「言わなくちゃ分からないこと、かぁ」
日中の松岡との電話やコウちゃんとの再会を思い出しながら、手にしたリードをぎゅう、と握った。もはや日課となっている天むすの散歩、その歩き慣れた散歩道、使い慣れた赤いリードの先を歩いていた天むすがこちらを振り向き、くぅん? と小さく鳴く。いかんいかん、顔に出てたか。なんでもないよ、の意を込めて、立ち止まった天むすの頭を豪快にわしゃわしゃと撫で回した。
満足げに鼻を鳴らす天むすのその向こう側に、取り壊しの始まった、橘くんたちの通っていたスイミングクラブが電灯に照らされてぼんやりと浮かび上がっている。必然的に橘くんの顔が浮かんでしまってまた気分が落ちると同時に、松岡に言われた言葉がリフレインした。
そうだ、アイツにも言いたいこともたくさんあるけれど、それすらも言わなくちゃ分からない。それだけは確かだ。なんて当たり前のことだろう。それでもその当たり前が、時にはこんなにも難しい。
よし、と気合いを入れるように、自分の頬を叩く。明日はちゃんと、話をしよう。しなくちゃ駄目なのだ。だって私が、橘くんの笑顔を曇らせてしまったのだから。
そうと決まれば、くよくよしてはいられない。きっとノープランでぶつかりに言っても橘くんを前したら硬直してしまうだろうから、何から話すかをあらかじめ考えて整理しておかなければならない。天むすの頭を撫でるために曲げていた腰を戻して、あどけない顔に笑いかける。
「お待たせ、天むす。んじゃ行こっか!」
「わんっ!」
なんとなく雰囲気を察したらしい天むすが一声鳴いて、尻尾をぶんぶんと左右に振る。愛いヤツめ、とこちらも気分を良くし、天むすから正面へ向き直る。
瞬間、私はつい今したばかりの決意もどこへやら、ぴしりと固まってその場に立ち尽くした。
スイミングクラブの前に立ち尽くす、大きな背丈に柔らかなミルクティ色。薄暗い夜道でだって、間違えるはずがない。
「た、橘く……んんんっ!?」
きっと壊され行く思い出のスイミングクラブを見にきたのだろう。ノスタルジックな橘くんもなんともたまらん――って、そうじゃなくて……!
反射的に口にしてしまった彼の名前が裏返る。街灯に照らされスイミングクラブに思いを馳せながら憂いを帯びた表情を浮かべる橘くんに話しかける、ピザ屋のスクーターに乗った男。
私の頭に、数日前の天ちゃん先生の言葉が過ぎる。
(まっ、まさか今度こそへへへ、変質者……!?)
そういえば松岡との再会ですっぽりと頭から抜けていたが、未だ春ど真ん中、あたたかさに頭の沸いた変質者が出る可能性はゼロではないのだ。それにもし変質者じゃなくても、ナンパの類かもしれない。なんせ橘くんの人を癒すオーラは男女問わず作用する。だって橘くん天使だし。そして困ったことに、非常に困ったことに、彼には危機感というものが全くないのだ。無自覚さんなのだ。いやそこがまた天使なんだけど……!
なにはともあれ、突然の橘くんご本人の登場から混乱しっぱなしだった私の脳内は、目の前の光景にその混乱が頂点に達した。エマージェンシーエマージェンシー、橘くんがピンチである! 混乱しきった脳内で、私が弾き出し取った行動は。
「ててて天むす、ゴー!!」
リードを離した私の声に、わんっ! いい子に待っていた天むすが良い子の返事をするなり、彼女の黄色い巨体は飛び出して行く。ぐんぐんと距離を詰める天むすの声に気付いた橘くんのエメラルドの瞳が、こちらを向いた。
「え、あれ、天むす……ってことは安土さん?」
「わんわんっ!」
「ん? 何だこの犬ってうわあああああ!?」
「さ、笹部コーチ!?」
あ、あれ?
怪しい男性に飛びかかった天むすに、二つ分の悲鳴があがる。スクーターが倒れる音……って、え? コーチ?
