▼ 決別の時
仲直りをした後日、今日こそ今原作でどの地点にいるのかを聞こうと、難い意志を持って扉を開けた時だった。
「名前、聞いてくれ。織田作が養っていた孤児が、殺された。織田作はその復讐でミミックの本拠地に一人向かっている」
『……っ!』
切羽詰る太宰の只ならぬ雰囲気に、更に事態の深刻さを感じさせられる。
事態は想像以上に酷かった。
一難去ってまた一難。
神様は休憩など、させてはくれない。
「私はこれから首領に幹部級異能者の小隊を編成し、ミミック本部に強襲をかける許可を貰ってくる」
『私も織田作さんの処へ…!』
「駄目だ。危険すぎる」
『でもっ……!!』
「何の異能力を持っているか分からないけど、戦闘に関して名前はまるで素人のそれだ。…厳しい事を云うが、足手纏い以外の何者でもない」
分かってる。そんなことは。
戦闘どころか、銃の引き金も引いた事すらない私が銃弾戦の中に立っていたところで、精々良い的になるぐらいしか出来ないだろう。
でも、それじゃあ間に合わないんだよ。
このままじゃただ敷かれたレールを走ってしまう。
何とかしなければ。
どうする。なんで私はこの世界に来た。
何故私は、この異能を持っているのか考えろ。
……そうだ。
だって、私の異能は――――――
「名前…私を、信じてくれ」
時間を、遡ることなのだから。
私の無言を肯定だと思ったのか、太宰は私の肩を叩くと執務室を出て行った。
太宰の言葉を裏切るような形にはなるが、太宰が出て行ったのを見届けると、私はその手にデジタル時計を握り締め、急いで執務室から飛び出した。
森さんの執務室に行くため上へと上がった太宰とは裏腹に、私は下へと下がり事務所を飛び出す。
西の山岳地帯にある洋館。
場所は、既に把握している。
今はこの足を全速力で回すことだけに集中した。
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クヌギの雑木林が茂る林道を抜けると、目的の洋館が見えてきた。
紫のストレート葺きの屋根、宗教の様な異称が入った半円形の破風。
暮れかかった夕日で、その洋館は何処か神秘的な雰囲気を感じさせた。
しかし、それと同時に、穏やかではない銃声も、風に靡く木々の音をかき消すように耳に入って来た。
既に、織田作さんの復讐は始まって居る。
こうなると、銃も何も持たない私は最早何の役にも立たない。
でも、私の時間を遡る異能は、移動した場所で時間をそのまま遡れる。
血の味がする喉で深呼吸をし、乱れた息を整える。
そしてデジタル時計を胸に当て、もう一度深呼吸をした。
数分じゃない。十分でも、三十分でもない。
もっと、もっと、もっと、もっと、もっと――――――
もっと、前へ。
――――――――――チ"ィンッ
いつもより、鈍いような音がした。
瞳を開ければ、洋館の扉へと歩みを進める織田作さんの背中があった。
足を織田作さんに向かって、一歩踏み出す。
しかし、そこでぐらり、視界が大きく揺れた。
がしゃっと音をたてて、手元からデジタル時計が落ちる。
がくがくと足は痙攣し、ふらつく足でその場に倒れないようにするのが精一杯だ。
前に、進めない。
それに頭が痛い。
頭蓋骨をかち割られて、そのまま脳みそを直接殴られているような痛さ。
でも―――――ここで倒れる訳にはいかないんだよ。
震える声で、視界が揺れ視点が定まらない中で名前を呼んだ。
『……おだ、さくっ…!!』
貴方を失う訳には、いかないから。
*
洋食屋を出て、西に向かって俺は歩いた。
ミミック兵に洋食屋で親爺を殺され、そして誘拐された子供たちは皆バスの中で爆死させられた。何処か現実味のないその事実は、親爺の場合はその瞳を伏せた時、子供たちはバスの中を確認した時に俺の心の準備など儘らない内に叩きつけられた。
自分の中できりきりと魂が引き絞られるような感覚があった。
魂が不可逆的に変形させられていく音だ。
親爺が死んでいた洋食屋のカウンターには軍用ナイフで地図が突き刺されていた。
ここから少し離れた山岳地帯が書かれた地図には赤い×印と、たった一言、“幽霊の墓所”と走り書きされていた。
ミミックから―――ジイドからの俺への招待状だ。
これからの戦闘に備え、出来うる限りの準備をしたが、包帯と鎮痛剤は持たなかった。
おそらく必要ないだろう。もう俺の中では凡て、終わってしまったのだから。
最後に太宰が俺を止めに来た。太宰は最後に俺に向かって叫んだが、俺は振り返らなかった。
歩く途中不思議な青年に会った。死を予言されたが、俺はそのことを知った上で、今この足を動かしている。だから、迷いは無かった。
ただ、ふとミミックの本拠地に向かう途中、少し前の出来事を思い出していた。
