黒の時代編 | ナノ


▼ はじめまして、また今度

その日は夢も見ず、何も思うことが無く、夜と朝の境が分からない内に目が覚めた。
見慣れない天井、嗅ぎ慣れない香り、気が重たくなるほどの暗い空間。

閉められたカーテンから漏れる隙間に、ようやく朝なのだと知る。


何時意識を飛ばしてしまったんだろう。


嗚呼、腰が痛いな。それに気だるいし、肌寒い。
腕を額に当てる。気重さからはぁとため息を吐いた。
なんて情けないんだろう。情けなすぎて死んでしまいたい。
穴があったらいっその事、太宰を埋めてしまたい。…否、これだと彼奴にとって善意になっちゃうな。やっぱり止そう。

裸の所為で、自棄に布団の滑らかな触感が身に沁みた。
それはまるで昨日の悪夢のような出来事を、夢じゃないと嘲笑うようで泣く事も無く、只顔を歪めさせた。

隣にあの人は居ない。それがせめてもの救いだろうか。

のっそり、ゆっくりと起き上がる。朝は元々弱いけれど、今日の怠さは何時にない身体の怠さだ。まるで三日分の朝が一度に襲ってきたような気怠さだ。

ふと誰もいない冷たくなった隣を見る。


………あんの野郎。
やることやって一人置いてくって、なんなの…。屑だな。


そして想像通り、否、想像以上に彼奴はドSを極めていた。
…何が、とは云わないでおこう。

いつもの倍以上は時間を掛け、床に脱ぎ散らかった私の服に着替える。

あーだるい。本当にだるい。
口でもだるいだるい、云いながら太宰の寝室を出ると、執務室にも誰も居なかった。
ちらり、懐中時計を見る。

時計は十二時丁度を示していた。
机の上に書類が無いということは、恐らく今日の私の仕事はないのだろう。

それは良かった。
今日も仕事しろって云われたら、流石にもう本気で転職してた。

安吾さん辺りに頼もうかな。
特務課って、宮仕えだし……給料高そうじゃん?割に合ってそう。

太宰の執務室を後にし、自分の部屋へ向かおうと扉のドアノブを捻ったその時だった。


……開かない。


『はぁ!?なんでっ!?』


がちゃがちゃがちゃと扉を破壊せんと云わんばかりにドアノブを弄り、押したり引いたりをする。身体をぶつけたり、全体重を掛けて引っ張る。

…が、重圧な扉はビクともしない。
しかも内側からは開けられない仕組みになっている。


と じ こ め ら れ た


『うっそーん…』


その衝撃と、気怠さがダブルで私の体力を削り、その場に座り込む。

ていうかお腹空いた。
こんな時でもお腹は空くのだから、神経が図太いんだかどうなんだか。

私のライフがピンチを示して点滅してるよ…。

もう一度、誰も居ないのを良い事に大きなため息を吐いた。貞子みたいな。

しかし、如何しよう。
結局、昨日の一件では今が原作でどの地点なのかは分からなかった。
今日も太宰は居ないのだから、きっとミミックに関して調査を行っているんだろう。


焦るな。考えろ。取敢えずこの部屋を出る方法を考えるんだ。


思考を凝らしていると、何ともタイミングよく扉が叩かれる。
誰だ、そう思い扉から距離をとって扉の方を見た。

入って来たのは黒服の知らない男が二人だった。


「失礼します。太宰幹部の命により、苗字様にお洋服と軽食を持ってきました」


返事も出来ずその様子を茫然と見る。
男は机の上にトレーを置くとトレッシュを取る。

二つのロールパン、温かそうな湯気を上げるコーンスープ、スクランブルエッグにベーコン、ソーセージが二本、ちょっとしたサラダとデザートにヨーグルト。
トレー上にはこれらがそれはもう美味しそうな輝きを放っていて、まるでホテルのちょっとした洋風朝食みたいだ。

まあ時刻はお昼なのだけど。

ふわりと、腹の虫が鳴いてしまいそうなベーコンの芳しい香りがする。
空腹の私は思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。

