黒の時代編 | ナノ


▼ 覚醒の時

今日も今日とて首領の席の隣で書類整理に追われていた。大体どっからこんなに書類が出て来るんだ。云われたところで、私の平凡な思考回路では到底到達することは出来ないのだろうけど。

そんな凡人脳の私に、それはもう美しい笑みで書類を押し付けた森は、これまた今日も相変わらずエリス嬢と遊んでいる。いや、遊ばれている。それでいいのか首領殿。てか仕事しろ首領殿。ほんの、本当にほーんの少しだけ恨みの念を森に向けた。

その瞬間、間が悪いことに目が合ってしまった。
ばちり。そんな音がした気がする。

だって彼、物凄く良い笑顔で立ち上がったもの。凄い速さで歩み寄ってきてるもの。やばいやばいと顔面蒼白になる私の心情など露知らず、目の前に立った首領は微笑を張り付けて首を傾げた。


「如何したんだい?」

『あ、えっと、めめめ目が疲れちゃいまして!あはぁ、ちょっと老眼かなぁ。はは』

「君が老眼だったら、私は大変なことになるねぇ?」

『そんな、い、嫌デスよ首領!首領はポートマフィア界の生けるシーラカンスじゃないデスか!!』


冗談きついっすよ。いや本当に。はっはっはと私の空笑いが虚しく響く。エリス嬢、お絵かきは良いからコッチ見て!そのクレヨンを置いて首領の名前を呼んで!お願い!

ふーん、と首領は笑って打ってるのか打っていないのか分からない相槌をする。これ、死んだかもしれん。美しい微笑みとは裏腹に首領の瞳は最早絶対零度の冷たさだ。寒い。寒いよパトラッシュ。朗らかな春の日和だというのにこの部屋は、というか私と首領の世界は氷河期を迎えていた。

首領はエリス嬢が絵を描くのに夢中になっているのを善いことに、綺麗な笑みを浮かべてその瞳に闇を含んだまま私に近づいてくる。流石に他人の表情に疎い私でも分かった。

これは張り付けた笑みだと。その真意は真っ黒に染まっていると。


「一度にかなりの量を渡してしまったからね。疲れるのも無理ないよ。いやはや、申し訳ない」

『いや、そんな。首領に謝らせるなんて、もう私ごときの土下座では足りないですよね。いっそのこと海に沈みます。それが良い』

「それは一寸穏やかじゃあ無いねえ…ああそうだ。私は今珈琲を飲みたいと思っていたのだけど、良かったら」

『直ぐに淹れて来ます。ホットのブラックですね。この身に代えても』


首領が言い終わる前に、足早に部屋を出た。

ノブを後ろ手に引き、扉を背に息を吐く。緊張と恐怖から、今にも心臓が口からぽろりと出るんじゃないかと言うほどに鼓動が高鳴る。心臓が痛い。

いやもう、本当になんなのあの人。恐ろしすぎるわ。寄りによって一番目が合ってほしくないときに、こっちを見るだなんて。ポートマフィアの首領ともなれば他者の念など簡単に察知できるというのだろうか。だったら逆に、幼気な少女の手伝ってくださいよんもうっぐらいの念は軽く大人の対応で受け流して欲しかった。

まあ兎にも角にも、今はまず自分の命より珈琲である。最近全く運動をしていないせいか重くなった足を給湯室に向けて回転させた。またランニングでも始めるか………生きてたら。





名前が部屋を出た後、森は今しがた名前が座っていた椅子の背もたれに触れる。ほんのりと温もりを感じるも、それは直ぐに冷たく無機質な温度となった。


「一緒にお茶でもしようと誘いたかったのだけどねえ…」


目尻を下げ、苦笑する森鴎外のことなど名前は露知らず。


―――――――――――――
―――――――――
―――――


珈琲を淹れ、執務室に戻ると珍しく首領はエリス嬢から離れ(とは言っても3メートル程だけど)、真剣な顔をして自分の机に座っていた。

顔は人並み以上に整っているし、黙っていればそれはもう素敵な男性なのだけど。

切れ長の瞳は、今し方誰か報告書を出してきたのだろうか、手元の書類の文字を追っていた。…なんだかんだ、初めてまともに仕事をしている姿を見たかもしれない。

まあどうせあの報告書も私の机の上に投げられるんだろうなあ。

そっと淹れ立ての珈琲を首領の机に置くと、此方を見ずに「うん。ありがとう」とお礼を云う。

軽くお辞儀をして私も自分の席へと座った。

先ほど首領へと淹れたときに、ちゃっかり一緒に淹れた自分の紅茶がまだその熱さから湯気が出ている。角砂糖を何個入れたか、今はもう記憶に無いです。

しかも淹れたは良いけど、私は猫舌の所為で直ぐには飲めない。
アイスにすれば良かったと後悔しても遅かった。

まあでも流石ポートマフィアの首領お墨付きというべきか、茶葉が、というか香りが市販のそれとは全然違う。

芳しい香りに疲れを癒されつつ、作業はもうそろそろ終盤である。
これが終われば晴れて自由の身。

夕ご飯は親子丼。
憂鬱な朝に目覚めた瞬間からこれに決めているのだ。

ちなみに私はこの建物内にある構成員用の空き部屋を、自分の部屋として使わせていただいている。いやー、非常に有難いことだ。

ありがとう首領!スペシャルサンクス!
そんな思いで首領を見れば、今度は先ほどのように此方を見ることはなく、私が淹れた珈琲を音も無く飲んだだけだった。

感謝の視線には気付かないのかよーい、と思ったけど首領との会話は精神をすり減らす。
そんなことよりも念願の親子丼を食すべく、さっさと今日の分の整理を終え仕事を上がりたいが為に、目に厳しい光を放つ画面に向き直った。

