▼ 帽子と買い物、一
背筋がキンッキンに凍りつき、ほとんど実情を爆発させたあのランチタイムから暫く経ち、私はいつも通り首領秘書としての職務を務める日々を送っている。
何も変わらない。
今日も森さんはエリス嬢に甘々の笑みを向けながら何十着ものスカァトやらワンピィスやらドォレスやらを着せている。そんな森さんをいつも通りエリス嬢は何処で覚えてきたのと聞きたくなるような暴言を吐いて精神的に殺しにかかっているし、私はそんな光景を眼福に感じながら見つつ隣に置かれた報告書の山をせっせと片付けている。
そう、何も変わらない。
そんな午後。
何処か他人事のような日々。
こっちの世界に来てから、もうかなり経った。
未だ元に帰る手がかりは何も見つかっていない。
…まあそう本気出して探してないってのも事実だけど。
いやーだってこういうトリップものって時が来たら帰る系でしょ?
幾ら足掻いたところで早く帰れる訳でもないだろうし。
本音言うとこの世界、超楽しみたい。
無いと思っていた異能力も森さん公認の上、如何やら在るみたいだし。
……まあ思い描いていたような戦闘に使う類じゃないと言うのは実に残念ではあるけれど。
でもでも、タイムトラベラーよ私!
過去を遡って未来を修正するだなんて、何それ素敵。
使い用によっちゃあ、それなりに楽しめそうだ。
森さんと自分の力について話して以来、自分でそれなりに練習のようなものをしている。
異能力を使うってどんな感じなん?って思ってたけど、案外すんなり巻き戻ることが出来た。
イメージ的には時計の針を指を使って、昔の黒電話の様に逆に回す感じである。
練習を繰り返して分かったことは遡る時間が長い程、比例して疲労感がはんぱなく強いということだ。
今のところ限界点は十分ほど。
それ以上やると貧血の時みたいにくらくらするし、終いには頭が割れるみたいにクソ痛くて仕方がない。
通常時は数秒から数分ぐらいが目安だと思う。
あと、自分が何かしらの時計を持って居無いと巻き戻れない。
自分の部屋には残念ながら時計が無く、この前懐中時計をデスクの棚の中に入れたまま帰って練習したのを切っ掛けに気が付いたことだ。
それ以来、何処までがセーフなのか調べるためにそういう実験もしてみている。
結果分かったことは、別にこの懐中時計が切っ掛けになっている訳ではなく、時計ならなんでも良いみたい。
……いや、なんだそれ。
じゃあこの時計は一体何なんだ。
まあ何より自分の力が異世界の力ではなく、異能力だということを裏付けたのは何と云っても太宰の存在である。
彼が触れていた時間は勿論、彼が私の視界に入っている時間は其処だけスキップしたように戻れない。
大凡触れている間は、最早時間を遡ることすら出来ないのだろう。
自分の力について分かったことは、逐一森さんに伝えることになっている。
まあ色々条件付きではあるけど、要するに何か時計を肌身離さず持ち、太宰にそんなに関わらなければ良い。
私はほとんど森さんとエリス嬢と居るし、超楽勝もんだ。
「ねえ、名前」
『はい、エリス嬢。如何しました?』
たたたっと可愛らしい足音で駆け寄ってきたエリス嬢は、相も変わらず美少女だった。
森さんが奮闘し、床に頭を擦り付けんばかりに懇願した結果なのだろう。
リボンと純白のレースが控えめに付けられた深緑色の高級そうな生地であしらわれたワンピースを着ている。
可愛らしい顔も相まってそれはもうお人形のようである。
幼女尊い。
「私、お出かけしたい」
「それは名案だね!よし、早速車を用意して」
「リンタロウは呼んでない」
ガァーンッと口をあんぐり開けて物凄いショックを受ける森さん。
がっくり肩を落として机に突っ伏す姿は、どう見ても最恐最悪血も涙もない、あるのは報復と奇襲のみである犯罪組織の首領だとはとても思えない。
というか、あんたこれから定例会議でしょうが。
何、普通に車でドライブしようとしてるの。
『どちらにせよ森さんも会議があることですし、また後ででも』
「嫌!今からじゃないと絶対に嫌」
「エリスちゃぁ〜ん…」
こうなってしまったエリス嬢は絶対云うことを聞かない。
かと云って下手に機嫌を損ねてしまったら、それはそれで大変なことになる。
前にエリス嬢が頼んだ行列のできるバームクーヘンを構成員が買えなかったときは偉い騒ぎになったものだ。
暴れに暴れ回った結果、首領の恐ろしく高い一点物の机を買い替えることになった。
甘やかされた典型的なお嬢様ではあるが、可愛いから仕方がない。
可愛いは正義だ。
「ならせめて護衛を50人程つけて」
