黒の時代編 | ナノ


▼ 真実と嘘と

また時を刻み始めた時計。

でもそれは右回りではなく、まるで遡る様に左回りで時を刻んでいた。

森さんは驚いたように目を見開いたまま動かない。
まるで、時間が止まったように。


……いや、止まったんだ。

何となくわかる。“終わりの時間”が近い。


重い身体を無理やりにでも動かし、その手に時計を握りしめたまま私はベットを抜け出した。部屋から出る扉を開けようとすれば、鍵が閉まっていて扉は開かなかった。

立ったまま動かない森さんの黒外套のポケットを探ると、何か堅い物が手に当たる。

何かと引っかかるそれを無理やり引き抜くと何かを落としたのと同時に、アンティーク調の扉の鍵を発見した。それがこの部屋の扉の鍵だと直感する。

何が落ちたのだろうと足元を見れば、それは森さんの携帯電話だった。

携帯には、あのストラップが付いており、森さんの瞳の様な赤い光を放っている。ぐっと胸が痛くなった。もしここまで見越して、森さんが扉の鍵と携帯を同じポケットに入れていたとしたら、本当にとんでもない人だ。

先見の明、千里眼、そんなものではとても森さんの見える世界を表現できない。

森さんの顔には端から見れば無表情の様な、でもいつも見ていたから分かる、確かな驚きの色がほんの少しだけ見て取れた。

曲がりなりにも、その優しさの背景に何があったにせよ、森さんには大変お世話になった。本当なら恩返しがしたいと思うのも、本心だ。


でも……今は―――――


ごめんなさい。森さん。


心の中で謝って深々とお辞儀をし、携帯をポケットに戻して、鍵で扉を開けて走った。

昇降機は勿論動かないから、階段を使って一階まで降りる。
此処までで十分は使ってしまった。やっとのことでホールを抜け、外に出る。

其処は五月蠅いぐらいの静寂で包み込まれていた。

この世界で凡ての時間が止まっているのだから、可笑しくは無い。

でも何となく、あの人ならこんな世界でも動いている気がした。


あの人は、あの人なら――――――太宰なら、きっと。


脚を太宰がいるだろう場所に向けて、全速力で回転させる。


貴方に、伝えなければ。





走る、走る、走る。

自分の持ち得る最大の速度で、時間の止まった横浜を走り抜ける。

羽ばたきの瞬間で止まった鳥。時間が止まった花屋のホースで撒かれている水は、正に芸術作品のよう。商店街の中をマネキンの様に動かず立ち竦む人の群集。信号だって動かない。


そして、恐ろしい程の静寂。


でもそんなものに一々構っている暇はない。

手に握りしめた銀時計をちらりと見た。

既に三十分を切っている。

やっとのことで着いた横浜の街を見下ろす丘の上、緑の茂った山道の中にある海が見える墓地。そこには一人、時間が動かないことに如何したのだと驚く喪服を着た、私の探していた人が居た。


『…はあっ……はぁっ、だざぃっ!!!』


力いっぱい血の味が込み上げる喉で名前を叫ぶ。

本人は此方を振り向いて目を見開いた。


「名前!!」


太宰は此方に駆け寄った。
ちょっともう本当に体力が無かったから、此方に来てくれるのは大いに助かる。

近付き心配そうに顔を覗き込む太宰の両腕を掴んだ。

如何しよう。まずは、何があったか話すか?

否でもそんな時間はない。

真実から?それとも嘘をまた吐く?

頭の中は混乱したままなのに、勝手に口が動き出した。


『私、私っ、太宰に、謝らなきゃ、いけない事がっ……』

「織田作のことだね。彼から聞いたよ、自分を止めようとしてくれたと」


息が、止まった。

どうして………?

