オルカ・オルカ | ナノ



「合同練習?」
「はいっ! お兄ちゃんのところの水泳部と合同練習出来ることになったんです!」

 えへへ、と嬉しそうに胸を張るコウちゃんが微笑ましくて頭を撫でると、もっと褒めてくださいとばかりに擦り寄ってくる。相変わらずかわいい。本当に妹にしちゃいたい。ただし、そのやり方だけは少しいただけない。存分に褒めながらも、若干声を落として釘をさす。

「でもあんまり危ないことはしちゃダメだからね、コウちゃん。一人で男子校に行くなんて言語道断。友人いわく、男はみんな狼なんだよ」
「はぁい」

 良い子の返事に、また形の良い頭を撫でた。こんなに素直でかわいい妹を単身狼の巣に放り込むなんて、松岡は一体何を考えてるんだ。松岡に連絡しても良い返事は返ってこないことが分かりきっているため、自らその学校の部長さんと交渉しに行ったコウちゃんの敏腕マネージャーっぷりは拍手ものだが、それでこの子に何かあったら私が悲しい。
 私の中のコウちゃんは、今もまだ、あの冬の日の小さな女の子のままなのかもしれない。いや流石にそれは失礼かな……? コウちゃんもこんなに美人さんに成長した訳だし。それでもどうしても妹のように思ってしまうのは、これはもう仕方がない。

「時間があれば付いて行けるし、もし次があったら声かけてね。出来るだけ一緒に行くから!」

 ここぞとばかりにお姉ちゃんぶる私に、コウちゃんがもう一度頷いてから、それなら、とすらっとした指を立てる。

「今度の合同合宿、つばさちゃんも付いてきてくれませんか?」
「……私が?」
「はい! それなら私も女の子一人にならないですし!」
「そっか、橘くんたちが一緒とは言え、半裸の男たちにコウちゃんが囲まれることになっちゃうのか……」
「言い方!」

 きゃん、と吠えたコウちゃんだが、頬を膨らませながらも早速手帳を取り出し、この日なんですけど、と数日後の予定を見せてくれる。さすが敏腕マネージャー、切り替えも仕事も早い。どれどれ、とその日程を見せてもらい、頭の中の予定と重ね合わせる。

「……あっ、うーん、行けなくはないんだけど……」
「何か予定が入っちゃってますか?」
「この間うちに遊びにきた弟分が教科書置いて行っちゃったから、届けに行こうと思ってて。ついでにその子の家に寄っておばさんからの預かりものも受け取ることになってるから、多分この日に行くことになると思うんだよね。とはいえ渡しに行くだけだから、遅刻しても良ければそっちに向かえると思うよ」
「遅れても全然いいです! わぁい!」

 喜色満面で腕に抱きついてくるコウちゃんを受け止めながら、松岡に代わって私が守ろう、と再び決意を固める。胸を満たす使命感に燃えていると、頭上にあったスピーカーから予鈴が落ちてきた。コウちゃんを遅刻させるわけにはいかないので、約束ですよ、と念を押す彼女に何度も頷きながら、自分も教室に向かって駆け出す。
 そこでようやく、目の前に立ちはだかる大きな問題に気付いたのだ。

「えっ、つ、つまり……橘くんの水着姿……っ!?」

 やばい。何度脳内で計算しても、予定日まであと三日しかない。七十二時間で橘くんの水着姿への覚悟を決めろって? えっ? 実質ヴィーナスの誕生、壁画にされるに等しい橘くんの水着姿への耐性をこんな短い期間で身に付けることが果たして可能なのか。

「いや無理だよねぇ!?」
「あんた今の時間ずっとそれ考えてたの?」
「そうだよ! ノートすらろくに取れてないよ! 写させて!」
「コロッケパン」
「非道!」

 授業時間を丸々使って思考を巡らせたものの、どうしたってこんなに短い準備期間で心の準備を整えることなど不可能だという結論にしか至らなかった。しかしコウちゃんのお願いに頷いてしまったのは他でもない私なので、今更断るという選択肢は存在しない。いくら向こうには松岡がいるとはいえ、やっぱり男子校に美少女を一人放り込むのは少し心配だし。

