黒の時代編 | ナノ


▼ ばいばい、もう最後

『ある世界では、とある偉大な文豪が死ぬ一か月前にある作品を書き、またそれが彼の遺書となった本があるそうです。今もその作品は多くの人に愛され読まれています』


私もまた、その内の一人だった。

太宰治が云わんとしている事を理解できた訳じゃないけど、哀愁漂う彼の作品にはなんとなく惹かれるものがあった。それがきっと、彼の魅力なんだろう。

飄々として掴み所ない所に、ちらりと儚い顔を見せる貴方の様に。


「急に何を―――」

『そんな世界、とある学校でその作品名にちなんで、こんな課題が出たんです。何故主人公は人間を失格したと思ったのか』


太宰は私の意思を悟ったのか、伸ばした手を下ろし黙って聞き始めた。


『その作品の主人公は美男子且つ名家に生まれ、全てを持っていながら、いつも他人と違う感覚に発狂してしまいそうだったんです。まともに他人との会話が儘ならない主人公は、最後に人間に対する求愛として道化を演じます。…でも、ある時彼はその道化を暴いてしまいそうな人間に出会う』


彼にとって人生最大の恐怖だった。
皮肉にもそれはまるで、貴方にとっての私みたいですね。まあ私の場合は洞察力とか直感でもなく、虎の巻ありで、カンニングしたようなものだけど。

その後、主人公はその恐怖を紛らわすために酒や煙草、女やらへと浸り、醜悪の垣間見えるところに人間の本質が見える気がすると、解放された気分になる。

しかしそんな生活が長く続くわけもなかった。彼は破壊的な女性関係にハマり、最後には己の最愛の人を犯され、薬をやり、酒を飲み、終いには精神病院へ連れて行かれ、他人から自分が狂人の烙印を押されたと感じ人間失格と考える。

これが大方のあらすじだ。

太宰はじっと此方を難しい顔で見たまま、黙って聞いていた。


『きっと先生は道徳を悉く踏み外し、他人に迷惑やら害を振り撒き、最早他者の目に映る自分は人間ではないのだろうと考えたから、と答えて欲しかったんでしょうね。でも――――ある一人の酔狂な生徒は、そんなちんけな理由で人間を失格させる訳にはいかない、そう思ったんです』