もう一人は私の机に、私の服を一式置いた。…いや、なんでお前私の服持ってんの。


「太宰幹部からの伝言です。今日は早めに戻る。昨日と同じ処で待っているように、との事です」


昨日と同じ処で待つ。
それの意味する処は昨日と同じことをする、ということだ。
流石の私も分かる。


けど、飼い殺されるだなんて、私の柄じゃないのだよ太宰君。


まるで留守番電話サービスの様に抑揚無く男は云うと、失礼しましたと云って二人は部屋を出て扉を閉めた。それと同時にカチャリ、と無機質な音をたてて扉は閉められる。

時間を巻き戻して、今の隙を狙えば…。

そう思い、服を急いで引っ掴んで胸元の銀時計を握りしめる。


……反応が無い。


『あぁん!?』


慌てて銀時計を手繰り上げ、見て見ると、

針は先程見たときからは一分も動いておらず、十二時を差したままだった。


こ、壊れてるやないかーい!


まさか動いている時計じゃないといけないだなんて。こんなところで新しい発見である。
かの偉大なるニュートンも、こうして上から林檎が落ちてきたことに衝撃を受けたのだろうか。…否、今そんなこと如何でも良いか。

太宰!!マジ太宰!!
彼奴が昨日私の時計外してぽいっと地面に投げたから、きっとその時に壊れたんだ。
否そうに違いない。許さん。
乙女の純情奪っときながら時計まで破壊するなんて、男の…否、人間の風上にも置けない奴め。

部屋を見渡し急いで別の時計を探す。
デジタル式の数字版時計が目に入り、慌ててそれを掴んだ。

時間は寧ろ一時を過ぎていた。
……まあ昨日寝れたの遅かったしー。誰かさんの所為で。

扉が開いて死角になる場所に座り込む。


――――チィンッ


先程と同じようにコンコンとノックされた。


「失礼します。太宰幹部の命により、苗字様にお洋服と軽食を持ってきました」


返事を待たずに男達は部屋に入ってくる。
まさか普通の秘書が扉の裏に張り付いているとは思わないだろう。

私は男たちが扉を開けたまま部屋の中央まで行ったのを見て、一瞬で抜け出た。

其処からは走る。

この前中也さんの部屋に行った時、十分ほどで来た太宰の事だ。
中也さんの処に私が逃げるだろうと予測は付けている筈。

ということは中也さんには頼れない。
首領に伝えるか?…否、それじゃダメだ。

こうなった以上、行動しやすい立場にいなければ。
森さんの目を掻い潜るのは太宰と同等、いやそれ以上に困難な事。
それに…どうしても私の中には探偵社の太宰が浮かぶ所為で、太宰の方が人情に効けるのではないのかと思ってしまう。

別に森さんが嫌いなわけではない。寧ろ好きだ。
でもこの状況で森さんに頼るのは、森さんの言葉を借りるなら、非合理的で最適解ではない気がした。

其れからは事務所を出るまでに、トイレで持ってこられた服に着替え、太宰派の構成員に見つかれば巻き戻り、捕まれば巻き戻りの繰り返しで、たった十分の事なのに、既に一日以上掛かっているような感覚だった。

持ってこられた服は、私の部屋にあるものだった。…彼奴、無人の乙女の部屋に侵入したな?ぶん殴ってやる。

黒服が選んだのか、太宰が選んだのかは分からないが、服は首元まで覆われているパーカーに短パンだった。きっと私の首回りは太宰の所為で赤い痕が沢山ついているから、この服のチョイスは有難かった。