だって、私にとっては存在した時間だけど、彼にはその時間は、無い筈なのに。

……まさか、異能で、私が止めるのを見たと云うのか。

最後に織田作が私へと漏らした言葉が、頭に過った。


―――――「名前!何時の間に―――――!」


アレは、私が事務所を抜け出して織田作よりも先に洋館に入ったからじゃない。

織田作と、あの会話をして、私を洋館の外に置いて行ったのに私の方が先にジイドと対決していたから出された言葉だったのか。

その時一つの言葉が浮かんだ。


――――――特異点。


「織田作が亡くなってしまったのは言葉に例え様の無い、哀惜の念に堪えない出来事だ。まるで心臓を直に握りつぶされてるみたいにね。私も止めたのだけど、彼は一人で行ってしまった」


太宰は悲痛そうに顔を歪める。

その顔が見ていられなくて、私は顔を伏せた。

織田作さんは未来を視る異能力。
私は過去を遡る異能力。

その狭間で、彼は凡てを見たのだろうか。

どちらにせよ、私は彼を止められなかった。

云ってはいけない、自己満足の言葉が、思わず口から洩れる。


『…ごめっ…なさい……』

「名前が謝ることは何もない。若し、君が過去を遡れる力がありながら、織田作を止められなかった事を懺悔しているのなら私にも罪がある。私も、彼を止められなかったのだからね」


私を責めない太宰は、決して私に遠慮して気遣っている訳ではないだろう。
それは優しさとも、また同情とも違う。

太宰は目の前の現実をただ話しているだけだ。起こった事のみを現実として受け入れ、たらればの考えを全て拭い捨て、真実から目を反らさない。

でも、それでも何処か、私を恨んでいないのだという事実にほっとしてしまった自分は、相当性格の悪い女だ。

莫迦だ私は。彼に許しを請おうだなんて、とんだお門違いである。

それに私が本当に謝りたいことは、これだけじゃない。


「全く…君は異能があるとはいえ、その実何も戦闘の術を持たないのに、一人で危険な敵の本拠地に乗り込んで、挙句の果てに敵の司令官と心中しようとしたらしいじゃないか。君がする想定外の行動の中でも、こればかりは許せないね」

『…そうしなきゃ、もう、手が無いかと思いまして…』

「……目を閉じて倒れたまま動かない君を見たときは、血管が凡て機能を止めたかと思った」


優しく、だけど確かな怒りを込めて、太宰は私にまるで先生が出来の悪い生徒を説教するように云った。

それに、と太宰が更に言葉を続ける。
未だ私は顔を伏せたままだから、太宰の顔は分からない。


「名前が心中しようとしていたと聞いた時の私の気持ちが判るかい?」

『…自殺愛好家の太宰が、それ云っちゃう?』

「………もういいよ」


そこで顔を上げて、太宰を見て笑った。

まさか、自殺をしたがる人に自分の自殺を咎められるとは。

そんな私の様子を見て、太宰は呆れたように呟いた。


でも私には、もっと云わなきゃいけないことがある。


「本当は病院に運びたかったのだけど名前に戸籍は勿論ないし、その肩書は曲がりなりにもポートマフィアだ。組織に預ける以外手が無くてね」

『お手数、お掛けしたね…』

「本当だよ、君重いし」

『うるせえ、貧弱』

「…まあでも、名前の目が覚めたら会いに行こうと思っていたのだよ」


太宰は一度言葉を区切り、少し息を吸い込んだ。


「私は組織から抜ける。名前にも着いて来て欲しい。――と云っても、君が断ろうと無理やりにでも連れて行く心算だけど」

『……ねえ、太宰』


私は貴方に、云わなきゃいけない事があるんだよ。

でも太宰はそれを知ってか知らずか、私の言葉を遮った。


「怖がりな君の事だ、組織を抜けて命を狙われることが心配なのだろう。――でも大丈夫、私と居れば名前は絶対に安全だよ。君を決して手放したりしない。この心臓に誓おう」

『違く、て…私はっ…』

「それにしても、如何なってるんだ。まるで時間が止まってるようだけど…今なら中也に色んな悪戯が仕掛けられるねえ。そうだ、彼奴の帽子を彼奴の足で踏み付けさせてやろう。そしたらきっと―――」

『太宰!』


今度は私が太宰の言葉を遮った。

知ってか知らずか?

