黒の時代編 | ナノ


▼ 寂しがり屋の独白

太宰はゆっくりと、話し始めた。


「その眼に私を入れていても、何処か別の何かを見て居る。そんな違和感を感じていた。…私を見ていないのならそれでいい。でも、そんな名前は私の心の奥深い、自分でも知らない処までずけずけと、まるで我が物顔で入ってくる」

太宰は顔を伏せたままくっと、その手に少し力を込めた。

本能的にどきり、と心臓の脈が早まる。


「初めて会った時、確かに名前には違和感を感じたよ。そして其れは、その時に限らず、君と話をしている時はいつも感じていた。大は小を兼ねる。つまり、普通であることは凡てを受け入れる事と同等の意味だ。その点では確かに名前は普通だった。恐ろしい程にね」


更に力が込められる。

気道がやや狭まり、私は無意識に少しだけ口を開けた。

太宰は目線を私から落としたまま、「でも、」と言葉を続ける。


「その瞳は常に何かを拒絶していて、違和感を感じるのと同時に酷く惹き付けられた」


顔は見えない。

でも声色から、きっと眉間に皺を寄せて難しい顔をしているのだろうと想像した。


「最初は私と同じように、この世界に退屈しているのかと思った。でも違う。名前はその先にある“何か”を見ている。だから首領から秘書に君を推薦された時は、何か裏があるのだろうと思いながらも印を押した。それに、名前の事を知らなければ、乱暴に掻き乱された私の中身が元に戻らないような気がしてね」


何か、とは太宰の未来のことなのだろうか。
この世界の先の話なのだろうか。

でも夢を見て居る様な私の瞳は、矢張り心の何処かで今の太宰に未来の太宰を重ねてしまっていた。

というか、太宰が私を秘書にしたのは森さんの提案からだったんだ。

あの人は本当に何を考えているのだろう。
太宰にとっての謎が私なら、私にとって最大の謎は森さんだ。
相変わらず何を考えてるのか皆目見当もつかない。

あの人の目には何が映っているのだろう。
私は如何見えているのだろう。


「でも君の云う通り、知れば知るほど自分の事が分からなくなっていく。だからいっその事、君を本当に普通の女にしてしまえば、自分の胸内にこびり付くこの得体のしれない塊も取り除けるのかもしれないと考えた」


だから太宰は分かりやすく私に目を掛けて、特別扱いをした。

そうすれば流石の傍若無人たる私でも何か変化はあるだろう、と。

でも、私はあろう事かそんな太宰に頭突きを食らわせるわ、罵倒するわという御茶目過ぎるほどのお転婆っぷり。きっと矢鱈に高い宝石を求め、我儘を零してくる身の御難いご婦人の方がまだ可愛いものだったろう。

頭突きとか、懐かしいなあ。あの時めちゃくそ痛かった。

ぐっと首に回る手に、また力が入った。
呼吸が苦しくなる。

太宰の顔は未だ伏せられたままで、でも手の力加減から、何かに堪えた難しい顔をしているのだろうと感じた。

こりゃ相当根に持ってるな。こっからは私に対する苦情、基罵倒タイムか…?
それとも本気で首を絞め殺しに掛かってくる?

そう思いドキドキしつつ次の言葉を待っていると、「だけど、」と太宰は云う。


「名前が私を嫌いだと拒絶した時は…息が出来なくなった。君が初めて昨日涙を見せた時、あんなに見たいと焦がれた君の弱さの象徴だと云うのに、酷い罪悪感と虚無感に襲われた。全く笑えてしまうよ。理由は知らないけど酷く混乱している君に付け込んだのは、何を隠そうこの私だというのに」


その声はとても後悔しているようだった。

今まで色々と揶揄われてきたけれど、これは嘘じゃないと、信じたい。


「捕まえたと思っても煙のように簡単に手元をすり抜けていく名前を、如何すれば自分の元に縛り付けたままでいられるのか、私も今日ずっと考えていた。どんな形になろうと私の側を離れないなら、誰の物にもならないのなら、そこに君の心が無くたってこの際構わないと」


本来なら話し合いの場を設けて、互いに歩み寄るという名の譲歩をするのだろう。

けど、太宰はそんな正攻法なんてへその緒と一緒に切り捨てたような人だ。

だからその結果が監禁だとしても、何も不思議ではない。


「そう思った筈なのだけどね。如何しても名前の苦しそうな泣き顔が、目に焼き付いて離れないのだよ。逃げたのなら、寧ろそのまま目の前から消えていなくなってしまえば良かったのに」