あれは俺が、他の構成員に云い付けられて事務所の裏手で掃き掃除をしていた時の事だ。
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―――――――――――
―――――
『おっださくさーん!ごきげんよう!』
「…名前か」
誰も居ない、静かな事務所の裏手では名前の明るい声はよく響いた。
『ども。何してるんですか?』
「掃き掃除だ。今は落ち葉を集めている」
『あー、確かにもうそんな時期ですもんねえ』
事務所の裏手は、紅葉しきって既にその役割を終えた落ち葉が、初めからそういった絨毯が引かれていたかのように辺り一面を覆っていた。これは一人で片付けるのには無理かもしれない。
名前は「ほおー」っと気の抜けた声を出して、事務所の周りに生えた木々を仰ぎ見た。ひゅうと吹いた冷たい風に、名前は腕を摩って寒そうにしている。
あの日行きつけのバーで出会って以来、名前とは偶に事務所内やバーで会っていた。
相変わらず表情がコロコロと変わる奴だ。今だって、先ほどまで落ち葉に感心し、寒さに顔を歪めたかと思えば、今度はもう一本置いてあった箒に跨り「魔女っ子おお」と楽しそうに騒いでいる。
太宰がその歳以上の精神の持ち主だとすれば、名前の場合はその逆のように思える。
無邪気に笑うその笑顔は俺が養っている咲楽のことを彷彿とさせた。
『でも、こんなに落ちてちゃ一人で掃除するのも大変でしょう?』
「嗚呼。まあ、頼まれた以上やるしかない」
『ふーん。じゃ、私も手伝ってさしあげます!』
「いいのか?首領の元を離れても」
『え?…ああ!私、首領秘書じゃ無くなっちゃったんデス。今は太宰の秘書してます。今日は太宰、どっか仕事行ってるしー』
「そうなのか。それは大変だな」
『ええ。そりゃもう』
箒を持ちながらはぁとため息を吐き、据わった目をする名前に俺は首を傾げた。
首領の秘書から異動して大変だとは云え、寧ろ太宰の秘書になったのならやりやすい様な気がしたのだが。身内は身内でやりにくいものがあるのかもしれない。
先程まで一人で黙々と掃いていたのと打って変わって、名前が来たことで急に裏手はその静けさを無くし、賑やかになった。
『んで太宰ってば眠いから私に歌えって云うんデスよ!?冗談じゃないっつーの!ベビーシッターか私は。だからそれはもう大きな声で歌ってやったんです。天城越えを』
「随分と渋い選択だな。それで太宰の反応は?」
『一切聞いてませんでした。耳栓付けて。部屋を出れば構成員にざわざわと騒がれました。パワハラもここまでくればいっそ清々しいデスよ、ほんと』
名前は箒で落ち葉を一か所に集めながら、太宰の元に秘書が変わってからの愚痴を永遠と話している。
太宰の携帯電子盤の下手さ、日常で仕事に混ぜられる理不尽な要求、自分勝手な態度、次から次へと名前の口からは驚く程に酒場では知れない太宰の通常時の仕事態度を窺えた。
よくそんなにネタが尽きないものだと思ったが、酒場での太宰の様子を思い出せば彼奴ならやりかねないことばかりだった。
太宰の愚痴について話す時も名前は身振り手振り以上に、その顔でどんな気持ちだったのかを凡て物語っている。本当に表情豊かな奴だ。
俺はあまり感情を表だって出さない為、名前のその表情筋が如何なっているのか少し興味を持つ。
しかし、それ以上に一つ名前について知りたいことがあった。
「名前は太宰が好きなのか?」
『私が、太宰のことを、好き?』
そこで初めて名前は表情をなくした。
まるで面食らったように、名前はその黒い瞳をぱちくりとさせ俺を見た。
『冗談じゃないデス。無理無理!あんな包帯ぐる巻き迷惑如雨露の受け皿になるのは御免被ります』
「そうなのか。てっきり俺はお前たちは付き合うとばかり思っていた」
『うはは!益々あり得なっしんぐう。太宰と付き合うなら森さんと付き合う方がマシってもンです。太宰なんかより財産も地位も凄いですし、何よりそんな他人を家政婦みたいにこき使ったりしませんしー』
ここ一番で名前は顔を歪めていた。
森さんとは、首領の事だ。
あの鋭利な刃物のような瞳を宿す、ポートマフィアの首領ともあろう人を、ちょっとした知り合いを呼ぶように親しげに森さんと最初に云われた時は直ぐ首領の顔は浮かんでこなかった。
突き出された下唇でしゃくれながら名前は腹が立つと云ったように話す。
「でもあんなに仲良いじゃないか。少なくとも俺には太宰が名前に目を掛けてると思ったんだが」
『ははっ、私なんぞに拘らずとも、女なんて太宰には掃いて捨てる程いるでしょうよ。其れこそ此処に散らばる落ち葉のように』
名前はそう云って可笑しそうに笑うと、ざっとまた掃き掃除を始めた。
本当に何も思っていないのだろうか?
