▼ 救済されない容疑者H
織田作さんは行ってしまった。私を置いて。そのすぐ後に、先程の様な銃声が聞こえてきた。
織田作は、復讐を始めてしまった。
まだもう一度、後一度くらいは大きく時間を巻き戻せそうだ。
否、戻さなくてはならない。けどこのままもう一度戻って、同じように織田作を言葉で説得したとしても、その結果は変わらないだろう。
何より、後たった一度っきりで織田作を止められる自信が、私には、無い。
―――――――無理だ。
私には止められない。私では、彼を、織田作を止めることが出来ない。
長年連れ添ってきた太宰でさえ止められなかったのだから、単純に出会ってから短すぎる私では、その足を止められる程の存在になれない事なんて、分かっていたのに。
それでも、貴方は私の事を大事だと、そう云ってくれた。
大丈夫だと、そう云ってくれた。
その事に、まるで初めて自分がこの世界に居て良いと肯定されたように、私が心底安心したことなど、貴方は知らないのだろう。
『…っああああああああああああああああっ!!!』
泣く事も出来ず、悔しさが、怒りが、情けなさが、憎しみが、嫌悪が、理不尽さが、叫びとなって喉を傷めた。
これじゃ無い。
これじゃ、この未来じゃ、何も救えない。
如何すれば良い。
如何すれば織田作を止められる。
考えろ……考えろ、考えろ、考えろ!!
今此処で何も出来ないんじゃ、駄目なんだよ。
生きてる意味が、私がこの世界に来た意味が、無いんだよ。
何が変われば良い、何を如何変えたら良い。
地面に散らばる落ち葉を頭痛に耐える様に握りしめた。
織田作は何故ジイドを殺しに行く?――――子供たちを殺されたからだ。
なら子供たちを助けに行けば?――――それ以前に私の身体が持たないだろう。
織田作が死んでしまうのは何故?―――――ジイドに殺されるからだ。
なら、ジイドを、殺せば?――――
起き上がれないままに、足元に転がっていたデジタル時計を手繰り寄せた。
そしてその無機質な硬さを額に着け、その場に蹲る。
目を頭痛に耐える様にぎゅっと瞑った。
もっと、もっと前に。
織田作が、此処に辿りつく、もっと前に。
――――――――――――チ"ィィンッ
『……うっ、ゴホッっ……』
鈍い音が、頭に響いた。
まるで鐘を頭に直接ぶつけられて鳴らされた様な、そんな響きだ。
お腹の底から威圧感と切り裂かれた様な酷い痛みを感じ、そのまま喉まで何かが迫り上げそれを吐いた。喉が酷く痛い。まるで焼かれた様だ。
霞みゆく視界で手元を見れば、デジタル時計が鮮血で真っ赤に染まっていた。
口元を拭うと、手に血がついている。
今、私がこの血を吐いたのだろう。
時間を遡る。本来あってはならない禁忌だ。
その罰が、これなのだろうか。
一体何処からが、罰だったのだろうか。
でも、そんな誰に咎められるかすら分からないような事、今は気にしている場合じゃなかった。
先程よりも震える足で、洋館の扉まで歩く。
押し開く観音開き型である扉に、倒れ込むようにして私は洋館へ入った。
ミミックの傭兵に見つかり、銃口を向けられるたびに物陰に隠れ、時間を数秒撒き戻し、それを繰り返しながら奥へ奥へと進む。本物の幽霊ならば、こんな必要はないのに。
まるで何処か遠い国で今も起こっている戦争を、生き抜いているようだった。
渡り廊下の先は、中庭に面した広い歓談室だ。
確かその前方にある扉には爆弾が仕掛けられていた筈。
……私では、開けることが、出来ない。
扉に背を向け、中庭に向かって両手を上げ、何処かで私の様子を窺っているミミックの傭兵に声を上げた。
『ジイドさんを救う為に、此処に来ました。…会わせてください』
私の今の恰好はスーツ。しかも先程地面に倒れていたせいで所々泥が浸み込み、葉の破片やら枝やらがくっ付いている。
武器を隠していないのを証明するために、ゆっくりと上着を脱いだ。
そしてもう一度手を上げる。
『お願い、します……』
賭けだった。
ここで殺されてしまえば、もう、何も出来ない。
目を瞑る。
音は、無い。
でもミミックの傭兵が居ないなど、あり得ない。
でも誰も出てこない。如何する。
このままでは織田作さんが来てしまう。
焦燥感に駆られ、冷や汗が流れたその時だった。
―――――ダァンッ
突然の銃声に肩がびくりと震えた。
撃たれた。でも衝撃はない。
痛みが麻痺しているのかと思ったが、未だ痛いのは頭の中と、喉とお腹だ。
でも致死的な痛みではない。
では、一体誰が撃たれた?
