黒の時代編 | ナノ


▼ 首領秘書(仮)

キーボードを叩いていた手を止め、壁一面囲う程の巨大な窓から、揺蕩う雲が美しい青空をふと眺めた。まるでキャンバスに描かれた様な模範的な空を、気持ちよさそうに白い雲が流れていく。

超高層ビルヂングの最上階である此処から見える空は、しかしながら地上から見上げていた其れよりも心なしか威圧的なものを感じた。清々しい筈の青空に威圧感を抱くだなんて、テディ・ベアにメンチを切られたような奇妙さである。

恐らく、本来感じる筈のない青空の重苦しい威圧は、私の横で幼女に一生懸命自分が仕立てたワンピィスを着せようと奮闘している幼女趣味なこの男の所為でもあるのだろう。畜生め。私の純情な心を早急に返して頂きたい。そして、疲れたから休みたい。小一時間ほどは。

涙目で幼女を追いかけ回す男、その名も森鴎外。彼は悪鬼畜生共も泣いて逃げる横浜随一の兇悪組織、此処ポート・マフィアの首領、その人である。

かく云う私は、その専属秘書と云ったところだろうか。まあ首領の机の隣で書類整理印刷などを行うけれど、回される仕事も大したことはなく、やっているほとんどが幼女基、エリス嬢の遊び相手だった。………となると、私は秘書と言うよりは差し詰め保育士といった方が正しいのかも知れない。

前を見れば、生粋の庶民である私が買おうと考えるのすら烏滸がましい程の値打があるだろう革張りの椅子。それに加え、高級な骨董品ばかりが置かれるこの部屋の雰囲気に似合う、これまた精巧に細工のされた机。どれもこれもがド庶民の私から見ても眼の玉が飛び出るような値段だろうと一目で分かる高級家具だ。しかし、そんな部屋の中で置かれている私の机は、通販で中古品から格安で探された簡易的なデスクである。

大きさ、構成、素材、何もかもが隣にあるに相応しくなく、まるで私と首領を形容しているようだった。詰まり、完全に私はこの部屋で浮いている。


そう。ほんの少し前、私こと苗字名前は、このポートマフィアの最下級構成員の一人だった。


別に大した技量も度胸もない私は、いつ死んでも可笑しくなかったのだけど、パソコンを扱うことには少々長けていた。…おい誰だ、引き籠ってネット上にしか友達居なかっただろとか云ったの。判ってるからな。

まぁ何はともあれ、ここに来て初めての闘争、所謂ドンパチでほとんど隠れ身の術を行使していた(※ただ隠れていただけです)私は、無事に戦力外通告され、上手いこと晴れて情報処理係に異動となれた――――筈、だったのに。

一か月後の事である。

首領から直々に御付きの書類整理係になれ、とまたもや人事異動の声がかかったのだ。

これを聞いた私はすぐに逃げようと思った。聞いた話と私の予備知識では、首領は合理主義且つ冷酷非道を体現したような男であり、触らない、関わらないが要となる人物だと知っていたからだ。

そりゃあポートマフィアなんて叩いたら埃どころか、爆弾やら銃火器やら何でも出てくる物騒極まりない、むっちゃデンジャラスな組織である。それを総統する人物なのだから、生半可な精神を持った人間じゃ勤まらないのは想像に難くない。それこそ己が利益の為なら合理的な判断と冷酷な指示を的確に出せるような、感情を殺し、親でも殺せるような人間が席に着くに相応しいだろう。

話は逸れてしまったが、簡潔に言えば運動もそこそこで、其処ら辺の凡人と大差ない頭の私が逃げられる筈なんてなかった。

死を覚悟して涙を堪えつつ初の執務室に入れば先ほど挙げた通り、明らかに浮いている机がちょっこり確保されていて、更にその上に山のような未処理の書類が大量に置かれていたという訳だ。そして現在も日々エリス嬢の相手をする片手間に、いくらやっても魔法がかかったように減らない書類整理に奮闘しているのである。

あの時は私が想像していた最悪の結果にならずに済んだけど、そもそもぶっちゃけてしまえば、私はよくこんな首領秘書(仮)の席に今日も息をしながら座われているものだと我ながら感心してしまう。