矢張り、女の考えはよく分からない。
怒っていたかと思うと、またさっきのように鼻歌を歌いながら落ち葉を掃き始めた。
一見分かりやすそうな、莫迦にする意味でなく単純に自分の本能に従って生きていそうな名前でも、そう云った隠された心があるのだろうか。
鼻歌を歌いながら名前は掃いていると、「あ!」と大きな声でその場にしゃがみ込んだ。如何したのだろうと思い近づくと、名前は満面の笑みで俺を見上げる。
『見てくださいこの落ち葉!なんか顔みたいじゃないデスか!?』
名前が持つその落ち葉は二つの穴と細長い穴が開いていた。
云われればそう見えなくもないが、少し破れ、不恰好な落ち葉の穴は俺には穴としか見れなかった。
『なんだか笑ってるみたいデスねえ』
「そうか?」
『心の目で見るんデスよー、こういうのは』
「そうなのか」
『そうなのデス』
くるくると、葉の堅い部分を持って指で回す名前の横に立つ。
さぁっとまた風が吹いた。
あの日横浜の夜風が運んできた時と同じように、名前からは甘く優しい香りがした。
俺の目から見て、太宰が名前に特別な目を向けているのは明らかだった。それが恋愛だとかそう云うものかは分かりかねるが。でも確かに太宰は名前を意識している。
――――だが、太宰がもし、名前さえも掃いて捨てると云うのなら。
「俺なら、その落ち葉を拾うぞ」
『え?でも所詮落ち葉ですよ。どうせ直ぐ捨てちゃいますし』
「俺は捨てない。その落ち葉は確かに只の落ち葉だが、沢山落ちている中で、その顔を持つ落ち葉はそれだけだからだ」
『…そう、デスね』
あの時のお前は、どんな顔をしていただろうか。
*
ポケットに突っ込んだ手が冷たいものに触れた。
握り締め、ポケットから出すと、それはくしゃりと潰れたあの時の落ち葉だった。
くしゃくしゃになってしまったその落ち葉は最早顔とは呼べず、ただの落ち葉の破片になってしまっていた。大事に、取っておければ何か変わったのだろうか。
山道にその落ち葉を落とし捨てた。
ポイ捨てにならないのは、此処が葉があるべき場所だからだ。
…そして名前も同じことだった。
名前も、彼奴の居るべき場所も――――――おそらく俺の元ではない。
彼奴が何故ポートマフィアに居るのかは分からない。けど、あの組織も名前の居場所ではないだろう。
それを云えなかったのが、少し心残りだと云ったら、お前はまた可笑しいねと快活に笑うのだろうか。
もう凡て終わったというのに、何故名前の事が頭から離れないのか。
お前にあの何処か気の抜けた、独特な口調で止められていたら、俺は如何したのだろうか。
結局、俺には何も分からなかった。
招待状の場所には古びた洋館がぽつりと建っていた。
暮れかかる夕日を受けて、林の中にぼんやりと浮かび上がっている。
その洋館に足を進めようとしたその時だった。
『……おだ、さくっ…!』
悲痛な、でも何処か聞いたことのある声だった。
振り返ればそこには、声を聴いて思い描いた彼奴が居た。
如何してここまで来れたのだろうか。
さっきまで誰も、一人の気配も無かった筈なのに。
ふらつく足でなんとか立っている名前は、血色も悪く、頭を押さえて視点も定まらないように見える。様子が可笑しいその姿からは、走って来たから体力切れを起こした所為ではないということが窺い知れた。
「名前、どうやって此処へ…否、なんで此処へ来た」
『織田作さんを、止める為デスよ』
決まっているでしょう、と名前は困ったように何処か疲れた顔で眉を下げて笑う。
『小説家に、なれなくていいンですか?あなたが…あの下巻の続きを書くのでしょう…?』
「何故、その事を」
『私の異能は、過去を遡る、デスから』
なら、名前は俺の過去を見てきたと云うのか。
冷や汗の流れる、真っ青な顔で名前は尚も微笑んでいた。
だが、遂に立って居られなくなった名前はその場に崩れる様に足を着いた。
思わず手を伸ばしたが、ぎゅっと握りしめ、下へと下ろした。……今の俺にはそれに駆け寄って優しく手を伸ばす資格などない。
