黒の時代編 | ナノ


▼ Xの証言

黒外套も背広も残らずピシりと糊を利かせた、紳士然とした男が、一人広い廊下を朝磨いたばかりの革靴を鳴らして歩いていた。

男、広津柳浪は懐から螺子巻き式の金時計を取り出し、時刻を確かめる。
広津の直属の上司である、太宰治へ任された調査の報告書を提出する為だ。

太宰と約束した時間にはまだ余裕がある。

けれど余裕があるに越した事は無い。
足早に長い廊下を歩きながらつい、ふと広津は最近耳に入った情報を思い出した。

情報というのは、ついこの間から太宰に秘書が就き、しかもその秘書は前は首領の秘書だった、という話である。

今迄太宰の秘書に成りたがる者はかなり居た。
大概が太宰に想いを寄せる女性構成員だったが、太宰自身がそれだと女性の方にばかり気がいって仕事が出来ないと付けなかったのだ。

それが本心からかどうかは判らないが、太宰が自分の云っていた事を曲げるというのは相当の事である、と広津は感じていた。

あの太宰の心境を変化させる女、苗字名前。

実は広津は前に一度彼女の姿を見たことがあった。
と云っても、本当に彼女が廊下を通り過ぎるのを見ただけなのだが。

黒い髪が印象的な、何処か落ち着きのある大人びた雰囲気を受けていた。だが、だからと云って何か特別なものを感じるかと訊かれれば、それには否と答えるだろう。

歳は太宰と同じく、身寄りのないところをマフィアに拾われ、以来情報処理や書類整理をしているらしいということは知っている。
今のところ異能を持っている、というような話も出ていない。
ただ極々普通の一般構成員だった筈。

見た目からは確かに仕事が出来るような印象を受けたが、実力は如何な物なのか…この目でしかと確かめよう。


そう考えていると、何か妙なことに気が付いた。


何処からか誰かの話し声が聞こえてくるのだ。

しかもそれは、我等が上司である太宰の執務室へ近づくにつれて大きくなり、やがて長い廊下を進み扉が眼先まで近づくと、それが如何やら怒鳴り合いだということが分かった。

耳を澄ませ、最終的には押し付けてみるが、分厚い木製の扉を介しているため声はくぐもって話している内容ははっきり聞き取れない。
…がしかし、重圧な扉を超えて聞こえてくる声は最早叫びのそれだった。

声の大きさ、荒げ方からして尋常なことではない。


まさか……何か問題が発生したのか?


さては敵に奇襲を仕掛けられたか。
…否、歴代最年少で幹部まで伸上った太宰の事だ。そう易々と奇襲され、やられる訳がない。

だとしたら、誰かを罰しているのか……。

何にせよ、何か問題が起こっているのは事実。


広津は緊張した面持ちで扉のドアノブに手を掛け、ゆっくりと開く。

そして飛び込んできた光景に驚愕し、この物騒な世界でら長く生きてきたものの、これまでに無い程の衝撃に目を見開いた。


そこでは――――――


「ちょっと名前!早くこっち来て私を助けてよ!!!」

『無理!こっちも一杯一杯なんデス!弾も少ないし、回復しながら持ちこたえて!』

「いや私が無理!死んじゃう!!」

『はあ?えっていうか何でそんなゾンビに囲まれてるの!?ゾンビほいほいかよお前!』

「彼らよっぽど私と心中したいのだねえ!」

『もうゾンビと心中すれば良いのでは?』

「残念ながらゾンビは既に死んでるし、美人じゃないから無理」

『…っああもう!まだボスの体力半分も減ってないんデスよ!?ここは一回、回復して立て直してから』

「無いよ」

『は?』

「だから私、回復薬持ってない」

『え……待って待って。ごめん。さっき結構渡したよね?あれは?』

「気付いたら無くなっちゃった」

『無くなっちゃった!じゃねえデスよ!!ボス戦なのに回復薬持ってないとか莫迦なの?死ぬの!?』

「そう!だって回復薬なんて持ってたら、死ねるものも死ねないじゃない?」

『ゲームの中でまで自殺を考えンなあああ!』

「そう簡単にやられてなるものか!死ぬなら心中!喰らえ爆弾!!」

『否、ちょ、待って私そこに居るからあああ!あぁってめ、瀕死になっちゃったじゃねえかああ!』

「あ。死んだ」

『え、あ、ちょおおおお!お前えええ!!…あぁっ、……死んだ』


デデーン、と何かが終わってしまったような悲しい効果音が聞こえた。


今自分は組織の中でも生ける伝説、あの太宰幹部の執務室に入ったはず。

それがどうだろう?

