黒の時代編 | ナノ


▼ アナグマの酒場、一

深夜、自分の行き付けである酒場へ、誰かに呼ばれたような気がして足を向けた。


『―――――に、―――――すか!』

「――。―――――」

『こ―――――が!!』


今日は自棄に騒がしい。
声色からして、女だろうか?
口論している様子から、女の方が大分怒り心頭している。

いつもは何も聞こえずただ静寂ばかりが空間を支配しているのに、如何やら今日は先客が騒いでいるようだ。

酒場の扉を潜ると、声はより一層大きくなった。


『だーかーら、私は良いって云ってンでしょ!セクハラで訴えっぞタコ幹部!!』

「私の勧める酒が飲めないって云うのかい?」

『そうだよ。そう云ってるンだよ私は。分かってるじゃあないデスか』

「私に対して益々粗雑な態度になってるけど、一応名前より上の立場だからね。帰りたければ少しは敬意を払い給え」

『ああ、神様仏様太宰様。その大海原の様に寛大な心で私めに帰宅の許可をくだサイ』

「駄ァ目」

『……こんのっ…クソチートハイスペックうんこ野郎がっ!!』

「…君、もう少し自分が女だって云う自覚を持ったら?」


酒場では既にカウンターの席に太宰が座っており、その奥に見知らぬ、女性というにはまだ幼く少女と云うには大人びた、太宰と同じぐらいの年頃の女の姿があった。

彼女は艶のある黒髪を自然に流し、可愛いというよりは綺麗な部類に入る顔を太宰に向かってこれでもかと歪ませている。
その肌は瓦斯灯に照らされているにも関わらず、女特有の白い肌理細やかな肌が見て取れた。大人びた雰囲気に、スーツも似合っている。

何故あんなにも怒って居るのかは分からないが、黙っていれば窓辺で静かに本でも読んでいそうな清楚な美人に見えるだろう。

しかし太宰が女を口説く姿は何度も見てきたか、あんな風に同目線で子供の口喧嘩のように云い合う姿を、少なくとも俺は見た事が無かった。

物珍しさに思わず立ち止まり、観察してしまう。

いつあの二人の仲へ入ろうかと機会を窺っていると、女の方が俺に気付き太宰を肘で小突いた。
それに対して背を向けていた太宰は、直ぐに此方へ身体をぐるりと回転させ嬉しそうに微笑を浮かべる。