物心ついた時から他人を受け入れられず、吐き気と共に拒絶する。

美男子に生まれ、名家に生れ、全てを持っておきながら、自ら人生のどん底に独りよがりの孤独に苛まれて暴落していく様はひどく滑稽で、そしてとても悲しい。


『そこで文章を終わらせれば満点花丸もんだったのに、その生徒はなーんか癪だったのでこう付け加えた。では、人間に合格した人とはどんな人なのか』


人間に失格する人がいるのなら、人間に合格する人だっていなきゃ可笑しい。

太宰は神妙な顔で口を開いた。


「その生徒は…君は、何て?」

『はは、気付いてましたか。私は、こう書きました――――』


そう。

だから、その生徒は、私は、答えた。


『人間に合格した人は―――他人を認められる人の事である』


私は太宰に微笑む。

太宰は目を見開いていた。


『太宰、人はみんな寂しがり屋で独りぼっちだよ。それにどれだけ孤独を感じるかは個人差がありますが、この世に生れ落ちた瞬間から、人類皆独り、なんですよ』


でもね、太宰。


『――でも、だから良いンです。だから他人を求めるんです。そして、認められようとし、また認めてあげようとする』


嘗て貴方が私を見ろと叫び、私に済まないと謝ったように。

与え与えられ、ギブアンドテイクの均衡が私は人間関係の根底にあると思っている。

そしてそれが揺るぎないものであればあるほど、強固な絆となる。


『人が息衝く世界は何処も、洩れなく酸化してます。だから私は、貴方に酸化する世界の素晴らしさを見せてあげたかった』


人間が息をして言葉を交わす、そんな醜い世界の愛おしさを。


『太宰、貴方は―――私を、認めてくれる、かな…』


問わずとも、実は彼の答えは分かっていた。

でも、それでも不安になるのは、私が臆病者だからなのか。

思わず下を向いてしまう。


「…ああ!勿論さ…勿論!だって、私は初めて名前に会った時から、ずっと、ずっとっ……!」


言葉にならない、と云わんばかりに苦しそうな、まるで締められた喉で叫ぶように太宰は云う。
でも象られた言葉より、何よりその悲痛な顔が言葉よりも多くの事を語ってくれた。


『じゃあ太宰はもう、立派な人間デス。少なくとも私の中じゃ』


肩の力が抜け、太宰の顔を見て微笑んだ。

きっと今の私は、心底安心したような何とも抜けた顔をしているんだろう。

良かった。

太宰は私の事を、認めてくれていた。


私は貴方を、人間に合格させられた。


それが今は何より、嬉しいだなんて、ほんと笑ってしまう。

目の前が淡く光る。

嗚呼、“時間”だ。


「何故!?時間はまだたっぷりあると――」

『それも嘘、デス』


私は沢山の嘘を、この世界で吐いた。


「…っ私から離れるなんて許さない!!」

『それは、怖いねえ』

「まだ…まだ、携帯電子盤だって、クリア出来てない!君が、名前が居なきゃ…嗚呼、違う。こんな如何でも良い事じゃなくて」

『大丈夫。大丈夫ですよ太宰』


見たことが無い程取り乱して慌てる太宰が、私との別れを惜しんでくれる太宰が、私は嬉しくて仕方がないだなんて云ったら、きっと貴方はいつもの様にムキになって怒るだろうね。


「名前は私と離ればなれになっていいのかい?私よりも寂しさに耐えられなくて、きっと泣いてしまうんじゃ」

『そんな訳ないでしょう』


そう云うと、太宰は傷ついたような顔をする。

それを見て私は微笑む。


『寂しくて、泣くだけで済むなら、どんなに良いか』


意味が伝わったのだろう。

太宰は今度は泣きそうに唇をきつく閉じた。


『本当はずっと、離れたくない…!』


貴方と別れるのは、死ぬよりも苦しい。

泣きたくなくて、息を止めた。
でもどうしても声は、震えてしまう。

それでも貴方に伝えなきゃ。
否、伝えたい。

もう一度深呼吸をして震える声を、喉を抑える。


『本当に、本当に楽しかった、デス。色々喧嘩とかしたし、拗れたり、振り回されたり、最後には監禁されかけて碌な目に合わなかったけど。…でも、それ以上に貴方と居る時間は、楽しくて…とても幸せだった』


嗚呼、私の語彙力では太宰に私の気持ちの一割も伝えることが出来ない。

こんなにも考えを、気持ちを言葉にして表せないことが歯痒くて、苦しくて、悔しいだなんて、知らなかった。

貴方に会わなければ。

太宰と過ごしたこの時間は私にとって何にも代えられない。

今度こそ太宰は先程伸ばした手で私の腕を掴み、力強く引いて私を自分の胸へと押し込めた。その力強さに鼻を強打するが、今はそんなこと咎めている場合ではない。

もう本当に、時間がないのだ。

ちらりと手元の銀時計を見れば、既にあと一分を切っている。

言い争うこの瞬間さえ、愛しい。


―太宰の中でも、私と出会って何か変われたものがあるだろうか?


「変われたさ!人は変わる生き物だ。私は君のお蔭で、他人を認められるようになれた」


―私は太宰の役に立てただろうか?