実は私、苗字名前は一度死んでいるのだ。…と思う。


思うというのは、本当は死んだのかちょっと怪しいからだ。何しろ死んだという感覚がなかったもので。でも確かに私は恐らく二度目の人生を歩んでいる。しかも、天変地異でも説明できない、かなり特殊な世界で。

今しがた森鴎外の名前を挙げたけれど、私は彼と同姓同名の偉人を知っている。日本人ならその作品を覚えてはいなくても名前ぐらいは聞いたことのある、誰もが現代文、或いは国語で学ぶような文豪だからだ。

そしてもう一人の森鴎外は未だにワンピースを着させようと涙目になってきている、マフィアの首領である。――――――しかし、こちらは私が好きだった漫画の登場人物だった。

友達が面白い漫画があるからと貸してくれたのをきっかけとし、わんさか出てくるイケメン達に涎を垂らしながらそれはもう読み漁ったものだ。意識を取り戻した頃には、文庫本からファンブック、DVDからドラマCDまで買っていた。一寸先は沼だったのだ。

……まあ実際、その人物を目の前にすると、畏れ多すぎて一寸あれだけど。しかもコスプレじゃあない。紙にインクで描かれていた人物が、目の前で、生きて呼吸をしているのだ。


つまり単純明快に言えば、私は異世界トリップなるものをしてしまったらしい。


少し前までセーラー服を着て、友達と他愛もない話をしながら帰路に着く日々だったというのに。この世界に来ることになった日も、私は只いつものように全速力で自転車を漕いでいただけだ。唯一、いつもと違った事は、その日の天気がゲリラ豪雨だったぐらいだろうか。

卒業式の日、お別れパーティを友達としていた私は、調子に乗っていたのか(いや間違いなく乗っていました)この程度の雨など片腹痛いわと叫び、引き止める友達を振り払って何処ぞの武将のように勢いよく漕ぎ出した。その結果雨の所為でブレーキが利かず、帰り道にある只の下り坂でスリップし、電信柱にそれはもう思いっきりクラッシュを起こした。


そして目が覚めると路地裏に倒れていた、と。


いやいやいやいや。ちょっと待てよ。車やトラックに轢かれただの、運悪く誰かに殺されただの、神様に間違えて連れてきちゃったテヘペロな展開ならまだ分かるけどもね。自転車でぶつかっただけって……全然ドラマチックじゃない。

しかも目覚めてみれば小さくなった名探偵よろしく、運悪く黒尽くめの男たちの危ない取引を目撃してしまった。更に鈍臭さが今世一極まっていたのか私は、これまた最悪なことに空き瓶を転がしてバレてしまう。絶体絶命。哀れ、齢十八の純朴なる少女、ここに人生極まれり。しかし最悪が最悪を呼んだその状況で、唯一幸運だったのはその男たちがポートマフィアの裏切り者であり、直ぐに駆け付けた正当マフィアの構成員たちにより鎮圧されたことだ。

然しながら、一難去ってまた一難とは良く云ったもので、“疑わしきは罰する”をポリシーに掲げるポートマフィアで、下っ端の裏切りとはいえそんな取引をしていたことを知ってしまった私の存在は邪魔でしかない。

良くて即死、悪くて拷問の末にハチの巣。

どっちにしろジ・エンドであり、異世界でもリセットは利かない哀れな少女の人生に、幕が強制的に降ろされることは間違いなかった。

しかし殺すにはちょっと可哀想。でもこのまま自由には出来ない。んじゃお前もポートマフィアの一員になっちゃえよ。…そんなとんとん拍子で今に至る。

ポートなマフィアって聞いただけで、夢脳に浸かり過ぎた私は、先ず「あ、これ巷で云うトリップちゃいますの?」と冗談七割に思った。けれど我らが首領、並びに幹部様のお名前を聞いて確信する。ここは私の居た世界ではないことを。


だけど「自分異世界から来ましたー。うぃすうぃす」等と云えば、頭が可笑しい電波少女と思われ殺されるか、良くて此方に居る限り一生冷たい目を向けられるだ。例え信じて貰えたとしても、未来の話を根こそぎ聞き出されてから殺されると思い、私は捨てられた記憶喪失の身寄りのない子、という設定で通っている。