「やァ、織田作」

『こんばんは』


それに対して手を掲げて返事をし、太宰の隣へと座った。

女はぺこりと人受けの良い笑みを浮かべてお辞儀し、それに合わせ自分も軽くお辞儀を返す。


「お前が此処に誰かを連れて来るなんて、珍しい事もあるもんだ」

「まあね。紹介しよう!彼女こそは奇天烈を極めたる酔狂人!苗字名前こと、通称食い意地大魔神さ」

『変な脚色して紹介すんな貧弱若布頭、海に還すぞ。改めまして、どうもー!名前はさっき太宰が云った通りです。私のことはどうぞ気軽に名前って呼んでください!』

「ああ。俺は織田作之助だ。皆からは織田作って呼ばれてる」

『…そう。織田作、デスね』


何処か噛み締める様に俺の呼称を復唱したように聞こえたのは、気の所為だろうか。

軽い自己紹介をしている間、何も訊かずともバーテンダーがいつもの蒸留酒のグラスを置いていた。

そのグラスを手に取り、酒を渇いた喉に流し込む。


「ところで、何をあんなに騒いでいたんだ?店の外からも声が聞こえてた」

「ああ、彼女は野蛮人だからね」

『違います。こいつが私に無理矢理、酒飲まして来ようとすんですよ』


そう云う彼女の手元には如何やらオレンジジュースらしいものが置かれている。

カウンターにはこの二人だけ。
つまり必然的に太宰が己の酒を名前に飲ませようとした事になる。

幼いながらに酒好きの此奴が如何な理由があろうと他人に自分の酒を譲って、挙句飲ませようとするなんて。

余程彼女が酒を飲む処を見てみたいのか。
或いは、只の嫌がらせか。


「酒が苦手なのか?」

『いやー苦手って訳じゃあ、ないん、デスけど…』

「名前は自分が大人じゃないことを嘆いているのだよ、織田作。成人など高々数字の線引きに過ぎないのに!」


何処か閥が悪そうに、目線を反らして歯切れ悪く名前は云う。
それに対して太宰が肩を竦めてやれやれと云わんばかりの態度を取った。

太宰と同じぐらいに見えていたが、まさか本当にそうだとは。


「なるほど。それは仕方がないな」

「でも織田作、大人の階段を登る手助けをするのも大事だろう?」

「そう云われれば、そうだ」

『ちょとー織田作さん!そこ流されないで。逆境に負けないで!!』

「頑張るべきか?」

『いえーす。尽力すべきデス。ねばーぎぶあっぷ!』

「織田作、こんな妙ちくりんの為に尽くす力なんて針先ほども要らないよ」

『あんらあ?心の大きさとブツの大きさは比例するんですのよ?』

「つまり大海原の様な心を持つ私のものは凄い!…とそう云いたい訳だね名前は」

『針先より小さいって云ってるんですううう。そんなちんけな心で満足する人なんて、精々漆黒の覇者の坊やぐらい……』

「漆黒の覇者?」

『あー……なんでもナイです』


何処から漆黒の覇者だなんて如何にも恐ろしそうな名前が出てきたのか。

太宰をちらりと見れば肩を竦められた。
頭の良い此奴でもその悪名高い人物は思い浮かばなかったらしい。

しかし、先程から二人が繰り出す弾丸トークのようなものに着いて行けない。ある意味、物凄く波長の合った阿吽の呼吸の賜物だ。

ひょっとしなくても、二人は仲が良いのではないかと思う。

そもそも太宰が此処に連れて来ている時点で、其処等辺で安い誘い文句を吐く女たちより、名前を遥かに特別視していることは分かっていた。


『蟹缶喉に詰まらせて窒息すればいいのに』

「名前にしては名案じゃないか!けど惜しい!苦しんで死ぬのは嫌だ」

『………もうツカレタ。お家帰りたい』


太宰は本当に口が達者な奴だ。
諦めたのか名前は顔を背け机に突っ伏した。
少し可哀想に思う。

でもそれが可笑しくて仕方がないと云わんばかりに肩を震わせ笑いを堪えながら、太宰は指先で名前の黒髪を一掬いし弄くっている。

いつも何処かこの世の全てに退屈したような瞳をしていたが、その時の太宰の瞳には只々愉快という色が滲み出ていて、見ている俺もなんだか嬉しく思い自然と口元が緩んだ。


「女性にそんな罵詈を頭ごなしに投げつけるのは感心しませんね」


入口の方から声がした。

見ると学者風の青年、坂口安吾が階段を降りてくるところだった。

一見分からないがこれでも我々と同業。
マフィアの専属情報員だ。


「やあ安吾!暫く見なかったけど、元気そうじゃあないか」

「元気なものですか。東京出張からたった今帰ってきたばかりなんです。日帰りで。古新聞みたいにくたくたです」

「いいなァ出張。私も遊びに行きたい。あ!紹介するよ、此方――」