「名前が居なかったら、私は今頃書類の中に埋もれてる。それにこれからも、きっと…!」


本当に貴方はよく書類をあんな貯め込んでくれたものだよ。

一度雪崩を起こして、机が埋められた時は燃やしてやろうかと思った。


『それは大変ですねえ』

「だから、だからこれで最後だなんて云わないでくれ!」


けど、そんな時間さえ私にとっては掛け替えのないものだった。


「織田作にも、いつも何かに怯えてる名前を理解してあげろと、そう頼まれた!でも、織田作に云われなくとも、私は名前の事を誰よりも理解したい!!」


その言葉に私は目を見開いた。

嗚呼、織田作さん、やっぱり貴方本当にすごい人だよ。私が、早々に織田作さんに相談しておけば何か変わっていたのかもしれない。

でも今はもう、全部遅い。

凡てはたられば、の話だ。


『……治、…』

「何時もみたいに太宰と呼びなよッ!!」


君があんなに呼んで欲しがっていた名前なのに。

いざ呼んだら前の方が良いって…何だそれ。
笑えないよ、全く。ちっとも。

でも、その可笑しさに私は微笑んだ。
私を絞殺さんとばかりに抱き締める、太宰には見えないだろうけど。

そっと私も太宰の背中と頭へ腕を回す。
ぽんぽんと頭を撫でれば、それに更に太宰の腕に力が込められた。…これ、そろそろ内臓が出てしまうのではないだろうか。


「行くな名前!お願いだから、行かないでくれ…!どうすれば、どうすれば止められる?何か、何か絶対、在る筈なんだ、方法が―――」

『ないンですよ。もう、全部、遣り尽くしました。手を尽くしたんです』


結局私自身では何も出来なかったなあ。

織田作さんを助けられず、太宰を助けられず。
そもそも助けようだなんて、身の上も弁えない烏滸がましい考えだったのかもしれない。

織田作さんを助けて、太宰がそれに喜ぶ。
ただその光景がこの世界にあれば良かったのだけど。

でも対して私はそれと同価値のあるものを掛けられず、結局銃の引き金を引くことも出来ずに…私は、今、此処で何をしているのか。

なんとなくどうにかなる気がして、なんとなく時間に身を任せていた結果がこの様とは。


世界はどうやら、誰にでも平等らしい。


理不尽とは云えこの世界に飛ばされてきたくせに、何も出来ず、今度は―――――


「名前ッ…!!」


迷子の子供のように顔を歪め、泣きそうな声で私の名前を叫ぶ貴方を置いて行ってしまう。

ふと太宰が身体を離し私の手の中にある懐中時計に目をやった。


『太宰、もう無駄だ』


無駄だって、そう云おうとしたら銀時計を引っ手繰られ、海に向かって崖から投げられた。

遠く遠くの海に投げ捨てられた銀の懐中時計は、ポッチャンと何とも小さな音で海の波に揉まれ消えた。


って、うええええええ!?


『え、あ、ちょっとおおお!えええ!?おっ、お莫迦!!若し私が居なくなっても時間が動かなくなったらどうすンですか!なんて考えのない、この阿呆っ!くそったれ!!』

「君がいない世界なんて、いっそ動かなければいい!!」

『そう云う訳にはいかんでしょうに!!』


本当に私達、いつまでたってもこんなんだね。

でもそんな関係が、私は大好きだった。

身体がふわっと軽くなったような気がした。
太宰は絶望の淵に立たされたような、この世の終わりみたいな顔をして私を見る。

なんだ、その情けない顔。
折角の男前が台無しデスよ?

私は微笑む。

最後くらい笑顔で別れさせて、そして良い女にさせてくれ。


『太宰』


太宰が何か云おうと口を開き、私の方へ手を伸ばす。でも届かない。

全てがゆっくりと、スローモーションに見えた。

若し許されるのなら。

いや、許されないだろう。


―――――でも、貴方に


『私の事、忘れないで』


私を忘れないで欲しい。


手元に無い筈なのに、時計がカチッと揃った音が聞こえ、目の前が電源が落ちたように暗転する。


ばいばい、私の愛しい人。



prev / next

[ back to top ]