黒の時代編 | ナノ


▼ 目撃者Mの吐露

身体が浮上するような感覚がした。

同時に、瞼が痙攣する。

ゆっくりと、目を開けた。

視界は真っ白と云う訳でも、真っ暗と云う訳でもなく、ただ少し暗い紫の様な、そんな何かの何処かの天井が見えた。

身体が重い。いつかの気怠さを感じた。
ふわりと鼻腔を甘い香りが掠める。

一体ここは、何処なのだろう。

…私は――――――


「起きたかな」


声がして横を向くと、其処には森さんが微笑を浮かべて座っていた。

身体を起こそうとすると、森さんがそっと手で背中を支えてくれた。
相変わらず甘く、高級な良い香りがした。でも今はそんな仕草に頬を染めていられる程、心が平穏でいられなかった。

此処は何処なんだ。何故森さんが此処にいるんだろう。
いや、そんな事より織田作さんは、ジイドは如何なった。

様々な疑問が頭の中で鬩ぎ合い、言葉が出てこない。

何から聞けばいいのか分からず、まるで池彫りの中で泳ぐ鯉の様に口を開けたり閉めたりを繰り返していると、布団の上にあった私の手の上に森さんが手を重ねた。

太宰よりも冷たい手だった。


「色々と聞きたいことがあるだろう。まずは一番知りたいことから話すよ」


森さんは一度言葉を区切り、私の目を見た。


「織田作之助君は亡くなった。自らの志を貫き通してね」

『………』


嗚呼、矢張り駄目だった。

もう、戻れない。
もう、救えない。

光り輝く窓からは、すでに朝を迎えていることを知らせていた。

数時間であれだけの身体的負荷がかかる。
一日丸々なんて、戻れたところで私の身体が持つ訳がない。

嗚咽を上げることも無く、ジイドに心中を頼み込んだ時の様に静かに涙が流れた。

でもあの時とは違う。これは悲しみからの涙だった。
掛け替えのない人を失った、友を惜しむ涙だ。

でもそれが流れ切る前に、森さんがいつかのようにその手の手袋を取り、私の頬を流れる涙を拭った。


「大事な私の部下である織田作之助君が死んでしまった事は、私にとっても大変心苦しい」


するり、森さんは私の涙を拭い続ける。それは普通の人ならなんて優しい紳士な態度なのだろうと、その気品あふれる行動に息を飲むだろう。

でも、私にはまるで涙を流させないとでも云われているように思えた。


「太宰君が気絶して倒れていた君を事務所まで運んでくれてね。君が目を閉じて動かないのを見たときは心臓が凍りついたよ」


そう云う森さんの目は、本当に心配したように細められ、眉間に皺が寄っていた。


『…此処は……』

「嗚呼、ここは私の寝室だよ。君が目覚めないと居ても立っても居られなくてね…私の部屋まで運んでもらったんだ」


だから、この部屋は森さんの香りで飽和しているのか。
ようやく真面に言葉を発せるほどには頭が整理されてきた。


『ベットを、占領してしまって…申し訳ないです…』

「君は私に対していつも謝ってばかりだね」


そうだったろうか。…そうかもしれない。

思い起こせば私は森さんに謝ってばかりだった。

其れが嫌われたくないという怖さからなのか、ポートマフィアの首領としての畏れからなのか、今はもう分からない。

なんだかもう何も考えたくなくて、森さんの視線から逃れる様に自分の手に重なる森さんの手を見た。肌理細やかな肌に、男性らしく骨ばりつつも、とても綺麗な手だ。

暫しの沈黙の後、その重い静寂を切る様に森さんが口を開いた。


「済まなかったね」

『………!』


――――――――済まなかった?


森さんから目線を下げていた私は目を見開いて、ゆっくりと森さんに視線を戻した。


何を、云っているのだこの人は?



「何の戦闘能力も無いのに闘争にも巻き込まれ、その結果友人を失ったばかりで今は混乱しているだろう。…実は近々君を太宰君の元から私の元に戻そうと思っていていたんだ。突然の異動に動揺したかな?でも、彼の書類は中々滞っていたものだから如何し様もなくてね。名前ちゃんの仕事ぶりを見ていたから、君以外に適任が見当たらなかったのだよ」


何に対して、謝っているのだ?