ゆっくりと瞳を開ける。
――――― カランッ
目と鼻の先で、何かが落ちた気配がした。
足元を見れば、其処には一発の鉛玉が転がっている。
不安定なその形から今も揺れているそれは、おそらくたった今私に向けられて撃たれた銃弾だ。
「なっ……!?」
何処かから誰かの声がする。
恐らく私を撃った狙撃手だ。
『お願いします。ジイドさんに、会わせて』
「………貴様、何者だ」
『名乗るほどの者でもない、時間を遡る者です』
正直、自分でも何が起こったのかさっぱり分からない。
でもそんな事今は一々気にしている場合じゃなかった。
デジタル時計は私の血によって壊れてしまった。
もう巻き戻ることは出来ない。一度きり。
狙撃手はゆっくりとその姿を見せた。褐色の黒ひげが印象的な中年のおじさんだった。
その頬はこけていて目つきも悪く、血色の悪さが窺える。
「お前は…この地獄から、俺達を救えるのか?」
『…私では、無理です。これから来る男なら、或いは救えるでしょう。私は、アンドレ・ジイドさんを救いに来た』
両手を上げ、背中を向けて話す。
ざっざっざと此方に歩いてくる。
そして、背中に堅い物を当てられた。
「着いてこい」
賭けには、勝てたようだ。
*
ミミックの傭兵に銃口を突き付けられながら歩かされた先は、広大で天井の高い舞踏室だった。傭兵は私を部屋に入れると、そのまま持ち場に戻っていった。
…見た目だけでさえ、武力は無いと判断されたのだろう。
部屋の、三階ぐらいの高さがある天井からは、蜘蛛の巣やら埃やらが積もった変わり果てた姿のシャンデリアが垂れ下がっている。この舞踏室が本来の目的で使われていた時は、きっと輝かしい光を放ち、下の人間を照らしていただろうに。
両サイドにある金刺繍の入った深紅のカーテンは、嘗ての森さんの執務室を彷彿とさせた。でもそのカーテンは至る所で破れ、ほつれてその美しさは微塵もない。
頼りない足取りで部屋の中央まで行けば、前方から人影が現れた。
大きな体に反して、少しの靴音も立てずに現れた彼は、正に幽霊だった。
「サクノスケかと思えば、御婦人だったか」
銃を構えたまま此方に音も立てず歩いてきたのは、とても整った顔立ちの兵士だった。
服も頭髪も、青みがかった美しい銀灰色で、鋭い眼光からは強い意志を感じさせる。
高級な背広を着て、片手に葡萄酒でも持てば其処等の映画俳優にも劣らないだろう。
両手を上げ、武器も持たない私を見るとジイドさんは少し奇妙そうな顔をしたが、その銃口を下ろした。
でもその眼は酷く冷たく、何かを渇望して居る様な、そんな眼光を放っている。
その瞳を私も負けじと見つめ返した。
――――覚悟は、もう出来ている。
『アンドレ・ジイドさん、ですね』
「如何にも。貴君の名は?」
『私は、貴方の様に、名乗る資格もない…普通の女です』
そしてまた、自分の見たい未来を視る為なら、その身を削ってでも方法を選ばない、莫迦な女だ。認めたくはないけれど。
私がそう云えばジイドさんは一言そうか、と呟いた。
「貴君は何故ここへ?」
『貴方を救いに』
「ほう。貴君の力は我々の魂を原罪から解き放つことが出来るのか?」
『私一人では、あなた一人で精一杯です。残りの貴方の仲間は…サクノスケが解放してくれるでしょう』
「では何故?」
『私は、貴方だけを先に救いに来た。私の異能は、貴方を解放するためにあるのだから』
ぴくり、ジイドさんは眉を動かす。
眉間に皺を寄せ、神妙な顔をした。
そして数秒の沈黙の後、なるほど、と納得したように呟く。
恐らく異能を使って、未来を視てきたのだろう。
「貴君も乃公と同じ異能、否…乃公とは少し異なる能力の持ち主か。確かに貴君の異能ならば乃公を解放することが出来るだろう」
ジイドさんは笑っていた。
異能の方は認められたようだ。
手を握りしめる。
その手は緊張から汗ばんでいた。
でもその笑みは直ぐに無くなり、「だが、」とジイドさんは口を開き、先程の険しい顔をする。
「その為の力が、貴君にはない」
――――――矢張り。
確かにジイドさんは私を殺すことは出来ない。
さっき私に向けられた銃弾が、良い例だ。
けど、私にもジイドさんを殺すことは出来ない。
私は織田作さんの様に異能に頼らず、己の潜在能力のみで闘えるほどの戦闘能力なんて微塵も持ち合わせていないのだから。
何せついこの間まで、普通の女子高生だった。二転三転あってポートマフィアと云う物騒な集団に入ったものの、その実情はデスクワークだ。
戦闘なんて、初めて駆り出されたあの日以来したことがない。銃撃戦が始まったその場でだって、恐怖で引き金を引くことさえ出来なかった。まあその戦闘のお蔭で、知りたくもない銃の使い方などを教えられる羽目になったのだけど。
でも、そんな普通の戦闘経験ゼロの女が、幾多もの戦場を生き抜いてきた手練れの、しかもその軍団の司令官を務める男に戦いを挑むというのは土台無理な話だ。
だから私は考えた。
其の為の、先ほどの覚悟だ。
嗚呼まさか、自分がこの世界で、この言葉を云う事になるなんて。
皮肉にもほどがある。
内心静かに自分を嘲笑した。
『ええ。戦闘を経て、貴方を殺すのは無理でしょう。だから―――』
私はジイドさんの瞳を見つめ、嗤った。
『私と、心中してくれませんか?』
prev / next