しばし現状を脳内で噛み砕いて、……そしてようやく理解して、愚かな私は青ざめる。
「て、天むす待って! 待ってええ!」
男性にのしかかっている天むすに慌てて駆け寄る私の叫び声が、夜道に響いた。
「あははは! ふふ、あは、」
「め、面目ないです……」
口元に手を置いてくすくすと思い出し笑いをする橘くんの隣で、私は羞恥と反省ですっかり小さくなっていた。私が天むすをけしかけた男性は笹部さんという、あのスイミングクラブで橘くんや七瀬たちのコーチだった人だった。昔を懐かしんでスイミングクラブを見に来て、偶然再会した橘くんと思い出話に花を咲かせていたらしい。
あの後天むすを無理やり引き剥がしてすみませんすみませんと平謝りする私に、笹部さんは「気を付けてくれよ!」と言いながらも許しをくださった。まさか変質者と勘違いしたとは言えない。絶対言えない。ちなみにお詫びに今度笹部さんが働いているというピザ屋さんで一枚注文する約束をした。次に弟分が来た時にはピザパーティだ。松岡も呼ぼう。
そして今、笹部さんと別れた私たちは、並んで海沿いの道路を歩いている。
えっ、一体全体どうしてこうなった……というのも、橘くんが天むすの散歩のお供を名乗り出てくれたのだ。
橘くんが有象無象にも気を回してしまう大天使さんだと言うことは周知の事実であるし、日夜(……日夕?)プールの修繕に励んでお疲れなことも知っていたので迷惑をかけまいと断ろうとしたのだが、なんと天むすは大喜び。この間で随分と懐いてしまったらしい。リードを咥えて橘くんを期待に満ちた目で見上げるし、橘くんはもうやる気まんまんで。突然の出来事に思考が停止した私が、天むすの背を撫でながら「だめかな……?」なんて首を傾げる橘くんに勝てるはずもなく、気が付けば反射的に頷いていたのだった(まあ仮に思考停止していなかったとしても、橘くんのお願い事を断るなんてできなかったに違いないけれど)。
ちらりと隣に並ぶその背を横目で窺えば、天むすのリードを握ってゆっくりと歩く橘くん。頭一つ分小さな私に歩幅を合わせてくれているのが分かって、なんだかむず痒い。
でもこれは、チャンスでもあった。お昼の橘くんの寂しそうな顔と、松岡のあの言葉がリフレインする。
そうだ、言わなくちゃ、違うよって。
私は意を決して拳を握り、そしてややしてようやく重い口を開く。
「あっ、あの、橘く……」
「安土さんごめんね、ちょっとだけ電話してもいい?」
「あ、う、うん! ももももちろん!」
「あ、ご、ごめん! 今何か言おうとしてたよね?」
「いや、あの、で、電話終わったらでいいよ!」
ぶんぶんと大きく手を振る私に、橘くんは小首を傾げて「本当にいいの?」と眉を下げながら問いかけてくるなにこれかわいいつらいかわいいつらい。日中にお日様の下でまともに見ていたら蒸発していたかもしれない。誰がって私が。橘くんの天使さを噛み締めながらぶんぶんとこれまた大きく頷くと、橘くんはふ、と優しく笑ってくれる。
橘くんの長い指が携帯を取り出して、目当ての番号を探し出すさまをぼんやりと眺める。誰にかけるのかな。あ、ていうか私がいたら話し辛いんじゃないかな。天むすのことも任せてしまったままだ。
橘くんの邪魔をしてはいけない、と彼の手から天むすのリードを受け取って距離を置こうとした――のだけれど。
「え、」
くい、と引かれる服の裾。それは弱い力だったけれど、私をそこに引き止めるには十分すぎた。橘くんの節くれ立った指が、きゅ、と私の服の裾を握っている。恐る恐る彼の顔を窺うと、迷い子のような瞳がじっとこちらを見つめていた。薄い唇が、言葉を象る。
ここにいて。
――ぶわっ、と、顔に熱が集まったのが自分でも分かった。感覚的にはあれだ。全身の毛穴をぶち開けたみたいな、そのくらいの威力がこの些細な行動に含まれていた。なんてこった。橘くんマジ最終兵器(リーサルウェポン)。完全に硬直した私はギギギ、と出来の悪いからくり人形のように、それでもどうにか頷いて見せる。すると橘くんは途端に安心したような顔をして、それから僅かに聞こえるコール音の後、口を開いた。
「……凛? 俺だよ、真琴」
……松岡?
予想だにしていなかった通話相手に俯きかけていた顔をぱっと上げると、彼の穏やかな目元が再びこちらを向いた。星空の下、月を背に懐かしむように唇を動かして穏やかな声を吐く橘くんはまるで月から降りてきたかのように綺麗で、無意識に視線が惹き寄せられ、縫い止められる。
「俺達さ、部を創ることにしたんだ。だから――凛も水泳部に入れよ。どこかの大会で、また一緒に泳ごう」
「わんっ!」
「あ、こら、天むす……っ!」
まるで橘くんに返事をするように高らかに吠える天むすに、慌てて静止をかける。いかん、確実に声入った。しかし橘くんはやっぱり笑みを浮かべたまま、そのまま電話を切った。間の取り方からして、相手は留守電だったのだろう。でもきっと、松岡はこの留守電を聞いているに違いない。なにせヤツは、素直じゃないかっこつけ男だ。……一応あとでちゃんと聞いたかメールしよう。もちろん水泳部に入るか決めるのは松岡だけど、コウちゃんにもちゃんと返事をするように言わなくちゃいけないし。
携帯をしまってようやく、ふ、と橘くんの目尻が落ちた。きっと緊張していたのだろう。