事務所を後にした私は今、横浜の河川敷を歩いている。


此処まで来れば、そう簡単に見つかることは無いはず。

取敢えず、一回考える時間が欲しかった。

あの部屋で考え事をするには、私が苦しくて無理だ。
勉強が嫌になった受験生が家では集中できなくて違う場所に行く、そんな感じ。

とぼとぼ、と肩を落として歩く。…デジタル時計を握りしめながら。

何と異様な格好なのだろう。これがラジオならまだ良い物を。
デジタル時計って…格好悪い。

ふと川を見た。
太陽の光を反射する川の光は、ひどく綺麗だった。

まるで、太宰と敦君が出会うシーンを思い出させる。


きっと私は今の太宰に探偵社の太宰を重ねてしまっている。


そしてまた、私の中の何処かで、彼は…彼らは未だに“登場人物”で、彼らは私の目の前に立っているのに、私が彼らを視れていないんだ。昨日の太宰の言葉に気付かされた。

私は、誰も視ていない。視れていない。
誰一人、森さんも中也さんも、太宰だって。

至極不本意ではあるが、昨日の所為で太宰の事を意識せざるを得なくなった。
つまり、只の登場人物と感じるにはあまりにも現実的過ぎるものを感じてしまった。

…きっと今の私なら、今の太宰をちゃんと見ることが出来る、筈。

小説の原作の方に首を突っ込むためには、どうしても今の太宰を何とかしなければならない。
結果はどうなるか分からないけど、太宰と対立することは決まっているのだ。


でも、残念ながら不安なのも事実だった。


だってだって相手は歴代最年少幹部様、頭の良さは然ることながら最恐最悪、彼が創り上げた血のリストを見れば、其処等の手練れでも泣いて逃げる代物だ。

対して私。普通。元、花の女子高生。
創り上げた血のリストと云えば赤く染めあげた成績表、と云ったところか。
実力行使は勿論、言葉でだって勝てそうにない。

気落ちして目線をふと下ろすと、ある見知った銀髪が目に入った。

心臓が高鳴る。

ボロく薄汚れている服。華奢な体。
きっとちゃんとご飯を食べさせてもらってないんだろう、座り込んで丸くなったその後ろ姿でもその身体の細さが分かるようだった。


この世界の、主人公。


君なら、何か変えられる?

私じゃなくて、君なら今を変えることが出来るんだろうか。

考える前に身体が動いた。


―――――――――――――
―――――――――
――――


孤児院から云い付けられたお使いの途中、直ぐには帰りたくなくて、河川敷に座り込んだ。

昨日はまた何も食べさせてもらえず、空腹で逆にお腹が痛い。
殴られ、蹴られたお腹が、痛い。

座り込み、顔を腕の中に埋め、ただ流れる川を見た。


生きている価値が無い。


院長先生の僕への口癖だ。
物心ついた時から、ずっと聞かされてきた。

僕には、生きている価値なんてない。

でも、それでも息をするのは、心臓が動くのは、何故だろう。


『ヘイ!ロンリーボーイ!』


隣で誰かの声がした。
顔を上げて横を身けば、何処か得意げなでも何処か疲れた顔をした黒髪の女の人が立っていた。

何故かその手にはデジタル時計を持って。


「……あ、…えっと、僕、ですか?」

『そう!君以外いないっしょ』


そう云われて周りを見渡せば確かに誰もいない。

如何したんだろうと思っていると、女の人は僕の隣に腰かけた。
黒い綺麗な髪が風に靡く。ほんのり、甘くて優しい香りがした。


「あの……何か、ご用ですか?」

『あー、まあ話し相手を探してましてね。あ、私、苗字名前って云います』


君の名前は、と笑って聞かれる。
他人に罵声を投げられることは合っても、微笑みかけられる事はなかった為に頬が熱くなるのを感じつつ、どもりながら答えた。


「な、な中島、敦……です」

『そ。敦君ね。よろしくー!私の事は名前で良いから』

「名前、さん」


少し大人びた彼女は満足げに微笑むと、後ろに手を付いて、足を放り投げた。
やんわりとした風が吹いた。


「あの…」

『ん?ああ、これ?今何時か分からないからさ!時間を知るのって大事だよね、うん』

「は、はあ……」


思わず大事そうに抱え込むデジタル時計に目を見張る。
その様子に気づいた名前さんは、普通の事だよと云う様に笑ってみせた。
明らかに可笑しいと思うのだけど、それを咎められるほど僕はこの人のことを何も知らない。

何となしにじっと見ていると彼女は川に視線を向けたまま、ところでと口を開いた。


『君はどうして此処へ?』

「…孤児院に住んでいるんですが…使いを頼まれて、そのまま」

『あ、じゃあもう帰らなきゃ?』

「そうなんですけど……帰りたく、なくて…」


あんな、地獄のような場所に帰りたくない。帰らなければと分かっているのに。
院長先生に殺されていないのが不思議なほどだ。否、嬲り殺そうとしているのかもしれない。

兎に角、院長先生に云えるのは、あの人は孤児院と云う小さな国を支配する王様だってことだ。

僕の事をまるで襤褸雑巾のようにしか感じていない。

恐怖が、身体を支配してぶるりと震わせた。


『…私もね、職場から逃げてきたんだ』

「職場?…働いてらっしゃるんですか?」

『まあね。かくかくしかじかありまして…んで、監禁されちゃった』

「ああ………へ!?監禁!?」


さらりと、物騒な言葉が彼女の口から飛び出てきた。
まるで他愛もない世間話をするような口調で云われたものだから、此方も危うく普通に言葉を返して頷いてしまう処だった。