「目立つから嫌」
『…仕方ありません。私も若しもの時は異能を使えるようになりましたし、少しぐらいなら大丈夫ですよ』
「でも女の子二人だけなんて、危なくて許可出来ないよ…」
幹部も今は出払っているらしい。
そのくらい今は忙しい時期なんだなあと他人事のように思っていると、何か妙案を思いついた様に森さんは「そうだ」と手を叩いた。
「なら手練れの者を一人同行させよう。それで良いかい?」
「……一人だけなら許す」
『良かったですね』
不服そうではあるけれど、なんとか納得してくれたらしい。
まあ正直私の異能力もまだあやふやな部分はあるし、護衛が一人居てくれるのは大変心強い。
幹部も出払っているということは、あの自殺愛好家もいないってことだ。
誰だろう?森さんがエリス嬢を任せられて、首領自ら手練れだと云わしめる程の人物とは。
とりあえず私は出掛ける準備をした。
*
綺麗なセミロングの赤毛。
頭にはチャームポイントでもある帽子が被せられ、流された申し訳なさ程度の前髪は美人ともとれる端正な顔にこれまた綺麗な影を作っている。
全身黒尽くめであるにも関わらず、トレンドを押さえお洒落を怠ってはいないのだろうと思わせる高級そうな服装。
手袋からちらりと覗く白い手首の色っぽさが、そして何より首に巻かれたチョーカーから醸し出される艶めかしささが半端ない。
まさに、歩くお色気艶美フェロモンやぁ〜。
「手前が名前か。俺は中原中也だ」
『あ、ども。苗字名前です』
存じてますとも。
色んな意味で。
いやもうエリス嬢とロビーで待っている間、階段から下りている辺りで見つけて察したんだけどね。
私とエリス嬢が玄関で待っていた森さん御墨付の人物は言わずもがな、悲しみが汚れちまったことで有名なあの御方である。
なるほど、こうなったか……。
そういえば、中原さんは太宰が幹部抜けてから晴れて幹部になるんだっけ。なんか既に幹部のような気がしていたよ。いっけなーい。
………ほんと、いっけなーい…。
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―――――――
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事務所から出て、少し歩けば赤レンガ倉庫がある。
前の世界でもよく友達と遊びに行っていたけど、やはり何処か違っていた。
そんな建物の配置を覚えるほど通い詰めていた訳ではないけど、なんとなく違和感を感じるのだ。
エリス嬢は先ほど見つけたワゴン車の苺とベリーのクレープに舌鼓を打っている。
小さな手で少し大きめのクレープを上手に食べる姿は実に愛らしく、マジ眼福である。
一方私も、おやつの時間に丁度良かったので一緒にチョコバナナのクレープを頼んだ。
これが美味しいのなんのって…!
控えめなすっきりとした甘さの生クリームに濃厚なカスタードクリーム。
そこにバナナの甘みとチョコのビターな感じが最高の相性を生み出している。
そしてトッピングにバニラアイスを追加した私を誰か褒めて欲しい。
「手前、本当にすげェ旨そうな顔して食べるな」
『あ、食べます?』
「いいのか?」
『そりゃあ美味しいのは分け合ってなんぼデスから』
はい、とクレープを差し出すと受け取って食べるのかと思った中原さんは、そのままに口を開いてパクリと噛り付いた。
具が多い部分を食べた所為で口元にクリームが少しついてしまい、手袋を外してそれを拭い舐め取る。
なんか、全ての仕草が抜きん出て色っぽいんだよなー。歩くお色気艶美フェロモン説は有力かもしれない。
「かなり甘いが、まあまあ旨いな!」
『はい!他にも食事系のクレープとかもあるんデスよ!あ、おしぼりどぞ』
「おお、気が利くじゃねェか!他にも種類あんのか?」
『ここはツナマヨとか、ピザ風なんてのもありましたねー』
「甘い奴しかねェと思ってたが、案外色々あるもんだな」
そうですねー、と笑って相槌を打つ。
……………え、待って。
ちょっと待って落ち着いて。
なにこれ。何、今の。
驚くほど普通に信じられないことが起こった気がする。
いやもうこの世界に来てから信じられないことの積み重ねなんだけどね!
夢?幻覚?蜃気楼?
遂に私の妄想は私に幻想を見せる様になった訳?
いやでも、もし今の出来事が現実の物であるのなら…。
今ナチュラルに、私あの中原中也さん関節キスしたよね?
ていうか普通に私の手でクレープ食べさせたよね?
…………ちょっと時間巻き戻ってもう一回見てきて良いですか!?