そんなのどっちか分かっているんだ本当は。


だって相手は、あの太宰治なのだから。


『もう…分かって、るでしょう?』


貴方ともあろう人がこの状況を見て、分からない筈がないじゃないか。

私の言葉を遮り、いつも以上に饒舌な貴方。

時間が止まってしまったここ横浜。

空を飛んでいた鳥は空中で羽ばたきをやめ、風は全く吹いていない。
風に戦がれていた木はそのまま止まり、まるで全ての景色が写真のようだ。

そんな世界で、動いているのは太宰と私、二人だけ。

時間を操る異能を持つ私と、異能を受け付けない太宰の存在。

何が起こったかなんて、火を見るより明らかだ。


私が―――――――


『時間を、止めてしまったんです』

「…全く、名前は本当に仕方がないね。異能力を操れなくなって、それで髪の毛を振り乱して此処まで私を探しに来たって訳か」


嬉しそうに、でも何処か冷や汗を流して太宰は微笑み、私に歩み寄って手をとった。

まるで、ダンスをエスコートするような優しい動作。

太宰が私の手に触れると、人間失格を使ったときに巻き起こる風が吹いた。


でも鳥は羽ばたいたまま、木は潮風に戦がれ葉を空中で散らしたまま止まり、風も吹かず、五月蠅いぐらいの静寂がこの世界を支配したままだ。


嗚呼、矢張り。
何となく、予想は出来ていた。

太宰は目を見開いて、そしてぎゅっと私の腕を掴む手に力を籠めた。


「私の、異能力無効化が効かない」

『…やっぱり』

「…その口振りは何か知ってるようだね」

『……大丈夫です。直に時間は動きます。私が、この世界から、消えれば』


太宰は何を云ってるのか分からない、とでも云いたそうな顔をしている。

いや、分かりたくないんだ。
だって貴方は悲しいことに聡明で、誰よりも頭が切れるせいで孤独になったのだから。

其れを理解しているから、理解してしまったからこそ。


そんなに恐怖した顔をしてるんでしょう?


『異能じゃないんですよ。これ』


私は貴方に、嘘を吐いた。最低且つ、身勝手極まりない嘘。そして臆病な私は貴方に嫌われることを怖がって、最後まで、それこそ死ぬまで口に出さないだろう。

本心は否定しない。


でも、それでも私は―――――


『私、此処とは別の世界から、来たんです』


貴方という人生を、只の“物語”にしたくないのだ。


例え腰抜け、自己中心的、独善主義と云われ罵倒され後ろ指を差されようと。
絶対に絶対に、私はこの世界が、貴方が、私の世界では小説となり漫画となっている事を云いたくなかった。

タネは明かそう。けど全てじゃあない。
私は自分の独断と偏見で何を話し、何に口を閉ざすかを決める。


改竄された私の持つ回答と答え合わせをしようじゃないか。


『未来から来たなんて、真っ赤っかな嘘デス。全部…全部ウソ。時間なんてそんなやわっちい物ではなく、私達は世界そのものから根本的にズレてるんですよ、太宰』

「…生憎、今私はそんな冗談で笑えるほど心穏やかじゃない。訂正するなら今の内だよ名前」

『じゃあ、冗談じゃない。少し、お話をしましょう。時間はたっぷりあります』


皮肉にも、今この世界での時間は動いていないのだから。


太宰とて、私の云う事が冗談じゃないと分かっている。
だって私が別の世界から来たと告げたとき、貴方は凡て理解したような顔をしていたじゃないか。

恐らく太宰は、私が異能を使ってこの時代まで来たと考えたのだろう。
でも、残念ながら私は意識のある状態でないと、この異能を使えない。

私の話では“目が覚めたら”だった。それだと矛盾してしまう。

だからここに来たのは、私の異能では、ないのだ。


私はちらりとこの世界で私と太宰以外に唯一動く、手元の懐中時計を見る。

残り二十分。


私は静かに、口を開いた。



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