『そー監禁。あるチートドSの腹黒野郎によって部屋に閉じ込められちゃってねえ。今は脱走中』


明らかにとんでもない事件をさらりと、まるでちょっと外出してきたとでも云うような口調で言う彼女に驚きで変な声を出す。

風で戦ぐ髪を耳元で抑え、そういう彼女はこれまた云っている内容とは程遠いニカッと無邪気な笑みを浮かべている。
…冗談、なのか?


「………大丈夫、なんですか?」

『うーん。端からみれば逃げた訳だし、殺されちゃうかもなあ』

「…!?早く遠くに行った方がいいんじゃっ!」

『彼、何とも私にご執心みたいでね。きっとこの世の何処までも追いかけてくる。そういう奴なんデスよあいつぁ』


また風が吹く。今度は少し強かった。

そう話す名前さんの顔は恐怖と云うよりも、なんだかとても悲しそうで、伏せられる瞳からは涙が流れそうに見えた。でもそれはほんの一瞬で、瞬いた後、その瞳は力強い光を持ったように思えた。


「警察に行った方が…」

『相手はちょっと裏社会で名が知れてる大物さんでね、正攻法が効かないんだよ』

「じゃあやっぱり、遠くへ逃げた方がいいんじゃ」

『否、私は戻るよ。君と話し終えたら』


自分から、地獄に戻るというのか。なんで、そんなこと出来るんだ。

メリットなんて何処にもないのに。逃げられるなら、逃げればいいのに。
正攻法がきかなくても、きっと……。

…いや、本当は僕だって分かってるんだ。
逃げ続けることなんて、出来ないってことは。

でも彼女の様に、現状の凡てを受け入れて、自らの足で地獄に踏み入れる勇気なんて僕は持っていなかった。


「どうしたら、そんなに強くなれるんですか…?」

『強い?私が?まっさかあ!』


清楚な見た目とは打って変わって、彼女はお腹を抱えてぎゃはははと快活に笑い出した。
そのギャップに唖然とする僕に、彼女は大いに笑った所為で流れる涙を拭いながら、御免御免と謝る。


『うははっ!敦君、私全然強くなんてないんだ。本当は怖くて、消えたくて、苦しくて、逃げ出したくて、こんなの全部夢だったら良いのにって思ってる』

「でも、ちゃんと自分の世界に立ち向かってる…僕にはそんな事、とても出来ない」

『なーに世界の凡てを見てきたような事云っちゃってんの!少年風情が偉そうに』

「ええ…」


ムカつく、と今度は眉間に皺を寄せ凄んできた。

当初とは全く性格が違う。
得意げな顔、満足げな笑み、悲しそうな顔、睨みを利かせる瞳。

コロコロ変わる表情に目が回りそうだ。

そこでふと、最初に声を掛けられたことを思い出した。そう云えば、名前さん…最初僕にロンリーボーイと云わなかったか?


「あの、先程ロンリーボーイって…如何してそんな風に?」

『だって、こんな河川敷で体育座りしながら俯く少年なんて、ロンリーでハートブレイク以外の何物でもないでしょ』


云われてみれば、そうかもしれない。
一人でこんな河川敷に座り込んで、物思いにふける男が居たら誰だって妙だと思うはずだ。


『ね、敦君。私はね、孤独の正体は時間だと思うんですよ』

「時間……」


そう、と話す彼女の顔は今度は優しい目をして川を見ていた。


『時間があるから孤独を感じてしまう。孤独を感じさせる時間があるから、きっと人は皆何処かに寂しさを抱えて生きてるんです。でも、今日は時間が過ぎるのが早いな、今日は遅いな、と感じる様に、その日によって孤独の度合いは違うんデス。何時だって孤独は常に私たちと共にある。時間が早くも遅くもならないのに、そう感じる様に』