しかし目の前のこれはパソコンという名の精密機械。しかも今は情報を打ち込んでいるというクソ面倒な作業が、紅茶を零しておじゃんになっては堪らない。

そう考えた聡明且つ浅はかだった私は、出来るだけパソコンから離れた机の端にマグカップを置いて仕上げに集中していた。


―――――それがいけなかった。


「名前!見て見てこの絵」

『エリス嬢!!』


机の端に置いた未だ湯気を立てている紅茶が入ったマグカップの取っ手が、エリス嬢の突き出した絵に引っかかり倒れる。

エリス嬢からは見えなかったのだろう、倒れたマグカップはそのまま入っていた液体をエリス嬢に向かってぶち撒けた。
熱湯にも等しい温度を持った紅茶が、驚きで真ん丸に見開かれたエリス嬢の大きな瞳に映る。

全ての動きがスローモーションに見えた。


―――――――――その瞬間


チィンっと電子レンジのような音がしてはっとする。

いつの間に意識を飛ばしていたのだろう。

目の前には先ほどと同じようにデータが打ち込まれた画面。
前には先ほどと同じように書類を持ち、目で文字を追う首領の姿。

その三米(メートル)先では、先ほど熱々の紅茶を被ったはずのエリス嬢が上機嫌でクレヨンを手に絵を描いている。
そして机の端には倒れていない、湯気の立ったマグカップ。

今のは一体、なんだったのか。

まさか白昼夢だとでもいうのか。


だとしたら―――――心臓に悪すぎる白昼夢である


あまりにも生々しいものだった。

先ほど飲み込んだ心臓が、今度こそ口からポロリと出てきてしまいそうだ。
深呼吸をして落ち着く。

疲れてるのかな………疲れてるんだな。

早いところ作業終わらせて寿命が縮まりそうなここから出よう。

そう思い、ふと首領を見れば珈琲が入ったマグカップを口に運んでいた。
……そういえば今見た白昼夢も、首領が珈琲を飲んだすぐ後に起こったんだよね。

確かエリス嬢が机の上に描いた絵を、


突き出して。


回想しながらエリス嬢が座っていたはずの席を見れば、そこには使い過ぎて短くなった赤いクレヨンがコロコロと転がっているだけだった。


背筋が凍る。


「名前!み」

『エリス嬢危ない!!』

「…!?」


ぱっと机の端に置いていた紅茶のマグカップを自分の方へ引き寄せた瞬間、マグカップが置いてあった場所に可愛らしい絵が描かれた画用紙が突き出た。

突然の私の大声に今まで書類と睨めっこをしていた首領も、驚いて目を開きながら此方を見ていた。

どっどっど、心臓が高鳴り胸の内で暴れる。
まるで音が漏れているのではないかと言うほどに。

三度目の正直とは、正にこのことなのではないのだろうか。

一体、今何が起きた。
いや分かっている。


何故って、“さっき見たのだから”


驚愕したものの、ある意味想像通りのことが起こったのだ。

エリス嬢がつき出す絵がマグカップを倒すことも、その紅茶を取れば倒れないことも、ちゃんと分かっていた。
状況も、タイミングも、全て目の前で経験した事だ。

だから運動を辞めて一年ほど経ったこの糞みたいな反射神経でも、思い描いた行動が出来た。

とは云え、何が起こったのか分からず未だ絵を突き出したまま固まっているエリス嬢の前にしゃがみ込み、安否を確認する。


『だ、だだ大丈夫ですか!?紅茶かかってませんか!?熱いところは!?痛いところはッ!?』

「大丈夫……だけど…」

『良かった…。ああビックリしました』


エリス嬢の言う通り紅茶はかかっておらず、ゼロがいくつも付くだろう繊細な手芸のレースがふんだんに盛られた臙脂色の服にも、シミひとつついていない。

絵にも紅茶はかかっていない。

この部屋一面に轢かれたフカフカの絨毯にも落ちていなさそうだ。

損害を被ったのはどうやら紅茶がかかってしまった私のマグカップを持つ手だけで済んだらしい。ふんわりと紅茶の芳しい香りが鼻を嫌味たらしく掠める。
そこまで確認してようやく止まった息を吹き出した。