「……写経……? それともシンプルに座禅……?」
「尼にでもなるの?」
「それで解決するなら出家するけど……本当にどうしよう!? 松岡に水着の写真送ってもらって目を慣らそうかとも思ったけど、考えてみたらそもそも別に松岡の水着見ても何も思わないし……」
「マツオカくんにぶん殴られるぞ」

 私もそう思うので、一も二もなく鬼電をしなくて正解だった。英断だぞ、私。
 しかしいくら悪足掻きをしたところで、エックスデーは刻一刻と近付いてくる。既にそうこうしている間に一時間を無駄にしているのだ。もうこれは残りの時間は全て腹を括るために使った方が有益かもしれない。ひとまず橘くんお手製の入部特典イワトビちゃんを見ても悶えないようにするところから始めよう、と国宝(予定)を取り付けたキーケースを鞄から取り出そうとした。したのだけど。

「安土さん」
「ひゃいっ!?」
「ごっ、ごめん、驚かせちゃった……!?」
「だっ、だだだ、大丈夫……!」

 ひょい、と覗き込んできた大天使のご尊顔に、危うくキーケースごと床に這い蹲りかける。危なかった、橘くんに余計な心配をおかけしてしまうところだった。っていうか今の会話聞かれてなかったかな!? 橘くんが教室出てったから話してたんだけど……! なにはともあれ、ばくばくと跳ね上がる心音を押さえつけながら、眉を下げる橘くんに大丈夫だと手を振って見せる。ぶんぶんと大きく両手を振る私にふふ、と微笑んだ橘くんにつられてこちらの頬も溶けてしまう。はぁ、守りたい天使の笑み。

「でも良かった、体調悪いんじゃないかって心配してたんだ」
「えっ、私が?」
「うん、なんだか授業中ぼんやりしてるみたいだったからさ。安土さんいつも真面目にノート取ってるし、心配になっちゃって……あっ、そうだ。あんまり綺麗じゃないんだけど、これ、俺ので良かったら使って?」

 まさか「貴方の水着姿の破壊力について長考していたからです」とは言えずに言葉に詰まる私に手渡されるノートを反射的に受け取ってしまい、硬直する。えっ、もしかしなくてもこれ、大天使の直筆ノート? えっ。いやしかももう既に心配をおかけしていたよ私の大馬鹿者、って、えっ!?
 状況が飲み込めない私の肩に手を置いた友人が「良かったじゃんつばさ、実は私も今の時間居眠りしてたからさ」などと述べて退路を絶ってくる。いや絶対それ大嘘じゃん!? コロッケパンで貸してやるとか言ってたじゃん!?
 しかしにこにこと朗らかに微笑む橘くんの善意を無下にするなんて選択肢が私にあるはずもない。

「あ、あ、ありがとう……っ!」

 いつにも増して吃ってしまったが、橘くんは相変わらずに蕩けるような笑みでうん、と大きく頷いてくれる。同時に心底邪念に満ちた心配事で彼に思案させてしまった己を再び悔いるが、それは私に一つの決意を抱かせた。
 次こそ橘くんに無駄な心配をおかけしてはならない――つまり次のエックスデーに醜態を晒すことなどあってはならない!
 冷静に考えれば考えるほど勝率の低すぎる戦いへ向けて発心する、私の運命やいかに。


砂糖菓子の骨


 それにしても。拝領してしまった橘くんの直筆板書を書き写しながら、恐れ多くも彼のノートをそっと観察する。
 橘くんはあんまり綺麗じゃない、なんて謙遜していたけど、すごく読みやすいし丁寧だ。おそらく黒板には書かれなかったと思われる先生の発言も端に書いてあるし、私がすっぽかしてしまった一時間がここにしっかりと詰まっている。流石橘くんだ……前回の板書の文字が眠気からか少し歪んでしまっているのも尊くて仕方がない。
 もしもどこかで橘くんが困ってたら、今度は私がノートを貸してあげよう。そのために、今度からはもっと読みやすいノート作りを心がけよう。
 あぁ、こうして他人の向上心すら良い方に動かすのだから、本当に橘くんってすごい。

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20190704


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