目の前には広い机があるにも関わらず、狭い場所に閉じ込められたように互いに肩を寄せ合い、携帯電子盤と格闘する年相応の少年少女の姿があった。

掌中の画面に気を取られ過ぎて、部屋に入った広津には全く気が付いていない。

確かに二人がしていることは、その風貌に相応しているのは頭では分かっている。

だがその肩書は片方は歴代最年少幹部、もう片方は元歴代最年少首領秘書、だ。
彼女とて今は首領の秘書でないにしろ、五大幹部の秘書ともなればそれなりの地位である。―――のだが。

ゲームオーバーになってしまったのか、彼女、苗字名前は「あああ」と盛大なため息(否、最早あれは叫びだ)を吐いた後に携帯電子盤を机に放り投げたかと思えば、椅子の背凭れへ全体重を掛け、ひっくり返ってしまうのではと危惧する程に寄りかかった。


早々に広津の中で構築されていた名前の印象は木端微塵に粉砕された。


何だこの女は。何なのだこの女は。

上司に対するあり得ない態度も然ることながら、あの太宰幹部をお前呼ばわりし、何かとんでもなく恐ろしい事を云っていなかったか…?

申し訳なさ程度に残された敬語は支離滅裂としており、最早敬語とは全く呼べない。
まるで別の種類の言葉遣いの様に思えた。


「いやァ、惜しかったねえ」

『惜しいも何も、云っておくけどまだショットガン二発しか打ち込めてなかったから。しかも私の死因太宰だから。ポンコツかよお前』

「へえ……?それ誰に向かって云っているんだい?」


広津は今いるマフィアの構成員の中でも先代から仕えている、最古参の一人だった。

長年ここポートマフィアに仕え、それなりの経験をしてきた筈なのだ。
が、今しがた名前がポートマフィア界では生ける伝説とも呼ばれるあの太宰に放った言葉が信じられず、まるで背後から思い切りバックドロップを決められる様な衝撃に身体が動かないではないか。

太宰は普通の人間が睨みつけられてしまえば、数日は悪夢に現れて魘されるに違いない、冷酷な血と暴力の暴風を感じさせる目を名前に向ける。


―――――ああ、あの女は殺される


しかしながらその恐ろしく冷たい光を宿した瞳を向ける太宰に、愚かにも気付かない哀れな彼女は、未だ脱力したように仰け反って椅子に座っている。
また最初からだよんもーと、未だ己の行く末では無く、電子盤の行く末を心配している。

太宰の手がその細い首に伸びた。


そして―――――


「名前があの時、もっと早くに敵の懐に入れていれば良かったのだよ!」

『いひゃいでふ(痛いです)』

「生意気で愚物で阿呆な名前には如何やらお仕置きが必要なようだ。そう思わない?」

『んにょおおおおお』

「……失礼します」


縊り殺すと感じられた殺意を宿した筈のその手は名前の首を過ぎ、彼女の頬を捉えた。

ぎい、と力任せに捕まえられた頬は限界まで伸ばされ、相当痛いのだろう名前は目尻に涙を溜め、解放されたいと太宰の腕を叩く。

その時には既に太宰の瞳に先程の鋭利な刃物のような冷たい鋭さはなく、ただ腹が立つというなんとも単純な少年宛らの心理を表しているだけだった。

状況が整理出来ない。しかし、かと云ってこのまま立ち竦んでいる訳にも行かず、改めて恭しく礼をする。


先程より、かなり大きな声で。


二人は同時に此方を見た。

太宰幹部は、ぱっと名前の頬を掴んでいたその手を離す。

そしてまるで何もなかったように、素早く彼女は無言で自分の秘書机へと座り、太宰もまた座りなおして手を顔の前に組み微笑んだ。


「やァ、広津さん。ご苦労様」

「…労りの言葉感謝いたします。報告書の提出に参上した次第です」

「ん。助かるよ」


今見ていた光景は凡て夢だったのかと錯覚するほどに、執務室はあるべき姿を取り戻していた。

書類を渡しお辞儀をしつつ、ちらりと彼女を盗み見る。

真顔でパソコンに手元の書類を、何事も無かったかの様に打ち込んでいた。

しかしその頬は痛々しく、掴まれていた部分が赤みを帯びている。


―――――夢では、ない


「この間の件だね」

「…は、はい。調査の結果は黒でした。予定に従って構成員を太宰殿の御言葉通りに配置した為、被害は最小限に食い止められ、相手の組織は根絶やしに出来たかと思われます」

「やはり勝手口からの潜入だったか…全く詰まらないね。報告有難う」

「いえ。…それでは失礼致します」


混乱しているせいで何処かふわふわとした足取りのままに扉へ向かい、執務室を後にした。

扉を閉じた後、まるでラジオの音を突然、最大の大音量に変えたようにまたあの騒ぎ声が聞こえてきた。


痛む頭は疲れだけの所為ではない筈。


後に二人の関係は、組織内で専ら噂の的になっていった。


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