我ながらナイスプレーなんじゃないの。

私のちょっとした火傷は、きっとエリス嬢の「だけど」という言葉の後に続いたのであろう。確かに手はひりひりと痛み始めるが取敢えず、エリス嬢に怪我がなくてよかった。

それが森鴎外の死よりも恐ろしい怒りを買うからとかではなく、異能力で生み出された女の子だとしても、純粋に目の前で少女が怪我をするのは嫌だった。


「一体どうしたんだい?」

「リンタロウ!名前が火傷しちゃったの!」

『え、いや、これくらい大丈夫デス!へっちゃらもんデス。健康だけが取り柄の名前ですから。ちょっと冷やせばすぐ治りますよ、えへへ』

「名前ちゃん」


声色は決して優しいものではなかった。
私を捉えるその瞳は、むしろどこか怒りが篭っている。

初めてまじまじと見るその瞳と威圧に、何も話せなくなる。

大きなため息を吐いた森鴎外は、間抜けにも私が未だ握りしめているマグカップを抜き取り、私の両手を取った。


「エリスちゃんを守ってくれたことは感謝するよ。ありがとう。けどね、君も女の子だろう?自分の心配より先に絨毯の心配をするだなんて、あってはならない筈だ。自慢ならより一層その身体は大事にしなくちゃいけない」

『…はい』

「だとしたら君が言う言葉はなんだい?」

『……医務室、行ってきマス、です』

「うーん、可笑しいね。私は以前医者をしていた事があると前に話した筈なのだけど。まさか私との会話を忘れてしまったのかな?」


そう言う首領の手元には何処から出したのか、救急箱がこれ見よがしに置かれていた。

いやいやいや、冷静に考えて名前。
大丈夫。やれば出来る子だって。

確かに異世界トリップだなんて美味しい設定はあるものの、容姿は普通、異能力もない、ただの下っ端構成員だよ?

普通に考えたらドンパチで撃たれていて、ただ列挙されるだけの報告書に名前が載るか載らないかくらいの、超モブの一端ですぞ?一回落ち着いて話そうじゃないか。…なんて口が裂かれようと、言える訳もない。

いや、本当に裂かれそうになったら話さなくていい事まで話すケド。

でも………もし、私の自惚れでなければ。勘違いでなければ。


『……ごめん、なさい』

「うん、よろしい。以後気を付ける様にね」


さあ手を出しなさいと云われるがままに、自分のほんのり熱を帯びた赤い手を差し出した。

そっと森さんが触れると、ぴりりとした刺激が走る。

しかし先ほどの恐ろしい笑みと打って変わって、今は見た目通り紳士な対応で痛くない様に塗り薬を塗ってくれているのが手付きから分かった。

流石は元医者である。

包帯の巻き方も丁寧且つ何故か色気があり、大人フェロモンに中てられぬよう幾重にも巻かれていく包帯をただじっと見るので精一杯だった。

今、間近にある首領の綺麗な横顔を見てしまえば、またさっきのように目が合ってしまうような気がして。
頬に集まる熱が、ばれてしまいそうな気がして。

しかし目の前から小さくクスッと笑う声が聞こえ、反射的に顔を上げてしまう。

想像以上に、それこそ焦点が合わないほど近くに精巧過ぎる程に端正な顔があった。
その妖艶な笑みに思わず釘付けになる。


「可愛いね。名前ちゃんは」

『…ふぉっ!?あ、え、と…今日も今日とて森さんは見目麗しい美人さんでございマスね!!』

「…っ、はっは!君にそう云われるとは、嬉しい限りだ」


きっと私は今、物凄く間抜けな顔をしているだろう。

悪どい笑みや、張り付けた笑みを見たことはあっても、こんな風に愉快だと云わんばかりに吹き出すような笑みを、笑い声を聞いたことも見たこともなかったからだ。

気付けば手当は終了しており、出来上がった手は包帯で完全に雁字搦めにされていた。

…おうのー。
これじゃキーボードが打てまセーン。


「今日はもう大丈夫だから、そのまま休みなさい」

『…はい。お心遣い、ありがとうございます』


首領はそのまま扉に向かい、戸を開けてくれた。
両手とも紅茶を被ったため扉を開けるのは難儀だったのでとても有難い。

エリス嬢に挨拶をしてから首領が開けてくれている扉に向かう。


部屋から出る間際に首領が耳元で囁いた。


「詳しいことは、明日聞くからね」


え、と聞き返す前にお大事にと微笑まれ、扉を閉められてしまう。

まるでこれから手術をする外科医のようなポーズで包帯の巻かれた手を挙げている私は、ただ唖然とするしかなかった。

詳しい話と言われても、デジャブにしては度が過ぎた白昼夢の話を信じてくれるのだろうか。

考えたいが、首領の部屋の前でいつまでも突っ立っている訳にもいかず、今日食べようと考えていた親子丼は諦めることにした。


………というか、ちょっと待て。


今さっき首領のこと、私ふっつーに“森さん”って呼ばなかった?


…呼んでない。
呼んでないよね!

それか自然な流れ過ぎて気付いてないとか!うんうん。
そうでしょうとも。

御願いだから誰か大丈夫だよと云って。



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