『織田作さん、人は自分を救済する為に生きている…そう、あの本で読みましたね。そして、その言葉は今も貴方の心にこびり付いている、筈です…。そしてまた、本を書けと貴方に云った人は、まるで自分に自分を救済しろと云っているようだ、とも、感じた…筈。けど、私はこう思うンです』
途切れ途切れであり、その声は弱く小さなものであるものの、名前が持つ二つの瞳には強い意志の光が宿っていた。
『人は、自分を幸せにする為に、生きている。…幸せに、なんなきゃ、駄目なんですよ。織田作さん…貴方がしようと、してることは…自分の幸せを、諦めた事になるんデス。まだ、先は長い。今日が最悪の日なら、明日は?その次は?知らない事など、多くあるでしょうに…たった五秒先の未来で、何を推し量った心算でいるんデスか…』
随分な言い草だと、思った。
でも、確かにその通りだとも思った。
若しかしたら、何か別の未来があるのかもしれない。
子供たちを失い、悲しみで暮れる俺を変えてくれる何かが、明日にもあるのかもしれない。或いは、名前が、俺の変化になってくれるのかもしれない。
でも――――――たった五秒先の未来で、俺は充分だと思えてしまった。
ただ、ほんの少しだけ、あの時の落ち葉を、捨てなければ良かったと後悔した。
俺は、名前が好きだったのかもしれない。
でも今の混沌とした心情では、それを判断するのは不可能だった。
「名前の事を大事に思っていた。きっと、友達とは別の何かとして」
そう友達ではない別の、何か。
それを自分の好きな相手と云うのか、或いは心惹かれた想い人と云うのか、あまり恋愛と云うものをしてこなかった俺には今一分からなかった。
俺がそう云うと、名前は驚きで眼を見開いた。
あの時、太宰を好きかと聞いた時よりも、遥かに衝撃を受けたような顔をしている。
それに、少し優越感を感じた俺は可笑しいのだろうか。
「俺の欲しい物を、お前は凡て持っていたからな。けど自分では手に入れられない。だからその代わりにお前を大事にしたいと…そう、思っていた」
人を一人とて殺したことのない名前が、羨ましかった。
俺では一生見ることの出来ない世界が、お前の目には見えているのだろう。
そう考えると名前の事が酷く羨ましくて、憎くかった。
でもそれ以上に、きっと俺は、お前の事が――――。
『なんでっ、今そんなこと』
「忘れてくれ。俺はお前を置いていく」
忘れて欲しい、訳じゃなかった。
好きな人に自分の事を覚えていてほしいと思うのは、不思議な事じゃない筈だ。
でも俺には、泣きそうな顔をするお前を置いていく俺には、その資格がない。
名前は苦しそうに眉間に皺を寄せ、俺の名前を呼ぶ。
その時――――名前が初めて会った時、何故睨みつける様にジュースを見ていたのか分かった気がした。
「太宰を頼んだ」
『織田作さんっ…!!』
あの時、名前は何かの恐怖で押し潰されそうだったのだろう。
今目の前で俺の命が失われる事に対して、恐怖を感じているのと同じように。
睨みつけていたのは、いつも己だった。不安で怖気づく自分を、名前は奮い立たせる為に、コップで歪んだその顔を睨みつけていたんだと、今ようやく分かった。
俺にも、若しかしたら人並みの恋愛が、出来たのかもしれないな。
でも最後に、俺の我儘が許されるのなら。
動けない名前の元に駆け寄って、俺は力の限り名前を抱きしめた。身体の小さな名前は俺の胸の中にすっぽりと納まり、俺の空っぽになってしまった心に少しの温かみが戻った様な気がした。
「お前なら、大丈夫だ」
『…っ!!駄目、織田作さっ……!!』
名残惜しく感じつつも名前の身体を離し、俺は駆け足で洋館へと乗り込んだ。
走らなければ俺の名を呼ぶ声に思わず振り返ってしまいそうで、この決意が消えてしまうような気がしたからだ。
さよならだ、俺の大事な人。
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