オルカ・オルカ | ナノ






 街灯よりも月明かりの方が目立つ、海を臨める道路の上。まるで月からの使者のように、その煌々とした光さえも霞ませる笑顔を浮かべた橘くんの顔が私のすぐそこにあった。ああ、本当に良かった。橘くんが笑っている。もうあんな寂しそうな顔なんかじゃない。良かった、今日はいい夢が見れるハズ――ってそうじゃない!
 いや間違ってないけど、今はそうじゃない……!
 現実逃避のように思考が移りそうになる自分を制しながら、大きな手のひらに包まれる己のそれへと視線だけをちらりと落とす。単純な時間にしたら、そう経ってはいないに違いない。しかしもう既に、私の心臓と汗腺のキャパシティは臨界線ぎりぎりだった。
 橘くんの手を振りほどくことなどそもそもこの私に出来るはずもなく、けれどこのままだといつ心臓が口からぬるりと出てきてしまうかも分からない。そんなグロテスクな女を橘くんの瞳に晒してはならない。どうにかこの場を切り抜ける糸口を探す私を救ったのは、救世主の一声、もとい、一鳴きだった。

「わんっ!」
「あ、ご、ごめんね天むす放置してて! じゃ、じゃあ橘くん、私そろそろ行くね!」

 ナイスタイミングだ天むす様! 明日少し豪華なおやつ買ってきてあげるからね天むす様!
 しびれを切らした天むすの声に、橘くんの意識がそちらに向く。自然と緩んだ手のひらに、ここぞとばかりに天むすのリードをもちあげてアピールをする。明日も学校だ。私は良くても、橘くんの帰りが遅くなってしまってはいけない。いや、おねむな橘くんも間違いなくかわいいんだけどね? それはまた別腹だけどね?

「も、もうそろそろ婆ちゃんの家近いし、遅くなっちゃうからここまでで大丈夫だよ! 橘くんも気をつけて帰ってね! また明日!」

 こんなに迅速かつ噛まずに舌を回せたのかと自分でも驚くほど早口でまくし立てて、勢いのまま駆け出した。今ならアナウンサーになれる気すらする。心臓が口から出かけてる女を採用するかは置いておいて。私なら絶対落とす。
 私が走り出せば、天むすも目を輝かせてすぐ私の前に躍り出てぐいぐいと私を引っ張ってくれる……というか寧ろ引きずっていく。いや限度! 速い速い速い! うっかりリードを離してしまわないように必死にとろくさい足を動かす私の背中に、彼の跳ねるような声が飛んでくる。

「安土さん、今日は本当にありがとう! またあした!」

 反射的に振り返ると、そこには大きく手を上げた彼の姿。遠目でも分かるその柔らかい笑顔に、さっきまで包まれていた手がまた熱を帯びた気がした。







「……ってなことがあってとりあえず今この手をどう保存すればいいのか真剣に悩んでるんだけど、松岡はどう思う? ところで話は変わるんだけどホルマリンてどこに売ってるか知らない?」
「一応聞くけどそれ話変わってねえよな? お前今にプラスしてヤンデレ属性とかマジで手に負えないってレベルじゃねえから悪いことは言わん。やめとけ」

 受話器の向こうから届く萎えきった声に、今頃顔を顰めているだろうヤツの顔がありありと浮かんだ。すごいや、もうこれテレビ電話とかいらないわ。僕らはいつも以心伝心だね! やったね凛ちゃん!
 あれから天むすを婆ちゃんちに帰して無事帰宅を果たした私は、晩御飯を食べてもお風呂に入っても歯を磨いても上がりきったテンションを鎮めることが出来ず、結果ご覧の通り、ベッドでのたうち回りながら松岡に電話をかけている。ちなみに一回電話しても無視されたから鬼電させていただいた。松岡が出たのは五回目のワンコールで、もしもし、と言う前に飛んできた第一声は巻き舌気味の「うるっっっせえ!」だった。気持ちは分からんでもないが今日ばかりは許してほしい。今日だけとは言ってないけど。
 まあそれでも、出てくれるあたりが松岡の甘いところだ。なんて現役JK渾身のデレを発揮したって、「お前が出させたんだろうが!」なんていうこれっぽっちもかわいくない言葉が返ってくるのは分かりきってるから言わないけど。一言でまとめてしまうと、松岡はツンデレなのだ。

