▼ 擦れ違う二者
名前が下に向かった一方で、太宰は己の執務室を出てから真っ直ぐ一人で硝子張りの昇降機に乗り込んだ。
…とは云っても、名前は時間をその後遡行したため、太宰に名前と別れた記憶は無い。其の為、太宰の中には、ただ己の執務室へ戻った記憶しかなかった。
昇降機で最上階にある首領執務室へ向かう。森に織田作を救援する為、幹部級異能者の小隊を編成し、ミミック本部へ強襲を掛ける許可を貰う為だった。
だが、森と話をしていく中で、今回のミミックの件に関する裏がまるで氷を解かすように分かり始めていたのだ。
ミミック、安吾、織田作、そして――――異能開業許可証。
凡ては一枚の証書を目の前の男が手に入れるために描かれた物語に過ぎなかった。
「その許可証を手に入れる為、首領、あなたは何年も前から計略を張り巡らせてきました」
太宰は執務机の前に立ち、言葉を森にぶつけた。
「おそらく二年前、安吾が欧州出張に行った時からこの計画は進められていたのでしょう」
其処で情報を集め、最も有望な敵候補であるミミックに安吾が特務課の間諜であることを知った上で接触させた。ミミックが欧州を脱出し、日本に密入国出来たのはポートマフィアが裏で手引きをしていたためだ。
「あなたは異能特務課を焦らせ、その重い腰を上げさせるために、わざと敵対組織を横浜に招いたのです」
黙って聞いていた森が此処で太宰の名を呼び、初めてその言葉を遮った。
「素晴らしい推理だ。何も訂正するところは無いよ。一点だけ訊きたいことがある。それの何が悪い?」
今度は太宰が黙る番だった。
「云っただろう。私は組織全体のことを常に考えている。現にこうして異能開業許可証は手に入り、事実上政府から非合法活動を認可された。厄介な乱暴者は、たった今織田作之助君が命を賭して排除してくれつつある。大金星だよ。なのに君は何をそんなに怒っているのかね?」
太宰は言葉が出てこなかった。
否、浮かんでこないのだ。
殆ど初めて、太宰は自分の感情を言葉にすることが出来なかった。
嘗て名前に嫌いと拒絶され、呼吸を忘れたあの時の様に。
「私は…私は、ただ……」
太宰は絞り出すように云った。
「納得できないだけだ。織田作が養っていた孤児たちの隠れ家の事を、ミミックに密告したのはあなただ。それ以外に私の選定した隠れ家の情報を入手できる人間はいない。貴方が子どもを殺した。織田作を、ミミックの指揮官に唯一抗しうる異能者を、敵にぶつけるために」
だが、ここで太宰は何かの違和感を胸の内に覚えた。
一見普通に回っているのに、何処か噛み合わない歯車を見て居る様な、そんな違和感だった。気付かなくとも、それはそれで機能するのだろう。
でも――――――確実に、何かが足りない。
「私の答えは同じだよ、太宰君。私は組織の利益のためなら、どんな事でもする。ましてや我々はポートマフィア、この町の闇と暴力と理不尽を凝らせた存在だ。今更何を云うのだね」
太宰は凡て理解していた。
森の計算され尽くしたこの出来事も、心理も、計画の論理性も。
ポートマフィアと云うのは、そういった性質の組織なのだから。間違っても綺麗事で成り立っている善良な組織ではない。
この場では論理的に考えて森が正しく、太宰が間違っていた。
そこでふと太宰の中で新たな疑問が浮かび上がった。
この事件とは、否、寧ろこの闇組織自体と根本的な部分で何の関連性も無さそうな彼女の存在。
嘗て、目の前の男の秘書だった彼女。
「……首領は、何故私に彼女を、名前を秘書に薦めたのですか」
「君の書類が滞っていたからね。でも君も君で仕事が大変なのは分かっていた。だからその手助けまでに、私の優秀な秘書を派遣したまでだが?」
否、それなら他の情報処理係でも何も問題が無かった筈なのだ。
寧ろ一見、何か特別な思い入れのある彼女を敢て手離し、自分の元へ秘書に送った理由。
そして彼女の異能を知らない自分の存在。
「名前の異能は一体…」
「おや。あんなに仲が良かったのに、彼女の口から聞かされていないのかね?」
「名前は貴方の口から既に話されているものだと思っていましたよ。そして、私は彼女が異能力者だという事すら知らされていなかった。」
「そうだったかな。遂、うっかりしていたよ。最近物忘れが激しくてね…重大な失敗を招かない内に、優秀な秘書を随分ご執心な君の元からそろそろ戻さなければ」
瞳を伏せ微笑み、森は紅茶を音も立てずに啜った。
森が物忘れをするなど、天変地異が起こってもあり得ない事だ。
特にこのような重要な事に関して忘れることなど在る筈がない。
そして森は、それがどのような感情かまでをも把握しているのかは分からないが、兎に角太宰が彼女に対して並以上に固執していることを知っていた。
一般人並、否それ以下の戦闘能力にも関わらず、太宰の部下である構成員を出し抜いて脱出することの出来る異能。そして戻ってきた彼女の手に握られていた己の机の上にあった筈のデジタル時計。
まさか、彼女は―――――
「時間を操れる。それが名前の異能ですね」
「矢張り知っていたじゃないか」
森は相変わらず微笑んでいた。
「だから貴方は、私の元に彼女を秘書として置いた。その異能を封じるために」
「だがそうすることで、私に何の利益が生まれる?」
「首領は私と織田作の仲が良好なものであるとも知っていた。そして、私が彼女に対して執拗な感情を抱いていることも。だからその中間地点に立つ私によって、彼女と織田作が会うのは時間の問題だった」
