オルカ・オルカ | ナノ



 おやすみ、と家族に声をかけて部屋に戻るなり、ベッドへと落ちるように倒れこんだ。携帯を横に放り、一つ大きな息を吐いてぼんやりと天井を眺める。
 年度が変わってから怒涛のような日々が続いたから、少し疲れが残っているのかもしれない。体力には自信があったんだけどなぁ、と嘆息する。
 あと一人新入部員を入れて、大会に出る――それが今の岩鳶高校水泳部の目下の目標だった。秋の職員会議で新設の部が部費を得るためには、夏の大会でなにかしらの実績を残すことが必須条件。それはよく分かったけれど、俺はどうしてもハルと凛が気掛かりでならなかった。
 壊され行くスイミングクラブを前に再会した笹部コーチに教えてもらった二人の諍いの理由を、俺はその日まで欠片も知りもしなかった。中学一年生の冬、突如暗澹とした様子で部活を辞めると言い出したハルからその理由を教えてもらうことは終ぞなかったのだ。そうして、寄り添うことだけは許してほしいとばかりに、俺も水泳部を辞めた。
 あの冬、二人は勝負をしたのだという。オーストラリアまで水泳を学びに行った凛に、ハルは勝ってしまった。そして傷付いた凛の姿を見て、共鳴するようにハルの心も傷付いてしまったのだ。その痛みの理由は違うとしても。
 どうにかしたいと思った。未だに消えない傷を抱え続ける二人に、何かしたいと思った。だから凛に部活に入って一緒に泳ごう、なんて電話もしたし、水泳部をきちんと立ちあげるためにできることはなんでもしようと決めたのだ。
 それでも、どうしてもハルに直接確認せずにいられなかった俺は、やっぱり臆病者なのかもしれない。
 凛と再び戦うことになっても、ハルはいいのか。もしまた凛を泣かせるようなことになったとしても――ハルはまた傷付いたりはしないのか。
 滲んでしまった俺の心配を読み取ったハルの横顔には、僅かな罪悪感が浮かんでいた。それからすぐ夕暮れの滲む海へと視線を向けてしまったためそれ以上表情は窺えなかったけれど、それでも凛がまた泳いでいる、それでいいのだと零した言葉に嘘はなかったように思う。

 ――松岡なら、多分そんなに変わってないよ。

 眠気に負けてゆるゆると落ちてきた瞼の裏に浮かぶのは、月明かりを真っ正面から受け止めながら、真っ直ぐにこちらを見つめてそう言い切った女の子だった。
 笹部コーチと再会したあの日、一歩踏み出そうと思いながらも、胸を走る緊張に狼狽えて反射的に服の端を掴んでしまった俺の指を振り払うこともせずに、ここにいて、と願うまま凛に電話をかける俺の隣に寄り添ってくれたあの子は、凛は当時と変わってないと言って、困ったように笑っていた。まるで手のかかる兄弟に向けるような顔で、少し照れ臭そうに。
 俺が知る限り、転入してきた凛と一番距離が近かったのは安土さんだった。水泳という共通点がない二人は、反対に水泳以外の生活のほとんどを共有していたように思う。顕著にべったりとしていたわけではないけれど、それでも男女の垣根を越えた友情を築いているように見えた。少なくとも、小学校時代の安土さんが一番自然体で笑っていたのは、凛の隣だった。きっとそんな彼女にしか見せない、そして安土さんにしか見えない凛がいるのだろう。
 だから、きっと安土さんがそう言うなら、そうなのだ。凛は変わってなんかいない。少なくとも、根っこのところだけは、絶対に。
 ただ、一つだけ気になることがあった。あの時はその先に告げられた、俺たち水泳部の応援団長をやってくれるという優しい申し出に込み上げる嬉しさに押し流されてしまった疑問が、波のように戻って来る。