「まあでも確かにヤンデレはタチ悪いからやめとくわ。でも分かるでしょ? 松岡だって今目の前にイエスキリストが現れてヤアマツオカクンキミノオウエンサイコウニウレシイヨ! って言って握手してくれたらこうなるでしょ? そんな感じ」
「いや俺別にキリスト教徒じゃねえしそんなメシアやだし。あとお前流石にイエスキリストと真琴横並びにすんのはやめとけ本職に殺されんぞ」
「異教徒狩りってか?」
「いつの間にお前の中の真琴はそこまでいっちまったんだよ……」
「私一神教なんだよね」

 我ながら上手いこと言ったと思ったのだが、どうやら電話の向こうの松岡には何一つ伝わらなかったらしい。溜め息ばかりを返してくるヤツにもどうにかこの気持ちを伝えたくて、今日はもうとっくにキャパオーバーの頭を巡らせる。

「あ、分かった! 松岡で言うと、グラビアアイドルの堀北マイちゃんと手を繋いだ感じだ!」
「いやいやいや待て待て待て待て、何で俺がグラビアアイドル好きってことになってんだよ!」
「だって松岡おっぱい星人じゃん?」
「お前そのうちマジで泣かすからな」

 割とマジにドスの聞いた声が返ってきたので、素直に「ウィッス」と答えると、今回最大の溜息が吐き出された。どしたの松岡、幸せ逃げるよ?
 そこでふと、日中のコウちゃんとのやりとりを思い出した。すっかり落ち込んでしまっていたかわいい妹分。というかそう、思わぬサプライズに見舞われたことから予定が狂ってしまったが、そもそもはコウちゃんの相談事を解決するためにこうして電話をかけようとしていたのだ。

「あ、そうだ! で? どうなってんの?」
「あ? なにがで?だよ」
「なにがって、コウちゃんのこと! メール返してあげなよ、コウちゃん泣いてたんだけど! あんまり虐めると本気で貰っちゃうからね! それから橘くんのメッセージも! ちゃんと聞いた?」
「あー! うるせえ! ほっとけお前には関係ねえだろうが!」

 ぐさり。……あれ。
 別に、今までと変わらない軽口のはずだった。私もそうだし、松岡だってそのはずだ。それなのになぜだか肋骨の下の方に違和感を感じて、無意識にそこに手を当てる。じくり。あれ、何で。だってこれ、昨日も感じたやつじゃん。橘くんが寂しそうな顔をした時に近い痛みが、ぎちぎちと心臓を締め上げる。
 突然黙った私に不審感を抱いたのか、耳に当てた機械の向こう側の松岡が「……安土?」と訝しげな声で私の名前を呼ぶ。なんだかそれが癪で、訳の分からない気持ちを持て余した私は形が変わるくらいベッド脇の抱き枕を握り締めて、八つ当たりのように吠えたのだった。

「もーバカ! 松岡のおっぱい星人!!」









「……って言ったらいきなりぶっち切られた訳よ。酷いよね?」
「私はそのマツオカって人に同情するしかないんだけど」
「ナンデ!!」

 場所と時は変わって、放課後の教室。なんだかんだあれから落ち込んでいた私をそれなりに心配してくれていた友人に橘くんとのあれこれから松岡との電話に至るまでの一部始終を報告すれば、真顔で返ってきたのはあまりに無慈悲な一言だった。バッサリだよ! 酷すぎない?! 全力で抗議する私を、友人が生ごみを漁るカラスを見る目で見てくる。あ、はい、調子に乗りましたスミマセン。
 ちぇー、とふてくされる私に、でも、と友人が続ける。

