オルカ・オルカ | ナノ





 オーストラリアに行った兄の様子がどこかおかしいことに、私は随分と前から気が付いていた。本人たっての希望とはいえ、飛行機に乗り海を越えて遠い遠い異国の地へ行ってしまったあの日、その背を見送りながら「もうお兄ちゃんに二度と会えないんじゃないか」なんて幼心に思ったものだ。もちろんそんなことはありえなくて、たまのエアメールにはきちんと返事が届いたし、毎年年末年始にはちゃんと実家に帰ってきた。けれど、どうしてだろう。年々私は、大好きな兄がどんどん遠くなっている気がしてならなかったのだ。
 その度に私はその恐怖心を取り払うべく、兄にとって最後の小学生の冬、あの忘れがたい大会のことを思い出した。チームメイトに駆け寄る兄の笑顔。網膜に焼き付いたその光景を思い出せば、少しだけ不安は和らいだ。
 それと同時に私の脳裏に浮かぶのは、兄の隣でけらけらと笑う少女だった。少女、と言うには語弊があるかもしれない。何せ彼女は私の一つ上、兄の同級生だったから。でも私の中の彼女の姿はあの小学生の時のまま止まっているから、少女という他なかったのだ。

 初めてその人に会った時、私は咄嗟に兄の背に隠れたことを覚えている。岩鳶に編入するため家を離れ祖母の家に下宿している兄を尋ねたら、なんとその隣には見慣れない女の子がいたのだ。実家にいた時は男の子とばかり遊んでいた兄が女の子とそんなに親密にしているなんて想像もつかなくて、「まさかお兄ちゃんの彼女!?」なんて混乱した私は、反射的に兄の影に隠れてしまった。
 そんな私に嫌な顔ひとつせず、その人は瞳を輝かせて、興奮気味に兄に問いかけた。

「ちょっと松岡、なにこの子めちゃくちゃかわいいんだけど!」
「あーこいつ、妹の江」
「ああこの子が!」

 いいなあ妹、と零しながら、その人はしゃがみこんで、おずおずと兄の背から顔を出す私に、何故かぐるぐるに包帯が巻かれた手のひらを差し出した。その姿が、目に焼き付いて離れない。

「初めまして、江ちゃん! 松岡のクラスメートの安土つばさです。よろしくね! あともしお兄ちゃんにいじめられたりしたら、お姉ちゃんがぼこしたげるからいつでも任せてね!」
「テメエェ……」

 青筋を立てる兄をむしろ煽るようにけらけらと笑うその人に、私は呆気に取られていた。
 大きな笑顔だと思った。そしてなにより、その笑顔がどこか、大好きな兄に似ていると思った。だからだろうか、私はその瞬間にはもう警戒心なんて溶かされていて、気が付いたら時には、その差し出された手を強く握っていたのだ。

「江じゃなくて、コウって呼んでください!」
「あっ、ごめんねコウちゃんちょっと痛い!」









 つんと痛む鼻をすん、と鳴らしながら、頬を寄せる彼女のカーディガンを握る。四年振りに再会したその人は、あの頃と何も変わっていなかった。突飛な行動も、大きな笑顔も、冗談交じりの挨拶も、私をコウちゃんと呼ぶ、その穏やかさも。それがまた、私の涙腺を刺激する。
 安心、したのだ。
 どんどんと変わっていく兄と共に、だんだんと私は、あの頃の記憶が色褪せていってしまう気がしてならなかった。それが何よりも怖かった。それでもこの人はあの日と変わらない笑顔のまま、私の頭を撫でてくれる。励ますように、優しく慰めてくれる。
 大丈夫、と繰り返す彼女の声は、魔法のように私の心を解きほぐしていく。それがどこか自分に言い聞かせるような色を含んでいることには、気付いていたけれど。

「つばさちゃん、」

 口をついて出たのは、あの日と変わらない彼女の呼び名だった。あの日、コウ、と呼ぶ代わりに提示された通りに名前をなぞれば、彼女は嬉しそうに返事をしてくれた。

「なあに、コウちゃん」

 返ってくるのは、大好きな声。相変わらず嬉しそうに、この人は笑う。それにまた、じわりと目の奥が熱くなった。
 きっと彼女は、兄の前でもそうなのだろう。変わらず兄にちょっかいをかけて、変わらず兄と接して、変わらず兄を不器用に心配して、変わらず兄に笑いかける。そんな彼女の前でなら、その間だけでも、お兄ちゃんは昔のように笑ってくれるのかな。

「これからも、お兄ちゃんをよろしくお願いします」

 お兄ちゃんの笑顔が見たい。大切な仲間たちとリレーを制したあの日、水泳が楽しくて仕方ないと全身で語ったときのように。そして、なんでもないような取り止めもない話を交わしていた、あのい草の匂いのする空間のように。
 そのためにはきっと。
 私の申し出に、彼女は一瞬のだけ、困ったように眉を下げた。

「……私には、松岡が変わったとは思えないんだよね。それはきっと、私が水泳に関わってないからだと思うの」

 どきりとした。
 一瞬だけ、そうなんじゃないか、と思ってしまったから。確かに兄はきっと、水泳のことで何かしらの悩みを抱えているのだろう。だって自分の兄の中心はいつだって水泳だったから。
 けれど私の頭はそんな思考をすぐに否定した。そうだったとしても、それでもきっと、お兄ちゃんは。
 否定を口に出そうとした私は、けれどそれを飲み込んだ。だって彼女が、「でも、」と続けたから。
 あの日のように、あまりに鮮やかに笑ったから。

「いつも通りでいいっていうことなら、私にお任せあれ!」

 どうせ本人には門前払いされるだろうけど無視だ無視、と意地悪げに笑いながら、彼女が私の手を取って立ち上がる。温かな手のひら。それがかつての兄に重なってまた少し切なくなった私を、今だけどうか、許してほしい。


プレパラートで遊泳


 ありがとうつばさちゃん、と手を引かれながら口にしたら、コウちゃんにはお姉ちゃんぶりたいんだよと照れ臭そうに笑った。
 本当は私だって、今でもつばさちゃんのことを本当のお姉ちゃんみたいに思ってるんだよ、なんて、前を行く背中には恥ずかしくって言えないけれど。


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20140420
201906 加筆


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