いや、意識して見たら私失神しちゃうかもしれない。それは拙い。
というか冷静に考えて、もしかしたら今のは失礼に中るんじゃないのか。
実は今一私は、自分の立場がどの程度なのか分かっていないのだ。
幹部程の立場にはないだろうと勝手に判断してるけど…んでも中原さん、次期幹部になるぐらいには偉いしなあ。
…まさか怒ってる?
アーユーアングリー?
ちらりと盗み見ると、驚愕した。
「………〜っ」
顔が真っ赤だった。
帽子や髪、更には手で覆ってほとんど顔が隠れているにも関わらず、見える肌が白い所為か色の変化が分かりやすく、赤くなっているのは一目瞭然である。
えええ!!
どいうこと?
これは……まさか照れてるの?そうなの?
…いやいや、まっさかー!
あの中原中也ともあろう男がたかだか関節キスの一つや二つ、照れるはずないか。
ということは怒っているのか。やっばいな、それは。
重力でぺしゃんこだけは勘弁して欲しい。
『あのー……』
「な、ななんだよ!」
『怒ってます?』
「何が!!」
『何がって…顔が赤いので』
「赤くねェよ!!」
『さいですかあ…』
なんなんだこの生き物は。
顔を赤くさせながらぷんすか怒られてもそんなに怖くない。
……なんか申し訳ないけれど、太宰が苛めたくなる気持ちが分かる気がする。
なんかこう、凄く加虐心がそそられるのだ。
ちょっかい出したくなるような、それで怒るのが尚更面白い、そんな感じ。
まあ本当に怒ってないなら良いや。
ひとまず重力の味を噛みしめることにはならなそうだ。
……ん?そういえば…。
『さっき本当にって、誰かが私のこと話してたんですか?』
「あ?…ああ、太宰の野郎がな」
―――――――「その子、何でも兎に角凄っく美味しそうに食べるんだよねえ。お蔭で彼女が食べてる物の方に食欲が向いちゃうしー。しかもどうしてもって云うから、私が頼んだ定食も上げたら、ハムスターみたいに嬉しそうに頬張っちゃってさあ。もう面白いのなんのって…!」
中原さんは忌々しげに太宰との会話を話した。
見える。見えるぞ私には。
それはもう可笑しそうに、人を小馬鹿にして話す太宰の姿が目に浮かぶようだ。
あんのハイスペッククソチート野郎っ……!
だってそれだけ聞いたんじゃ、まるで私が食い意地の張った只のデブ女みたいじゃないか!
え、一寸本当に誰の所為だと思ってンの!?
勝手に親子丼奪って食べて、そんでもって定食はいらないとか巫山戯たこと云い始めるし?
現場を見て様々な状況証拠を見つけ、冷静な判断を下さる聡明な頭脳を持っていながら、自分のお腹の容量は把握出来ないの?
人がほとんど手を付けてなかった焼き魚をお腹がはち切れそうになりながらも必死に食べてたのに…。
その努力を、心の中で嘲笑ってんじゃねーよあんちくしょう。
腹立つわー。
ほんと腹立つわー。
しかもこの後中原さんは耳を疑うようなことを云い出した。
「手前は太宰を好いてんのか?」
『ないです』
「…即答かよ」
『いや、だって考えてみてくださいよ。あんな人に罵詈雑言を浴びせる為だけに生きているような人を好き?冗談でも笑えませんよ中原さん』
「……へえ。なかなか気が合うじゃねえの」
中原さんはニヒルな笑みを浮かべた。
同じく私も悪戯に笑う。
だってあの人を落とすより、森さんを口説いた方が優良物件ってもンよ。
地位も財力もありますしー、顔面偏差値だって申し分ない。
ロリコンなのは玉に瑕だけど、そこは愛の力で目を瞑れば大丈夫。
「中也」
『存じてます』
「違ェよ!阿呆!」
『おうふ。すみません。えと…それは、つまり…?』
「呼び方だ。俺のことは中也で良い」
突然もう一度名乗られたのかと思った。
気がつかない内に名前呼び間違えたのかと、重力味わい三昧コースかと思った。
しかしまさかこの流れで、中也さん呼びを確立することが出来るとは…。
いや、でもこの常識を何処かに捨ててきたような集団の中で、唯一常識を捨てずにいる気がする中也さんと親しくなれるのは非常に有難い事なのではないか?
汚濁でヒャッハァー!状態になるとは言え、それ以外は面倒見の良い頼れる先輩ということに違いはない。
太宰対策にもある程度は協力してくれそうである。
そして、何より―――――
「お前とは仲良くやれそうだからな、名前」
『…それは光栄ですね。此方こそ、どうぞよろしくなのデスよ中也さん』
双黒尊い。
顔を見合わせ、互いに笑った。
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