「知っています。僅か二か月で異例の出世をした首領秘書、苗字名前さんですね」

『如何にもタコにも。情報員の坂口安吾さん』

「僕の事も知っていましたか」


安吾は俺達を通り過ぎ、名前の隣のバー・スツールに移動する。

机に突っ伏していた名前はいつの間にか起き上がっていた。


「おや、知ってたのか。そいつは話が早い」

「まあこうして会って話すのは初めてですが。彼女には私が書きあげた書類をパソコンでまとめて貰っています」

「名前は首領の秘書なのか?」

『そーです。なんか紆余曲折在りまして、気付いたら首領の隣で秘書としてエリス嬢と遊んでました』

「紆余曲折、ねえ」


意味深に復唱する太宰を名前がじとりとした目で見た。なんだか兄妹のようである。

しかし彼女の首領秘書という肩書には、正直驚いた。
一見普通の、それこそマフィアか如何かすら疑う程に平凡な雰囲気を身に纏っていたから。

首領の秘書ともなれば、それなりに上の地位だ。
五大幹部程ではないにしろ俺の様な肩書も何もない最下級構成員からすれば、雲の上の存在。

歴代最年少幹部に、歴代最年少首領秘書。
マフィアで未成年がこの肩書を背負っているとは…世も末だ。

安吾は肩から下げていた図嚢を机に置くと「マスター。いつものを」と云う。
マスターは安吾が腰かけるのとほぼ同時に、黄金色の液体を安吾の前に置いていた。


「大体マフィア全員が貴方の様に暇つぶしで生きている訳ではないのですよ太宰君。勿論仕事です」

「私に云わせればね安吾。この世に存在する凡ての物は死ぬまでの間の暇つぶし道具だよ」

『……』

「それで仕事って何の?」


名前の顔に陰りが見えた気がした。

安吾は少し視線を宙に彷徨わせてから答る。


「魚釣りです」

「へえ、それはご苦労様。釣果は?」

「ゼロ。まるで無駄足でした。―――――」



安吾と太宰が談笑し、俺が話を聞く中で、俺は名前の横顔から目が離せなかった。

何かを堪えているような、苦しそうな視線は彼女の目先のジュースを睨みつけていた。

二人は名前の様子には気が付いていない。

如何してそんな顔をするのか、何を考えているのか。何故そんなに泣き出してしまいそうなのか。
女の事に関して詳しくない俺には少しも分からなかった。

太宰なら分かるのだろうか?

彼女が睨みつけていたジュースを手に取ってその白い喉に流し込むのを見届けたのと同時に、太宰が俺に話を振ってきた。


「そう云えば、私達が此処で飲むようになってから久しいけど、織田作の仕事の愚痴ってあまり聞かないなあ」

「そうですね。僕や太宰君、名前さんと違って、織田作さんの業務は少し特殊ですから」

「名前は只の保育士だけどね!」

『超一流ってのを付けて貰えますかねえ?』

「可憐なエリス嬢を君と云う破壊神が怪我させないか、私は心配で心配で、おちおち夜も眠れないよ!」

『そのまま一生寝なきゃいいのでは?』


そう太宰に言い返す名前の顔には先ほどのような陰りは見えない。

一番初めに見た、太宰に全表情筋を屈指して顔を歪め言い返す無邪気な姿だった。


「特殊な訳ではない。単に語る価値がないだけだ。聞いても面白くない」

「まあたそうやって隠す!はっきり云ってこの中で織田作の仕事の話が一番面白いのだからね。白状して貰おうか。この一週間でどんな仕事をした?」


俺は考え、ここ一週間の仕事を思い出し、指を折りながら答えた。


「マフィア傘下の商店街で起きた盗難事件で犯人の小学生を懲らしめた。それから拳銃を紛失したと云う系列組織のチンピラとそいつの自宅を掃除して、結果炊飯釜の中で発見。続いてフロント企業の役員が愛人と妻に挟まれて修羅場だったのを仲裁。あとはマフィア事務所の裏手で見つかった不発弾の処理」

「ねえ織田作、真剣に頼むのだけど、私と仕事交換しない?」

「無理だろう」

「だって不発弾だよ!二人とも聞いた?どうして織田作にばっかりそんな面白い仕事が回ってくるのさ?不公平だ!」

『太宰の頭の中は何時だって不発弾が連発してるし、なんなら宇宙大戦争が起こってるよ』

「違いありませんね」


太宰が目を輝かせ興奮しながら身を乗り出す。

それとは対照的に、そんな太宰に対して名前はジュースを飲みながら何処か冷めた目で罵倒し、安吾は頼んだ酒を口にしてそれに同意した。


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