「ありがとう、安土さん」
「え!? いや私何もしてないっていうか、むしろ天むすの声入っちゃったし……!」
「あはは、そんなの全然いいよ。……今の電話の相手さ、凛、なんだけど」
「う、うん……?」
「凛さ、オーストラリアから帰ってきてから、変わっちゃったでしょ? それで……」
ぎゅ、と私の服の裾を握ったままの橘くんが、寂しげな色を瞳に宿して言葉を濁す。何を続けようとしたのかを必死に考えるけれど、私には分からない。分かるのはきっと、七瀬たち、水泳に携わっている人だけだ。
だから、私に言えるのはやっぱりこれだけだ。
「松岡なら、多分そんなに変わってないよ」
「え?」
「あいつ、小六の時からかっこつけだし、変なとこ素直じゃないし、度が過ぎるくらい負けず嫌いだし。確かに今の方がスレてはいるし、いろいろこじらせてたりはするけど、でも、多分根っこは全然変わってない、……と、私は思う……です……」
当然ながら流石に「それに橘くんについての話も聞いてくれるし!」とは言えなかった。無理に決まってるわな。何だか熱弁している自分が恥ずかしくなって、語尾が沈む。しかしこれは間違いなく、私の本音だった。
ぱちくり。橘くんのヘーゼルの瞳が、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。それから。
「……だね」
へにゃりと橘くんが目を細めて、同意をくれる。ゆるゆると溶けるヘーゼルの中に寂しさは見当たらなくて、私はほっと安堵の息を吐いた。やっぱり橘くんが寂しいのは、嫌だ。
だからこそ、私は今、言わなければならない。意を決して、ぎゅうと強く拳を握った。
「あ、あのね、橘くん!」
「うん?」
「わ、私、水泳部に誘われたのが嫌だったんじゃなくって」
ああもう、文脈も脈絡もあったもんじゃない。それでも橘くんは私が述べたい、数日前の会話のことだと察してくれたらしく、うん、と優しい相槌を打って話の続きを促してくれる。
ああやっぱり、橘くんは優しい。優しすぎる。だからこそ私は、この優しすぎる人を悲しませたくなんかないのだ。
「あの、お恥ずかしながら私、水泳について何も分からないんだよね。だからきっと、私よりもきっと見合った人がいると思って」
「うん」
「でもね、誘われたことは本当に、本当に嬉しかったの。だ、だからね、その……」
そう、あの時、私は嬉しくて仕方なかった。地に足がつかないくらい嬉しくて嬉しくてたまらなかったのだ。だからこそ、伝えなくてはならない。
ああもう、手が震える。手汗が滲んできたし、なんだか足も震えてきた。でも、でも。安土さん、と朗らかに笑いかけてくれる大好きな笑顔を曇らせてしまったのは私なんだから、私がどうにかしなくちゃならないのだ。息を吸って、それから一気に言葉を吐き出した。
「わ、私、――水泳部の応援団長でもいいかな!?」
……ん?!
あれ? 私今なんて言った?
私の足元にお座りをして静かに待っていた天むすに視線を向けるが、ヤツはきょとんと首を傾げるばかりだ。ご飯はもうあげたでしょ、って違う違うそうじゃないそうじゃない。
私は確か、「応援してるね!」とかさらっと言いたかった筈なのだ。でも、あれ? 私の記憶が確かならば、応援団長とか言わなかった? あれ? どうしたの私? バグったの? いよいよ?
そもそも、最初に渚くんからのお誘いを断ったのは私なのだ。それなのに今更応援団長だなんて、あああ、なんて虫のいい話だろう。
握った拳が汗で滑る。呆れられても仕方ない。どうしよう、とどうしようもないことをぐるぐると考え込む。
――そんな私を思考の海から引きずり出す、大きな手。
「っえ、」
「ほ、本当に!?」
きらきらと、星空を背に輝く水晶のような瞳に、一瞬で目を奪われた。眩い星々がその瞳に散りばめられて閉じ込められているような錯覚に溺れる。
私の指先まで冷え切った右手は、ぎゅうと覆うように、大きな両手に包まれていた。じわじわと侵食してくるあたたかな体温。緊張に握った拳から、ゆるゆると力が抜けていく。
世界が、翡翠に染まる。
「あ、の、でも、いいの? わ、私、」
「全然いいよ! 俺、安土さんが応援してくれるの、本当に嬉しいよ!」
ありがとう、安土さん!
そう言ってふわりと笑った橘くんの笑顔は、いつも見せてくれる素敵なそれよりもさらに素敵で、綺麗で、背中の大きな丸い月もきらきらの星も霞んで見える程で、私は目を奪われて立ち尽くす。脳裏に焼き付いて離れなかった、あの寂しそうな顔が塗り替えられる。橘くんが笑うだけで、今にも泣きそうになってしまう。
膝から崩れ落ちそうな衝動に耐えながらぶんぶんと首を縦に振ることしかできない私に、橘くんがまた嬉しそうにはにかんだ。
ああ、もう誰か助けて。糖分過多でしんじゃいそうだ。
さて、ここで問題です。今私の目前にある大問題は何でしょう。
正解はそう、握られた(というより包まれてるに近いなんなんだろ橘くんはこんなところまで気を使っちゃうのかなんたる大天使)ままの手である。手汗よ止まれ今すぐ止まれ。今なら手の甲からすら手汗が出そうだけど生きろいやむしろ仮死しろ私の汗腺。
-------------------
20140506
201906 加筆