「でも、じゃあ…寂しいときはどうすれば…?それも時間の所為だと割り切れるんですか?」

『いーや。出来ないね、私だったら。寂しくて死んじゃう。人間は総じて、生粋の寂びしン坊ですから』


上を向いて、名前さんは空を仰ぎ見た。
先程まで僕たちの気持ちとは相反して、空は朗らかな青空が広がっている。

気持ちは天気に左右されるけど、天気は僕らなんか見てくれない。

名前さんはまた口を開いた。


『でも孤独があるから、他人に意識を向けられる。だから、孤独を、自分を怖がらないで』

「自分を、怖がらない…?」

『そ、です。孤独はまた、己の存在価値を決めつけてきます。孤独の恐怖は、自分への恐怖と同じことです』

「…でも、僕には、生きている価値なんてない」

『何故?』

「誰一人救えない僕に、生きてる価値なんてない。僕に対する孤児院の、院長先生の口癖です。…だから、僕には…生きてる価値なんて」

『なら、私が再評価しよう』


彼女の言葉を、一瞬何を云っているのか理解するのが遅れた。

驚いて彼女の方を見ると、その顔は今まで見た千変万化していた表情の中で特に優しく微笑んでいた。


『敦君は、最初私が監禁されてるって云った時、私を心配してくれたね。建前だけだとしても、嬉しかったよ私。普通ならこんなヤバそうな奴、離れようとするっしょ。…けど、君は逃げずに私の話をこうして聞いてくれた。君は、大変優しくて良い子デス』

「優しい……良い子?」

『はい。良い子ちゃんです。君が私に生きて欲しいと思ってくれたのと同じ様に、私も君に生きて欲しいと思った。私は話すことで君に救われたんです。大事なんですよー?不安を言葉に出すのって。そして、それには必ず他者が必要なのデス』


独特の口調で、彼女はぽんぽんと僕の耳には聞き慣れない言葉を、まるで湯水を注ぐが如く零してくれる。
彼女は僕の背景にあるものを知らないから、何の気なしに話しているのかもしれない。


『世界中の人間が君の死を望んでも、私が君に生きてって叫んでやろうじゃないか。たった一人かもしれない。でも誰も居ないより少しはマシでしょう?だから――――』


でも、それでも如何して、貴方は今知り合ったばかりの僕に、そんな言葉を吐いてくれるのか。


『私にも、生きて欲しいって願っててくれないかな』


その時、彼女の泣きそうな微笑みを見て分かった。

彼女も、僕と同じなんだ。

自分の存在価値が分からなくて、まるでこの世にたった一人落ちてきた帰り方の分からない迷子になった子供の様に、何かを、自分を認めてくれる何かを探している。


「勿論…願います。ずっと、名前さんに生きてて欲しい、と。約束します」

『………うん。有難う。私も約束するよ』


最後に彼女はまた眩しく歯を見せて、ニッと笑うと、元気よく立ち上がった。


『よし!いっちょあの憎きハイスペックドS野郎を懲らしめてきますか!』

「え、でも危ないんじゃ」

『弱気はノンノンノーン。命短し!戦え乙女、デス。こんな如何でも良い事に、一々悩んでいる暇など無いのだよ。少年よ大志を抱け!あ、これ飴ちゃんあげンよ』

「うぉあっ!?」

『お互いこの素晴らしく憎い世界を生き抜こうじゃないか。また、何時か会おう少年!』


絶対に如何にでもしていい事ではないと思うのだけど…。

彼女は軽くそれじゃっと手を振ると、ダッシュで元来た道を帰って行った。
その先は決して彼女にとって平穏な場所ではない、地獄なのに。

最後に彼女のパーカーのポケットから投げ渡された、手元の飴を見る。
林檎の絵が描かれているから、おそらく林檎味だ。

でも空腹で倒れそうなのに、どうしてだかその飴を食べたくなかった。
食べて無くなってしまったら、今の出来事が凡て夢になってしまうような気がして、その包みを開くことが出来ない。

ぎゅっとその飴を握りしめる。


「名前さん…」


もう一度、誰に向かってと云う訳でもなく名前を呟く。

あんなに印象的だったのに、夢のような人だった。

まるで、彼女の存在をこの世で僕しか認めていないような、見つけられていないような気がした。そしてまた、僕が居なくなってしまったら、彼女もまた消えてしまうような気がして、優越感にも似た使命感を抱いた。

その気持ちは自分が獅子にでも成った様な錯覚を感じさせ、今なら何でも出来るような気を起こさせる。

先程より軽くなった足で、僕は僕の地獄へと帰った。


また、いつか、貴女に逢うことが出来るなら。




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