『でも、私は戻ってきた。いけしゃあしゃあと』

「そう。いつもの抜けた緊張感のない、何処か平和惚けした空気を身に纏ってね。憎らしい程平然と戻ってきた時は、昨日からの事が全部冗談だったのかとさえ思えたよ。本当に君は、いつもいつも想像の斜め上をいってくれたものだ。なんせ、私の考え付くありとあらゆる方法が全然通用しないのだから。答えの分かり切ってる問題でさえ、一体何を如何したらそんな愉快な考えが思いつくのか、いっそ脳みそを解剖して思考回路から確認したいほどに予想外な解答を返してくる。けれど―――――」


太宰がゆっくりと顔を上げた。

その様子に、私は目を見開く。


「それを純粋に楽しいと思っている自分が、確かに其処には存在した」


そう吐き出すように云う、太宰の声は至極優しいもので、一瞬本当に太宰の言葉なのか分からなかった。

でも彼も、私と同じように思っていてくれたなんて。

私が太宰の言葉に驚愕していると、太宰は私の首元から手をそっと外した。

そしてそのまま手を引くと私を抱きしめる。
突然の抱擁に、不覚にも心臓が高鳴った。

手の冷たさとは相変わって、身体はとても暖かかい。

そして太宰は小さく呟いた。


「……済まなかったね」

『…喧嘩をしたら、仲直りするものなんデスよ太宰。だから…私も、ごめんネ』


少なからず、貴方を不安にさせ、混乱させてしまったのだから。
歳をとればとるほど、何故人間はこうも御免を云えなくなってしまうのだろうか。


「仲直り、か。生まれて初めてだよ。そんな子供染みた事するのは」

『何云ってんですか。肩書こそ物騒だけど、私も君も、まだ子供だよ』

「…そうかもしれないね」


どこか仕方ないと認めたように笑う声が聞こえた。

今まで仲を直すなんてこともなく、それ以前に凡て自分の手で壊してきたもんね太宰は。

使えなくなったと思えば直ぐに切り捨て、何も無かったかのように清算する。
それが間違っているとは云わない。
それもまた人間関係を円滑にする中で、大切な方法だから。

…まあ、太宰の場合は物理的に“清算”してきたのだろうけど。


けど、私は太宰を切り捨てたりなんて、絶対したくなかったんだよ。


「名前の話はほとんど正しい。少なくとも、私の内にある物については合格点を出せる。織田作達だったら気付いていたとしても、こうも面と向かって舌鋒鋭く話して来ないだろうね」

『彼らは、きっと私より太宰についてもっと多くの事を理解してますよ』

「…さあ、如何だろう」


身体を離し、少し寂しそうに薄ら笑みを浮かべる太宰。

彼らは、少なくとも織田作は、気付いているよ。
本でしか読んだことのない私なんかよりも、ずっと太宰の事を理解してくれている。

だから私は、必ず織田作を助けなくてはならない。

私の見たい、貴方の未来の為に。


「名前は自分を開けっ広げにしているようで、その本体が宿る核心には近づけさせない」

『むふふ。女は秘密の数だけ美しくなれるんデスのよ』

「…その癖、中也、芥川君、Q、挙句に首領の懐にまで簡単に飛び込んでいく。向う見ずで莫迦な名前が、この世で初めて理解出来なかった女性だ。胸を張っていいよ。あ、胸無いけど」

『……貧乳の件に関しては優しい慈悲の心で聞かなかったことにしてあげよう。でもそれ、褒めてる?貶してる?』

「否、寧ろそれらを通り越して感心しているのだよ。私にはとても出来ない事だからね」


そしてその顔は、今までの私に向けた張り付けた笑みが外れたように、優しく微笑んでいて、今度は私が泣きそうになった。


「だから君の云う通り、名前について知りたくなった。なのに、名前ってば私の理解できる範疇を容易に超えてくるものだから、流石の私でも参ったよ。莫迦と天才は紙一重とは正にこの事だ」

『え。じゃ私、天才って事ですか?いやっふー!太宰のお墨付きー!』

「いーや、大莫迦だ。その上無鉄砲で、お人好しで、傍若無人で、大の男に殺されるかもしれないのにその首に手を当てさせる変人。如何やら名前には自殺愛好家の才能があるらしい」