「秘書の仕事は君が出来る状態になってからで構わないよ。…仕事をしたくなかったらそれでも良い。それに、彼の君に対する横暴は耳に入っていたけれど、私は何も出来なかった。許してくれとは云わない。でも―――――――」


まるで用意された台詞を、俳優がそのまま読むかのように。


「これからは私に君を守らせて貰えないだろうか」


そっと森さんは私の手を取ると、その甲に唇が落とされた。

永久の忠誠を誓う、手の甲への口付け。

けどその時の私に、感情は何もなかった。


『済まないも何も…だって、森さんはこうなることを望んだのでしょう』

「……ほう?」


森さんが冷たい微笑を浮かべる。

まるで氷の刃を首元に当てられて居る様な、そんな錯覚さえした。

でも…もういいや。完全に自暴自棄だった。


『ずっと…ずっと不思議でした』


もうヤケクソだった。
異世界だとか、目の前に居る人がマフィアの首領だとか、もうほんとどうでも良かった。


『今仲良くしてくれている人は、太宰を始め皆私に目を付けたのは、森さんが私のことを目に掛けて下さったからです』

「謙遜、ではないね」


森さんは目を伏せて微笑んでいる。

この世界で、何と云ってもイレギュラーは私だ。

結果が如何であれ、私が存在していることで何処かに歪みが生じてしまうのは確かである。


『…でも、貴方はまるでゼロの状態から私に目を付けた。一見、いや中身もただ普通の女である最下級構成員の私に』

「でも君は異能力者だ」

『それに気付いたのだって、あの時エリス嬢が…』


森さんは、微笑んでいた。


―――――「以前に同じようなことは?」


変わらずに、あの時も。


『貴方は、森さんは、私よりも先に…私の異能の存在を知っていた』

「正解だよ」


森さんは椅子から立ち上がり、私が眠る森さんのベットの端へと座った。

距離が近くなり、香りが強くなる。

ふかふかの枕に気だるさから身を任せる私を森さんは上から見下ろす。
その顔には仮面のように微笑が張り付いていた。


『どうやって…だってあの時より前に、私は異能を感じたことがないのに』

「私もこの目で君の異能を見たのは、名前ちゃんがエリスちゃんを助けてくれたあの時が初めてだ」

『じゃあ』

「報告があったのだよ」


そう云うと動揺し緊張している私の強張る頬を、先程涙を拭ったときのようにするりと撫でた。そしてその手はそのまま横へと滑り、私の髪を耳へと掛ける。


「ここの構成員に入る前に、名前ちゃんは一度戦場を経験している筈だ」


そう云われ、記憶を遡る。

確かにあった。

構成員になるための建前上任務と云われ新人構成員全てに言い渡された、入社試験の様なものだ。今となっては忘れたい程恐ろしい過去であり、何を目的として何を破壊する任務だったのかさえ覚えていないけど。


「あれは、新人構成員の中から使えない者を振り落し、振り分ける為だけではない。構成員の中で異能力者がいないか、見定める為の物でもあったのだよ」

『……』


異能力者を見定める。

でも私は、異能を使った感覚もなく、ずっとテナントの陰に隠れて銃を撃つことも無く早く抗争が終わることを、早く目の前の悪夢から目覚めることだけを望んで強くその目を閉じていた。

今でもあの時の恐ろしい程の数の銃声が、耳鳴りの様に聞こえるようだ。

そう云えばあの時、ミミックの傭兵が私を撃った時も、私は目を閉じていた。

思い出される銃声、空薬莢が落ちる音、足元に転がる鉛玉、驚く兵の声。


そして、何の戦闘能力も無いのに生きている、私。


―――――まさか。


「その戦闘での調査報告にはこう書いてあった。苗字名前の周りには一.五米(メートル)程の円状に撒かれた多数の銃弾があり、そしてナイフを振りかざしたまま制止する敵が一人居た。以上の事から苗字名前は何らかの異能を有する可能性あり、とね」


その時、凡ての合点がいったような、パズルのピースが凡てあった様な気がした。

森さんはあの時、私に対して異能について問うた時、私にその自覚があったのか確認するために訊いたんだ。


「だが実際名前ちゃんの異能は報告に受けていた物とは異なって時間を止めるのではなく、時間を遡る物だった。只、その能力に時間が関わっているのは事実。若しどちらの異能も君の物と云うのならば、こんなに魅力的な力はない」