そうなれば基本社交的であり、驚く程に凡てを包み込む、平凡な雰囲気で他者を受け入れる名前と織田作の友好関係が深まるのになんら不思議は無い。
そしてまた、このような事態になってしまえば、彼女は先程のように織田作を助けに行こうとするだろう。
彼女に止められた織田作が若しかすればその復讐を諦め、ミミックを掃討しに行かないかもしれない。ミミックを潰せなかったとなれば特務課との取引も白紙となり、異能開業許可証を得られなくなる。
時間を操られてしまえば例え名前に何の戦闘能力が無いとしても、如何なる歴戦の荒武者、そして首領であっても止めるのは不可能。
唯一名前の足止めを出来るのは、異能力無効化の力を持つ太宰のみ。
歯車の閊えが、無くなり始める。
だが太宰には、一つ腑に落ちないことがあった。
「何故、貴方は名前を殺さなかったのですか。彼女を殺してしまえばそれで済む話なのに、貴方は何故―――」
一人の命どころか、数えきれない命をその手で握りつぶしてきた首領に高々普通の女を殺せない筈がない。寧ろこんな遠回りをせずとも、この男なら彼女の命を奪ってしまう方が合理的である筈。
森は伏せていた瞼を上げ、薄い笑みを張り付かせたまま太宰に視線を向けた。
「それは太宰君の方が分かっているのでは?」
太宰は虚を衝かれたように黙る。しかし、その一方で森の云わんとしていることを理解しようと、彼女の事を思い描いていた。
彼女の、無償で与えられる平穏。
人間ならば誰しもが、特にこのような死と常に向かい合うような場所に立つものなら請い焦がれる、安息的な平穏を彼女の側では感じられる。それは異能でも、計算され尽くした計画下でも得られることの出来ない、彼女自身からのみ与えられる何にも代えられない空気だ。
そして同時に其れは、麻薬の様な依存性があった。
「…ポートマフィアの首領であり、合理主義の権化でもあろうあなたが、たった一人の女性に心奪われた所為で、組織の先を危険に晒すとは思えない」
「私も人の子ということだね。それに加え、彼女の存在を消すことはこの組織にとって最適解ではないというのも事実だ」
「如何いう事です?」
「君は彼女の異能を真に理解していない。彼女の異能は私のような者の元にあってこその異能だ」
まるで酔い痴れる様に語る森に、太宰は目を見張る。
その眼はいつかの捕食者の眼光を宿していた。
まだまだ聞きたいことは山の如くあったが、生憎そんな時間は無かった。
歯痒い気持ちを押し殺し、太宰は踵を返して出口に向かい歩き出す。
それに反応して森の部下たちが一斉に太宰へ銃口を向けた。
「彼は君の救済を望んではいない。その上で、君には彼の許に行く合理的理由でもあるのかね?」
「云いたいことが三つあります。首領」
太宰は振り返り、細めた目で森を見た。
「ひとつ。あなたは私を撃たない。部下に撃たせることもしない」
「何故かね。君が撃たれることを望んでいるから?」
「いいえ。利益がないからです」
森は相変わらず冷たい瞳を細め、微笑んだ。
「確かにそうだね。だが君にも、私の制止を振り切って彼の許に行く利益などないだろう?」
「それが二つ目です、首領。確かに利益はありません。私が行く理由は一つ。彼が友達だからですよ」
「では三つ目は?」
太宰は一度目を瞑り、そして目を開いた。
その瞳は真っ直ぐただ一点、森の瞳だけを見る。
夕日に照らされる太宰の瞳には怒髪天に突くが如く、確かな怒りの色を滲ませていた。
「三つ目は忠告です。首領に、彼女の異能だけを求める貴方に、名前は渡さない」
森もまた無言で、その瞳に鋭利な冷たさ映し、見返していた。
それでは失礼、と太宰は吐き捨てる様に云うと、まるで散歩でもするような足取りで扉へ向かった。
部下たちが一様に指示を仰ぐよう森を見る。しかし森は腕を組んで太宰の背中を見たまま何も云わず、またその顔に笑みは微塵も浮かんではいなかった。
太宰は扉を抜け廊下を歩いていき、やがて闇の中に消え見えなくなった。
それを見届けたように、森は口を開く。
「彼女に異能だけを求められるのならば―――そんなに楽な事はない」
小さく呟いた森の声を聞く者は、誰も居なかった。
*
太宰は織田作の救援に向かう為、昇降機の釦を押そうと指を伸ばした。
昇降機の釦は最下階で点滅している。
一見すれば何も不思議な事ではないのだが、自棄に胸騒ぎがした。
―――『へっへーん!魔女っ娘名前ちゃんにかかればこのくらいお茶の子さいさい、ビビデバビデブー!なのです!!』
買い直さなければ成らない程に破壊され、散らかった部屋を、僅か数十分で元通りに直した彼女。
―――『生粋のタイムトラベラーですよあたしゃ!』
彼女の異能は、時間を操る。
―――『今日っ…今日、何処で何をしてましたかっ?』
焦燥感に襲われた、彼女の青ざめた顔。
――――『私は、未来からやってきたんデスよ。太宰くん』
そして、彼女の嘘。
太宰の中でまるでパズルが次々にピースを合わせていくように、一つの答えが浮かび上がった。
名前は、過去を遡っている。
そして、恐らくこの先に何が起こってしまうのか分かっていた。
彼女はどんな未来を視てきたのか。どうしてこの時代にやってきたのか。
異能は使われたのではなく、寧ろ彼女が異能を“使った”のではないのか。
太宰は今までに感じたことのない焦燥感を感じた。
若しかしたら、織田作の元に、いやそれ以上前の時点に、彼女は―――――
心臓が鼓動を強める一方、昇降機は直ぐに来た。
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