『…調子こくなよてめー。さっきまで私に云い負かされてた寂びしん坊の可愛い子ちゃんだったくせに』

「云い負かされた?この私が?まさか!只、名前の滑舌に驚いていただけさ。善くもまあ、あんなに口八丁手八丁に話せるねえ。落語家にでもなったら?」

『落語家になったらまず貴方の事を題材にして喜劇にしてやりますよ。夜の営みから監禁まで、ネタは尽きませんなあ大臣?』

「それ、君自身も同時に貶めることになるんじゃない?」

『…………』

「ほら、やっぱり莫迦だ」

『上等じゃねええかあああああ』


太宰の胸倉を掴み、メンチを切る。

太宰はにゃはぁっと笑っているし、また最初の頃に戻ったようだ。
取敢えず、山は越えられたのだと思いたい。

…否。そんな如何でも良いことよりも、私が太宰と前のような関係に戻れて嬉しくて仕方がないのだ。


『そう云えばさっき私の話ほとんどは合ってるって云ってましたけど、何処か間違ってました?』

「ああ、あれね。名前の話には一つ訂正箇所があったのだよ」

『えええ…結構自信あったのになあ』


ちぇっと云う私に、太宰は目を細め、また優しく微笑んだ。

そして手招きをする。

何だろうと太宰に耳を寄せると、また抱き寄せられた。
そして今度は、私の耳元に口を寄せる。その感触にぞわりと背筋が粟立った。

こっここここれは!!ときメモ的なアレなのか!?
そんな心の準備が出来ておりませんがなっ!

既に一仕事終え、ほっと息を吐いた緩んだ心にこのハグである。

不本意にも心臓が高鳴る。太宰の息が耳に当たる。


そして太宰は私の耳元に口を当て、呟いた。


「私の中でだけ、君が異常だっていう処だよ」

『……………その心は』

「名前は一般的見解から見ても異常だし狂ってる」

『あんだと手前!!腹黒ドSサイコパスにだけは云われたくないデスぅ』


クソッ、期待してしまった乙女の純情を利子付で返してほしい。

気が抜けたのは精神的な物だけではなかったのか、お腹がぐーっと鳴った。
そう云えば私、今日何も食べて無い。…これは由々しき事態だ。


『お腹空いた』

「食事は運ばせた筈だけど…まさか、食い意地大魔神ともあろう君が何も食べていないのかい!?」

『私の事、そう呼んでるの太宰だけだかンね。覚えてろよ手前。後、あたくし起き抜けは和食って決まってるンですう。残念ながら情報不足だったねえ太宰君!』

「………」

『ま!ということで、あの食事処行きましょう!今日は太宰の奢りデス!散々か弱い乙女を翻弄してきた事、しっかり反省してくだサイ』

「私を翻弄してきた件に関しては君自身が証言しているのだけど?」

『…忘れました!ははっ、細けえ事は気にすんじゃねえよ』

「…本当に君って、自由奔放だね…」

『だって私は世界で一番お姫様デスから!ささ、お片付けは後にして、腹ごしらえデスよ。腹が減っては戦は出来ぬ!』


ガタッと音をたてて持っていたデジタル時計を太宰の机の上に置く。

何故時計を、とでも云いた気な太宰ににやりと笑って、余計なことを言及される前に部屋を出た。

あ、そうだ。彼奴に新しい時計買わせよーっと。
デジタル時計じゃ格好つかないしね!

でも、あの懐中時計…壊れちゃっても大丈夫なものなのだろうか。
というか、あ、壊れるんだというのが正直な感想である。

異世界アイテムだと思ったから、耐久性も異世界級だと思ったのだけど。…なんだ、異世界級って。

まあでも、何はともあれ無事に太宰と仲直り出来て良かった。
喧嘩をしていた訳じゃなンだけどね。

鼻歌を歌いながら事務所の廊下を歩いていると、太宰派の構成員が真っ青な顔をして此方を見て、何やらこそこそ話していた。生きて出てこないとでも思ったのか?失敬な奴らめ。

取敢えずOKサインを親指と人差し指でつくると、皆一様に胸を撫で下していた。
構成員の方々も、苦労していますなあ。

私はまた鼻歌を歌って廊下を進み始めた。





「……まあ、一つだけ、とは云ってないのだけど」


太宰は名前が出て行った扉にそう云って優しく微笑むと、黒外套を着直して名前の後を追った。



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