恐らく私の名前から裏で家族構成やら何やら調べられているだろうし、一か月経っても尚、何も言われないと言うことはきっと何も見つかっていないのだろう。良くも悪くも。其処等辺をもっと突っ込まれてしまうかと思ったけど、マフィアではそんなに珍しい話では無いらしい。この前友達になった田中も親知らないって云ってたし。だから、特に今のところ何も云われていない。

自分の中でトリップしたなぁと特に実感させるのは、目が覚めると首から下がっていたこれ見よがしな銀色の懐中時計だ。何とも厨二全開のアイテムだけれど、何か元の世界に帰れるヒントなのだろうと肌身離さず持っている。

元の世界では進む大学も決まっていたし、家族や友達だっている。それにこの世界じゃ異能ファイトも日々繰り広げられるし、この組織に所属しているということ自体褒められた話じゃない。前の世界に比べれば格段に危険な世界だ。誤った言葉一つで死ぬと云っても過言ではないのである。

正直イケメンは絵の中だけに限ると云うのが本音であり、極論云えば滅茶苦茶帰りたい。心寂しい。ホームシック、なう。

でも、いつ殺されるかは分からない物騒な世界だけれど来ちゃったもんは仕方がない。人生切り替えが肝心。楽しめるもんは楽しんどけ。こうなりゃ自棄だ。滅多にない経験(滅多にあっては困るのだけど)だと思って、ここはひとつ堪能しようじゃないかと腹を括ったのがつい先日の事である。

そんな今までの回想をしていれば、自分の服が引っ張られた。


「一寸名前!早く仕事終わらせてよ!」

『も、申し訳ありません!今、片付きましたので!』

「ねぇねぇ、名前ちゃんからも言っておくれ!このワンピィス、絶対エリスちゃんに似合うと思うんだよね!」

「リンタロウうざい」


ぷんすかと可愛らしく、頬を膨らませ怒るエリス嬢。艶やかな金髪にくりりと大きな瞳、整った顔立ち。どこをどうとっても、麗しい美少女である。愛らしい怒り方に自然と口元がえへへと緩んでしまうのを手で押さえつつ、キリが良くなったので保存ファイルに仕舞い、席を立った。

取りあえず、エリス嬢の後ろでワンピースを握りしめ泣いている我らが首領をフォローすることから始めなければ。


『でも、私もエリス嬢がこのワンピィス着ているところ見てみたいですよ』

「名前までリンタロウと同じことを云うの!?」

『えっ、あ、うーん…。ほっほら、見てください!この袖に施された繊細なレース!エリス嬢の白い綺麗な肌にとても良く映えると思います』

「うんうん!そうそう!名前ちゃんもこう云ってるし、ね?エリスちゃん」

「……名前がそこまで云うなら、仕方なく着てあげる」

『やったー!ありがとうございます、えへへ』


一寸待ってなさい、と首領の手から引っ手繰るようにワンピィスを奪い、試着室へと消えて行ったエリス嬢の小さな背中を見送る。
カーテンが締まったところで、隣から痛いほどの視線を感じた。ギギギと、錆びついた機械のようにぎこちなく横を見る。視線の主である森鴎外、今や我が首領は真顔で此方を見ていた。

血と暴力の嵐を思わせる紅の瞳と目が合う。只ならぬ緊張感で張り付いた喉に不快感を覚え、唾を飲み込んだ。動かない私に、白い手袋が嵌められた右手がすっと差し出される。それと同時に、首領の形良い薄めの唇が動いた。


「名前ちゃん、ナイス」

『お任せください』


試着室にエリス嬢が消えた後、握手を交わす首領と私。仕事を遣り切った顔で、互いに頷く。

相変わらず何を考えているのかさっぱり読めない目だけれど、それは別にこの人に限った話ではない。別に、元の世界でも他人の表情からその心境を読みとるのが上手い訳でも無かった。

冷酷で残忍、凶悪で無情。どんな状況であろうと数式の如く戦況を支配する人だとは知っている。けれど、少なくとも今、私の前では愛しいエリス嬢を可愛がる只の中年おじさんだった。だから、私も出来うる限り協力しようと思う、今日この頃なのである。


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