「良かったじゃない、橘が喜んでんなら。アンタだって嬉しいんでしょ」

 それはまあ、そうなんですけどね。
 橘くんの煌めく笑顔を思い出して一人にやける私にすかさず「キモい」とこれまた慈悲のない罵倒が飛んでくるけれど、そんなものも気にならないくらいに無敵な気分だった。彼の笑顔は魔王の攻撃すら被ダメージを1にする程の能力を持っているのだ。ふはは、と調子に乗って高笑いする私に友人がまた毒攻撃をしかけようとして、しかしそれは、勢い良く開かれたドアの音によって封じられた。

「っ、あ、良かった、まだいたぁ! 安土さん!」
「へぇ!? た、橘くん!?」

 私が彼の声を聞き間違えるはずもない。首の関節をいわしかけるほど勢い良く顔を横に向ければ、ドアを開けたのは紛れもなく、ジャージ姿の橘くんだった。
 ぱあっ、と花が咲いたような笑顔が真っ直ぐにこちらに飛んできて、ぐらりと目眩がする。上のジャージは腰に巻かれていて、つまり今、彼の上半身は無防備な薄い体操着のみだ。よほど急いで走ってきたのか、髪や頬を伝うきらめく汗。剥き出しの鍛えられた二の腕。てか体操着薄すぎない!? 汗で、す、透け、いやいやいや落ち着け落ち着くんだ私今こそ腹式呼吸だひっひっふーって待て私は何を産むんだ。橘くんへの崇拝かな。それはもうニワトリのごとく毎日しっかり産まれてるんだけどなってそうじゃない! 間違ってないけど今はそうじゃない! いや間違ってんのかな?! ってかこのくだり昨日もやった!
 っていうか、あれ? 私のこと探してた? な、なんで?
 予想外の橘くんの登場と呼ばれた名前に驚いて固まる私に気付かずに、橘くんはこちらに向かってきて友人になにやら交渉をはじめる。ごめんね、安土さん借りていい? どうぞどうぞ連れてって――ってこら?! あまりにあっさりと売り飛ばした友人を売り飛ばした友人(ええいややこしい!)に顔を向けると、ヤツはにやにやと笑いながら「いってらっしゃ〜い」と緩く手を振った。いや薄情過ぎる!

「急にごめんね、あっ、時間とか大丈夫?」
「ううん全然まったく一切合切大丈夫! 気にしないで!」

 ……まあ、私が橘くんのお願いを断れるわけないんですけどね! だからこそ友人が最後の頼みの綱だったのに! ばか!
 心の内で罵詈雑言を吐くと、橘くんに見えない机の下からつま先が飛んできた。ごめんなさいごめんなさい。突然友人に謝り始めた私に、橘くんが首を傾げる。なんでもないです!
 誤魔化しながら荷物を纏めて立ち上がると、腕をとられた。ってえ? 腕を? とられた? 誰に? なんて、答えは勿論一つで。

「じゃあ行こう!」
「行くって、え、んんん!?」
「お疲れさーん」

 何がお疲さーんだ! 他人事だと思って! なんて考える余裕はない。引かれる腕。前を行く大きな背中。
 近いとか軽く(昨日と同じ、包まれるに近い強さだ優しいさすが橘くん)引かれる腕が熱いとか、急にどうしたの、とか、言いたいことはたくさんある。
 でも結局、こちらを振り返った彼の逸る気持ちを抑えられない子供のような笑顔を見てしまえばじんわりと心が華やいで、もうなんだっていいかな、なんて思ってしまうのだ。


ライナスの毛布


 でもこのままじゃ死んじゃいそうだから早く目的地に着かないかなとは思うけど! ね!


---------------------
20140715
201906 加筆


BACK
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -