▼ 友人との惜別
太宰は洋館を駆け抜け、舞踏室に駆け込んだ。
其処に至る道にも、舞踏室にも、夥しい死体があった。
万が一を考え、名前の姿も探したが、見当たらなかったことに一先ず安心していた。
だが太宰が樫の扉を叩きつけるように開くと、その先に倒れる自分の友人が見えた。
「織田作!」
「太宰……」
太宰は織田作に駆け寄り、傷を確認した。
弾丸は胸を貫通し、床に夥しい血だまりを作っていた。
明らかに致命傷だった。
「莫迦だよ織田作。君は大莫迦だ」
「ああ」
「こんな奴に付き合って死ぬなんて莫迦だよ」
「ああ」
織田作は目を伏せて微笑んだ。
その表情には、支払った対価に見合うだけの事を成し遂げた人間のみが浮かべる、何処か満足げなものがあった。
「太宰……云っておきたいことがある」
「駄目だ、止めてくれ!まだ助かるかもしれない、いや、きっと助かる。だからそんな風に」
「聞け」
織田作は血に濡れ震えた手で、太宰の手を握って言葉を遮った。
太宰は口を噤んだ。
「お前は云ったな。“暴力と流血の世界に居れば、生きる理由が見つかるかもしれない”と……」
「ああ、云った。云ったがそんなことは今」
「見つからないよ」
織田作は太宰に優しく囁くような声で云った。
太宰は織田作の目を見つめ返した。
「自分で判っている筈だ。人を殺す側になろうと、人を救う側になろうと、お前の頭脳の予測を超えるものは現れない。お前の孤独を埋めるものは、恐らくこの世のどこにもいない。お前は永遠に闇の中を彷徨う」
――――この酸化する世界の夢から醒めさせてくれ。
太宰はその時、初めて気が付いた。太宰自身が思っているよりも遥かに、織田作之助は太宰について理解していた。
――――『彼らは、きっと私より太宰についてもっと多くの事を理解してますよ』
そしてまた、名前もだった。
自分の心臓の近く、心の中枢に近いところまで。
これほどまでに自分を理解している人間が居たということに、太宰はこれまで気が付けなかった。
「織田作……私は、どうすればいい?」
「人を救う側になれ」
織田作の声は、震え始めていた。
「どちらも同じなら、佳い人間になれ。弱者を救い、孤児を守れ。正義も悪も、お前には大差ないだろうが……その方が、幾分か素敵だ」
「何故判る?」
「判るさ。誰よりも判る。俺は―――――お前の友達だからな」
太宰は織田作の目を見た。
織田作の目には確信した光が宿っていた。
強力な根拠に支えられた言葉であるのは明らかだった。そしてその根拠は、自分が太宰の友達であるからと云う、太宰にとってはこれ以上にない言葉だ。
「……判った。そうしよう」
「それから、後ろにいる名前の事を、よろしく頼んだ」
その時初めて太宰は、部屋の隅で弾が当たらないように避けられた名前の姿を見つけた。矢張り時間を遡って、名前はこの場に来ていた。
俯いたまま動かない名前の姿に、太宰は息が止まった。
狭まる気道を感じる中、絞り出すように言葉を発する。
「名前は、まさか…」
「あいつは、今は、気絶しているだけだ」
そう云われ善く見れば確かにほんの僅か、肩が呼吸で動いている。
気が動転し、いつもなら直ぐ気が付く事でさえ太宰は気が付けなかった。
気絶しているためその顔は俯き、着ているスーツは土や草で汚れ、上着は着ていない。
身体が冷えてしまわないようにか、でもその身体にはミミック兵の着ている上着が被せられている。更にその上着には己が司令官である事を示す、勲章が付けられていた。
倒れるジイドは何も着ていないのと、その事から、あれがジイドの物なのだろうというのは直ぐに分かった。
一体なぜ、名前がジイドの上着を被せられているのか。
通常なら一目で様々な情報を処理し、数秒で事実を叩き出す太宰の天才的な頭脳でも、理解することは出来なかった。
「名前は俺を止めた後、異能を使って既に舞踏室でジイドと対峙していた。心中しようと、していたらしい」
「……!?」
太宰は驚きに言葉も出ず、目を見開いた。
何故そんなことをしようとしたのか。
「彼奴は、面倒な奴に好かれる、素質がある」
「ああ…全くだよ」
自分も例に漏れずだが、そう思いながら太宰は引きつる表情筋で何とか微笑んだ。
どう笑えばいいのか分からなかったからだ。
太宰には矢張り、名前の事だけについてはまるで霧の中を手探りで彷徨う様に、分からないことだらけだった。
「俺とお前に、見せたい世界があったそうだ」
自分と太宰に見せたかった世界。
名前は自分達に何を見せてくれようとしたのか。
意識の無い今の状態では聞く事は出来ないが、それを知れれば名前が恐怖する正体も掴めるような気が織田作にはしていた。
「名前はきっと、俺以上にお前を理解してやれる。だからお前も、名前を理解してやれ」
太宰は目を見開いた。
織田作はふと視線を天井に向けた。
「お前が孤独に泣いているのなら、その一方で彼奴は何時も何かに怯え、怖がっていた。俺にはそれが何か、最後まで分からなかった。だが、お前ならそれを理解してやれるだろう」
そして織田作はもう一度太宰を見て云った。
「名前を、頼んだ」
「…ああ、任せてくれ」
力強い太宰からの返事を聞くと、もう心残りはないとでも云う様に、青白い顔で織田作は微笑した。
織田作の表情からは急激に血の気が失われつつあった。
「“人は自分を救済するために生きている。死ぬ間際にそれが判るだろう”か……確かに、その通りだったな…」
織田作は目を閉じた。
太宰の織田作を支えていた腕に、がくっと途端に力が掛かった。
それが何よりも、太宰にとって織田作の魂が其処から失われたことを意味していた。
太宰は織田作の隣に膝を落としたまま、顔を天井に向けて目を閉じた。
きつく閉じた唇が小さく震える。
誰も、何も云わなかった。
prev / next