うっとりと、羨望するように目を細めて私を微笑みながら見下ろす森さん。

無意識下でも、自分の命を狙うものに対して効く異能力。

それは私に敵意を向けてくる人間にも作用する、ある意味他者からの攻撃による死を凡て無効にする力。

ジイドさんが私を殴るときに時間が止められなかったのは、きっと私を殺すつもりがなかったからだ。

居た堪れなくなって私はまた目線を下げようとした。
でも顎をそっと森さんの手で優しく上げられ、無理やり目線を合わせられる。


「私はポートマフィアの首領と云う肩書から命を狙われることも少なくなくてね。最初は、一定範囲で自分を危機にさらす物凡ての時間を止める異能を側に置けば、私の命を守る保険に使えるだろうと思った。…けど、何時からだろうね。それだけで済まなくなってしまったのは」


寂しそうに、悲しそうに、泣きそうな顔で綺麗に微笑む森さんから、目が離せない。


「君に対するこの感情を言葉で表すには、まだまだ私の生涯は足りないらしい」


気を抜いたらその瞳に吸い込まれてしまいそうな、そんな気すらした。


「けど自分の胸の内で息衝く欲求に、私は人一倍率直でね」


森さんのもう一方の手は私の手を未だ優しく掴んでいて、その手を森さんの頬に当てさせた。

ゆっくり、森さんは幼子に語りかける様に言葉を囁いた。


「君の、名前の凡てが欲しい」


手と同じぐらい、森さんの頬は冷たかった。

低く呟かれた言葉は、まるで耳元で云われたかのように鼓膜を揺らした。

ぐっと森さんが身体を寄せ、ギシリとベットが悲鳴を上げる。
その音と共に、只でさえ近かった森さんの端正な顔が、更に迫った。


そっと森さんの唇が私のものに触れる。


阻むことすら許されず、威圧的な空気によってこの部屋の温度が急激に下がった様な気がする。

数秒森さんは唇を重ねた後、それ以上何をするでもなくそっと唇を離す。ただそれだけだったのに、何かを誓わされたような、契約を結ばされた様な、そんな気さえした。

相変わらず、森さんは微笑んでいる。
それは何処かとても満足気な笑みだった。


「そんな顔を他の輩の前でしては駄目だよ?私のような悪い男に、食べられてしまうからね」


そう云うと森さんはベットから離れ、私に布団を掛け直すと椅子に座りなおした。

ふと傍の机に置いてあった、自分の銀時計が目に入り、それを何となしに手に取った。
今あった出来事が、まるでそんな映像を見ているようにしか感じられなかったからだ。

森さんはそうだったと思い出したように手を叩く。


「その時計は壊れてしまっているみたいでね、よかったら今度時計を買いに行こう。エリスちゃんが一緒でも楽しいだろうし、二人きりでも勿論大歓迎だ」


楽しそうに、先程までの雰囲気が嘘のようにあどけなく笑うその後ろには、花さえ咲いているように見えた。

懐中時計は十二時を指したあの時のまま、動かない。

もう、もう、全部終わってしまったのか。

彼は…。


――――――太宰は、今何処に?


『森さん、太宰は…』


会わねば。

会って彼に、話さなければ。

森さんは立ち上がって、窓の方を見ながら云った。


「彼はね、行方知れずなんだよ。君を置いて、組織を抜けてしまった。薄情な男だね…一人残された君の想いなど知らずに」


ため息を吐くように、そう云う森さんがどんな顔をしているのか分からない。

悲しそうに顔を歪めてる?
それとも凡て計画の内に収まって、したり顔で嗤っているの?

結局森さんの考えていることは最後まで分からない。

でも私が言葉を発する前に森さんは私を振り返って云った。


「行ってはいけないよ」

『……』

「行ったところで、彼は君に会いたいと思うだろうか?普通と違って何度も過去をやり直せる能力を持ちながら、自分の友人を救わなかった君に」


図星だった。

今になって判ることだけど、きっと森さんが私の異能について太宰に云わなかったのは、此の為だ。前々から今回の件に対して対策をたてるのを防いだ。
そして最後の最後に、太宰が森さんに直談判に来るときに全てをバラすことで、私の逃げ道を閉ざす為にも。

見ればこの部屋に私が今握る壊れた時計以外に、時計は無い。
これでは時間を、遡ることが出来ない。

先手を凡て打たれている。

太宰が居なくなった今、私がこの世界で頼れるのはここしかない。
そしてまた、ここでお世話になるためには森さんに逆らう訳にはいかなかった。
そうでなければ、明日には塵となって海を漂う羽目になるかもしれないからだ。

ふと目線を時計に戻す。
カチッと耳元で時計が時を刻むような音がした。


そう云えばこの世界に来たあの時も―――――


私は少し息を吸ってから、森さんに微笑んだ。


『森さん、知ってますか?』

「……」

『女の子は、皆我儘なんです』


目を瞑り、ぎゅっと時計を握った。



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