうしたの、とその言葉の先を促そうとした私を止めたのは、あまりにも大きな水の音と、岩鳶メンバーの驚愕の声だった。


鳩尾に棲む××


 上がる大きな水しぶき、しんと静まりかえる水面。そして姿が見えない竜ヶ崎くん。
 息を飲んで青褪める橘くんの姿に、足元から冷たいものが這い上がってくる。知らず握ったジュースの空き缶が、歪な音を立てた。

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20190722


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