「……安土さんは知ってたのかな」

 一人きりの部屋に問いかけても、当然返事が返って来るはずもない。
 安土さんは、どこまでハルと凛のことを知っているのだろう。二人の勝負のことは知っているのだろうか。二人の心を苛む傷の理由を。凛はなにかを安土さんに伝えたのだろうか。もしかしたら、安土さんも俺と同じなのだろうか。大切な人のことを何も知らなくて、そんな自分が情けなくて、それでもいつもと変わらない関係でいたくって、その人のために何かしてあげたくて。
 ――だからあんなにあんなにも寂しそうな顔で、水泳について何もわからないのだと笑ったのだろうか。
 安土さんが自覚していたかは分からない。それでも確かに俺はあの時、ほんの一瞬見せた彼女の寂しさを見つけてしまったのだ。
 そんな顔をしないで欲しい。あの夜を思い返せば思い返すほど、強くそう思う。そう思うのに、俺にはやっぱり彼女のその寂しさの理由を把握することが出来ない。理解するには、きっと俺は安土さんを知らなすぎる。
 ――でも俺は、「あの子」に笑って欲しいと思ったんだ。涙に濡れた痛々しい瞳は似合わないと思ったんだ。丸まった小さな背中をどうにかしてあげたいと思ったんだ。
 散漫としたまま睡魔に負けてフェードアウトしていく意識の中、七年前の夕焼けがリフレインする。やけにうるさいひぐらしの声に、女の子の嗚咽が混ざって溶ける。
 ――りん、と小さな鈴が笑うように鳴いた。



 話をしてみようと決めたのは、朝、ハルの家の前で彼が出て来るのを待っている時だった。やっぱり一度、安土さんから見える凛について、そして彼女がどう思っているのか、何かを持て余していないか……とにかく、ちゃんと話をしたいと思ったのだ。
 けれどそんな俺の計画は、一限目から調子の悪そうな安土さんの姿を見て頓挫してしまった。眠気が抜けないのか、それとも体調を崩してしまったのか。心配がひとつふたつと浮かぶ中、ふと目についたのは、彼女の机に広げられたままの真っさらなノートだった。
 安土さんについても、今の凛についても、知らないことはたくさんある。きっと一番身近なハルのことだって、きっと知らないことだらけだ。
 ――でも俺は、安土さんがいつだって綺麗なノートを取っていることを知っている。黒板に書かれない先生の何気ない話もメモしていることも、その字が真っ直ぐ綺麗なことだって、知っている。部活動申請書を渚がもらってきたあの日、一緒に渡してくれたメモだって、一目見て誰が書いたか分かったのだ。
 聞きたいことはある。話したいこともある。知りたいことだってたくさん。でも、なにも今じゃなくたって大丈夫だ。
 やっぱり気分が優れないのか、ついに机に突っ伏してしまった安土さんに時折意識を向けながら、先生の言葉に耳を傾けてノートを取る。いつもよりずっと丁寧に、安土さんを倣うように、いつも真面目に授業を受ける安土さんが、あとで困ってしまわないように。
 これは逃げなのかもしれない。面と向かって聞くのが怖いと、怖がりな俺が顔を出しているだけなのかも。
 でも、今はそれでもいい。だって今の俺はただ、安土さんに笑ってほしい、それだけなのだ。ハルも凛も関係なく、あの夜、寄り添って、向き合って、応援すると言ってくれた――俺の寂しさに気付いて掬ってくれた安土さんに、俺も何かをしてあげたい。
 本当にただ、それだけのことなのだ。


 花を描く


「あ、あ、ありがとう……っ!」

 授業後、調子が戻ったらしい安土さんが、俺の手渡したノートを受け取ってはにかんだ。上手にノートが取れたか自信がなくて少し緊張してしまったけれど、どうやら彼女には伝わらずに済んだらしい。ノートと俺を何度か行き来して嬉しそうに細められた目に、つられて微笑みながら安堵した。
 うん、やっぱり君が笑わないと何も始まらない。

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20190708


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